フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
有村瑠衣は如何ようにして、排泄行為に快楽を見出してしまったのか。
それはまだ、瑠衣を絶望と汚辱だけが支配していた、あの独房での出来事だった。
***
冷え切った独房の空気は、針のように尖っていた。
瑠衣は、ささくれ立った板張りの床の上で、脂汗を滴らせながら身をよじっていた。
下腹部に、鉛を飲み込んだような重く熱い塊がある。限界は、とうに超えていた。
「……ない……どうして……」
彼女の視線は、部屋の隅を彷徨い、そして絶望に凍りついた。
あるはずの物が、ない。
排泄のための、あの忌まわしい桶が、忽然と姿を消しているのだ。昨日の回収の後、看守が戻し忘れたのか、それともこれは新たな陰湿な虐めなのか。
理由はどちらでもよかった。問題は、今、彼女の括約筋が悲鳴を上げ、決壊寸前であるという現実だけだ。
「う、ぅう……っ」
瑠衣は内股を擦り合わせ、腰をくねらせた。
黒いビキニの中で乳房が大きく波打つ。その豊かな重量感さえ、今は疎ましい。
冷や汗が剃り上げられた頭皮を伝い、首筋へと流れ落ちる。
ここでするわけにはいかない。床に垂れ流せば、後でどんな罰を受けるか分からない。何より、最後の人間としての尊厳が、それを拒否していた。
だが、生理現象は理性をあざ笑うかのように、波状攻撃を仕掛けてくる。
下腹部の圧迫感は、もはや痛みへと変わっていた。
彼女は這いつくばるようにして、手元に残された数少ない所有物――数枚の古新聞と、硬い古紙に目をやった。
これしかない。
瑠衣は震える手で、それらの紙をかき集めて床に敷き詰めた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
誰に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。
かつての清廉な自分へか、それともこれから汚される床へか。
瑠衣は決死の覚悟で紙の上に立ち、腰を下ろそうとした。
ガチャリ、と重い金属音が響いたのは、まさにその時だった。
「……ん~、桶もないのに催しちまったんか?」
檻の前を、巡回中らしき看守が通りかかった。手には探していた桶がぶら下げられている。
瑠衣は涙目で懇願した。
「お、桶を……お願いします、もう、我慢できなくて……ッ」
「ああ、これか? 欲しいか?」
看守はニヤニヤと笑いながら桶を掲げ――次の瞬間、それを放り投げた。
ガラン、ゴロン。
乾いた音を立てて、桶は瑠衣の手の届かない廊下の彼方へと転がっていった。
「あ……」
「その
「そ、そんな……」
瑠衣の顔が絶望で曇る。排泄の瞬間すら、晒せと命じるのか。
そんな瑠衣を嘲笑うかのように、看守は更なる恥辱を求めた。
「おい! 来てみろよ! 丸刈り剛毛ピアノが、今から床に野糞をひり出すってよ!」
大声を聞いて、休憩中だった数人の看守たちがわらわらと集まってきた。
鉄格子の向こうに並ぶ、卑俗な好奇心に満ちた複数の目、目、目。
動物園の檻を見るような、あるいは見世物小屋の痴女を見るような視線。
瑠衣はたまらず腰を引かせた。
嫌だ。恥ずかしい。もうたくさんだ。
こんな姿を何人もの前で見られるなんて。
あれだけ屈辱を味わわせておいて、まだ足りないというのか。
「おらどうした、早くしろよ!」
「その剛毛ジャングルから一体どんなウンチが出てくるのかな~?」
罵声と嘲笑のシャワーが、怒りと苦痛をさらに逆撫でする。
一体どうすれば。……いやどうしようもない。やるしか、ないのか。
その極限の羞辱の中で、瑠衣の限界を超えた脳髄に、稲妻のような閃きが走った。
***
――なぜ、彼らは
――なぜ、私は隠そうとしているの?
彼らが興奮し、囃し立てるのは、私が「恥ずかしがっている」からだ。
清楚面したピアニストが辱められ、便意に苦悶する姿に、彼らはサディスティックな優越感を覚えているのだ。
ならば。
もし私が、これを「恥」と思わなかったら?
この行為を、ピアノ演奏と同じような「表現」として行ったら?
***
底知れぬ闇に、夜明けが訪れたような気がした。
絶望が消え、冷徹な狂気が満ちていく。
おどおどと泳いでいた視線が一点に定まり、これから奏でる「
「……いいでしょう」
瑠衣は冷たく言い放った。
そして必要もないのに、身につけていたビキニの紐を上下とも解いた。
するり、と布が落ちる。
もう隠すべき部位などない。どうせ全部見られているのだ。
彼女は全裸のまま、看守たちの目の前で、バレリーナのように優雅に、そして大胆に足を大きく広げた。
黒々とした陰毛の森と、充血して開きかけたピンク色の粘膜が、照明のない薄暗い独房で妖しく浮かび上がった。
「お?どうした?丸刈りにサービスされても嬉しくねえぞ?」
「……あいつなんか目据わってね?」
予想していた反応――泣き叫び、懇願する姿――とは違う瑠衣の姿に、看守たちの声のトーンが下がっていく。
瑠衣は観客を見下ろすように顎を上げ、括約筋を開放した。
――――ブリュリュリュッ、バタバタバタッ!!
それは遠慮も恥じらいもない、まさに野性的な轟音だった。
新聞紙の上に、熱を持った汚泥が勢いよく叩きつけられる。
強烈なアンモニアと腐敗臭が、一瞬にして周囲の空気を制圧した。
「うわッ、こいつマジでウンコしやがった……!」
「おえっ、くっせえ……」
「ピアニストのくせに下品な音出しやがって!」
「俺等掃除しねえからな!お前がやれよ!」
看守たちが鼻をつまみ、ドン引きして後ずさる。
その罵声の嵐が、もはや瑠衣にはパフォーマンス後の歓声であるかのように伝わり、排泄を終えた後の開放的な気持ちを更に高ぶらせてくれる。
(ああ、人前でウンチ出すのって、こんなに気持ちいいんだ……)
看守たちが目の前の奇行に気圧される中、腹の中のすべてを出し切った瑠衣はうっとりと目を細めた。
「……お楽しみいただけました?」
捕らえられた無力なピアニストが、この
***
それ以降、瑠衣は排便のたびに鉄格子の外へ見せつけるようなポーズをとり、看守から悲鳴のような罵声を浴びせられることを歓びとしてしまったのだ。
「看守さん、こっちを見てください?私の麗しいウンチが顔を出しますよ?」
「うるせえ!やめろ!気持ち悪いんだよ坊主女!俺たちまで狂わせようとすんじゃねえ!」
「嬉しい!もっと拒絶して!もっと気持ち悪がって!」
「こいつやっぱクスリやってんじゃねえのかよ……頭おかしなるで……」
彼女の釈放が決まったのは、そんな日々が数日続いた後だった。