フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
地下への階段を降りるたび、気温が一度ずつ下がっていくようだった。
巨大な地下採石場跡。 野球場がすっぽりと入るほどの広大な地下空間は、数億年をかけて形成された凝灰岩の柱によって支えられている。気温は摂氏8度。地上の猛暑とは程遠い冷気が漂う。ここはかつて石工たちが命を削って掘り進めた労働の現場であり、今は静寂だけが支配する「石の神殿」だ。
「……寒い」
コツ、コツ、と
「準備はいいですか。ここが、あなたの最後のステージの前哨戦です」
「うん」
瑠衣はバスローブを脱ぎ捨てた。 冷気が刃物のように裸の肌を刺し、乳首が棘のように鋭く尖る。身に纏うのは、深い漆黒のドレスのみ。この圧倒的な「石の回廊(伽藍)」において、彼女はたった一人の生きた異物として君臨する。
「テーマは『刹那の白龍』。……この歴史ある神殿に、あなたのムジカで”龍”が生み出されるのです」
最近はKも、排泄物のことをムジカと呼ぶようになった。仰々しい表現が好きだから乗っかってくれているのだろう。
瑠衣は岩肌の前へと歩を進めた。 天井から差し込むわずかな外光と、Kが配置したバックライトが、彼女のシルエットを幻想的に浮かび上がらせる。
彼女はゆっくりとドレスの裾を捲り上げ、その場にしゃがみ込んだ。 石の床は氷のように冷たい。 その冷たさが、下腹部にある熱い塊の存在を際立たせる。
(ああ……なんて罰当たりで、気持ちがいいんだろう)
数十年、数百年と変わらずにそこにあり続けた石の床。 そこに、今食べたばかりの、すぐに腐って消えてしまう汚物をぶちまける。「永遠」に対する「刹那」の挑戦。それは、かつてコンサートホールで感じた高揚感をも凌駕する、背徳的な情動の発露だった。
「……んっ……はぁ……」
瑠衣の吐息とともに、いよいよ体内の熱い塊が、押し出される。
――――ピチャ、ポト。
静寂の神殿に、粘着質な排泄音が響き渡る。 瑠衣の股間からひり出されたその固形物は、外気との温度差によって猛烈な湯気を立ち昇らせた。これがKの言う「龍」だ。バックライトに照らされた白い龍が、彼女の身体を包み込むように覆っている。
カメラを構えるKの姿から、シャッター音が強いリバーブを持って響きわたった。一枚、また一枚。神聖な空間が汚されていく様が、永遠の記録として刻まれていく。
瑠衣は恍惚とした表情で自らの分身を見つめた。 それは石の床の上で、圧倒的な存在感を放っていた。この痕跡は、やがて時間の経過とともに消えてしまうだろう。 だがこの瞬間、この空間を支配したのは間違いなく石の歴史ではなく、彼女の肛門からひり出された「生」の証だった。
***
撮影を終えた二人は、控室で明日に迫ったイベントの最終確認を行っていた。部屋には、戦いの前夜特有の、張り詰めたような静けさが漂っている。
明日は、この石の神殿で最後のパフォーマンスを行う。
「……ねえ、Kさん」
温かいコーヒーを啜りながら、瑠衣が口を開いた。
「ネットでKさんの正体について、色々な噂が飛び交ってるのは、知ってるでしょ」
「はい」
「その、元写真家だとか、カルト教団の教祖を目指してるだとか……。あとは、警察に深い恨みを持っている復讐者だ、とか」
瑠衣はカップの縁を指でなぞりながら、伏し目がちに言った。
「私、今まで聞かないようにしてきた。Kさんの正体を知ってしまったら、この関係が終わっちゃう気がして……怖かったから」
Kは手元の資料から目を離し、瑠衣に目を向けた。
「……そうですね、噂の一部は、当たりです」
そして、Kは静かに語り始めた。
「私は確かに、昔は警察官でした。いわゆるキャリア組というやつです」
「えっ……」
「ですが、ネットで囁かれているような、警察組織への復讐なんて壮大なことは考えていませんよ」
彼は薄く笑った。それは、いつもの陰気な笑みではなく、どこか憑き物が落ちたような、穏やかなものだった。
「私はただ、あなたのような美しい方が、生物としての『真実』の姿を包み隠さず見せることに、無上の価値を感じているだけです。 社会が隠そうとするものの中にこそ、美は宿る。それを証明したかった。……それだけです」
そう言ってKは微笑んだ。瑠衣が初めて見るほどに優しく、そしてどこか寂しげな笑顔だった。
「ついでにお話ししておきますと、明日のイベントで警察が動くことはありません」
「……えっ?」
瑠衣は耳を疑ったが、Kは淀みなく続けた。
「かつての同僚や上層部に、話を通しました。これ以降は活動休止することと引き換えに、ですが」
「……そ、そんなことが、通るの?」
「通りますよ。警察というのは、身内には甘い組織なのです。だからあなたは、何も心配せずに『演奏』に集中してください」
なんて頼もしい人なのだろう。瑠衣は一瞬、Kが彼の古巣に一体どんな交渉を持ちかけたのかを考えかけたが、すぐに振り払った。今は、そんなことはどうでもいい。
今言うべきは、感謝の言葉だ。
「……ありがとう、Kさん。私が無理を言ったばっかりに」
「いえいえ、私も覚悟を決めましたので」
Kは終始、穏やかな表情を瑠衣に向けていた。
ふと、Kの視線が瑠衣のバッグに向いた。持ち手に、小さな布切れが結びつけられている。
「……それは、お守りですか?」
「あ、これ?」
瑠衣は少し照れくさそうに、その布切れを手で持った。カサリ、と音がした。どこにでもある、神社の交通安全のお守りだ。
「少しでも幸運が巡ってくればいいなと思って。……別に神様なんか信じてないんだけどね」
「いえ。人間らしくて、とてもいいと思いますよ」
Kは立ち上がり、瑠衣に手を差し出した。
「明日は、最高のショーにしましょう。後悔のないように」
「うん。……世界を、私たちの色に染めてあげよう」
瑠衣はその手を取り、強く握り返した。そして二人は顔を見合わせ、共犯者としての絆を確かめ合うように頷いた。