フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
7月22日。
地上は真夏の熱気に支配されているというのに、その「地下神殿」は吐く息が白く凍るほどの冷気に覆われていた。
その神殿の一角となる会場には、黒い喪服に身を包んだ約1000人の「共犯者」たちが墓標のように静かに並んでいた。彼らは知っている。今夜が、有村瑠衣という現象の終焉であり、同時に神話の始まりであるということを。
石壁に囲まれた空間は、外界の音を一切遮断し、ただ地下水が滴る音だけが響いていた。 やがて、照明が落ちる。その後たった一つのピンスポットが、ステージ中央のスタインウェイを照らし出した。
そこに現れたのは、これまでの華美なドレス姿とは異なる、装飾を極限まで削ぎ落とした純白の
彼女が鍵盤に指を落とす。
最後の演奏会『聖獣の昇天』が、幕を開ける。
【第一部:石の記憶】
一音目。
重く、鈍い和音が、石壁にぶつかり、幾重にも反響した。
ムソルグスキー『展覧会の絵』より「カタコンベ」。ローマ時代の地下墳墓を描写したその曲は、この場所にあまりに相応しかった。
ピアノの音色が、死者の魂を鎮める祈りのように、あるいは眠りを妨げる呪いのように響き渡る。
瑠衣は時折、苦悶の表情を浮かべて下腹部を押さえる。極限まで溜め込まれた排泄欲求と、寒さによる生理的な収縮。その「耐える姿」すらも演出の一部となり、殉教者の受難のように美しく見えた。こうして観客の緊張感が極限まで高まっていく。
【第二部:深淵への没入】
ズーン、ズーン……。
低音の連打が、葬送の鐘となって地下空間を揺らす。
ここでKによる照明演出が牙を剥いた。
バックライトが強烈に焚かれ、瑠衣の影が背後の石壁に巨大に投影される。
その影は、ピアノを弾く人間には見えなかった。長く伸びた髪、歪んだ姿勢。それはまるで、地下神殿に封印されていた魔物が、鎖を引きちぎって目覚める瞬間のようだった。
叩きつけられる重低音は、破滅へのカウントダウンとして聴衆の心臓を鷲掴みにする。
曲が最高潮に達すると同時に、瑠衣は椅子を蹴るようにして立ち上がった。それは審判の時が近いことを示す合図だった。
【第三部:怒りの日 - 排泄の儀式】
激しい打鍵と共に、世界を裁く旋律が轟く。 瑠衣は立ったまま、狂ったように鍵盤を叩き続け――そして、純白の衣装の裾を捲ることなく、その場で行為に及んだ。
「……っ!!」
薄衣の股間部分が、内側から爆発したように黄金色に染まる。 ドサリ、バチリ。 粘着質な音が、ピアノの轟音の合間を縫って石の床に響く。 足元に落下した排泄物は、会場の凍えるような冷気と触れ合い、凄まじい湯気を立ち昇らせた。
それは、昨日Kが撮影した「白い龍」の再現だった。 換気の悪い地下空間に、濃厚なアンモニア臭と排泄臭が瞬く間に充満する。
「おお……!」
「ああ、女神よ……!」
観客たちは、その聖性と汚濁が混然一体となったカオスに酩酊し、ひれ伏した。白いドレスを汚しながら、なおも激しくピアノを弾き続ける瑠衣。その姿は文明への怒りと生命の賛歌を同時に叫んでいるようだった。 まさに、この世の終わりの宴、「
***
演奏が止み、瑠衣が汚物にまみれたままステージ袖へと消えた。残されたのは湯気を立てる汚物と、過呼吸になりかけた観客たちの荒い息遣いのみ。
そして静寂の中、何者かがステージ中央にゆっくりと進み出た。
黒い喪服に身を包んだ、中年の男。
「ええええ……!!」
「あれ、
「マジか!?」
静まり返っていた観客たちが驚愕と興奮でざわめき出す。完全なるサプライズだった。これまで断片的な情報でしかその存在を知らされなかった謎の男が、ついに表舞台に姿を現したのだ。
彼の手にあるのは、一冊の古びた文庫本だった。
Kは観客を見渡すことなく、虚空に向かって静かに読み上げ始めた。
「……あなたはまだゐる、其処にゐる」
Kの声は、熱を帯びて震えていた。
「あなたは万物となって私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」
凍える寒さの中で読み上げられたその詩が、温かな光のように会場を包みこんだ。これは瑠衣に向けた彼なりの愛のメッセージなのだろうか。観客たちはKの無念を想像し、すすり泣くのだった。
Kは本を閉じ、拍手で応える観客に向かって深く一礼した。
そして、ステージを去った。
***
「……おかえり」
神妙な面持ちでステージ袖に戻ってきたKに、瑠衣が声をかけた。
彼女の姿を目に捉えたKが、破顔する。
「本当、すみませんね。寒いでしょう?」
「いえいえ、もうアドレナリン出まくって熱いくらいで」
彼女は一糸纏わぬ全裸。これが次のステージの衣装である。
先程のパフォーマンスで汚れた身体は拭き取ってある。
「さっきの詩は、私に向けてだったの?」
瑠衣は尋ねた。詩の内容は、瑠衣にも知らされていなかったのだ。
「……まあ、そういうことになりますかね」
Kは答えながら瑠衣から目を逸らし、床に向けた。
「ありがとう、Kさん。大好きですよ」
瑠衣は微笑んで、両腕を広げた。願わくば、彼と抱擁を交わしたいと思いながら。
だが、Kは目を下に向けたまま動かなかった。
「……言いましたよね。『私はあなたの愛に値しない』と」
「Kさん、あなたは一体、何を隠して……」
「瑠衣さん」
Kは瑠衣の問いかけを遮るように言い放った。
「そろそろ時間です。……私のことは、そのうち分かります」
そう言い残して、Kは控室へと消えていった。
***
【アンコール:愛の受容】
鳴り止まない拍手の中、再びピンスポットが灯る。観客の前に、全裸で立つ瑠衣が映し出された。その表情は憑き物が落ちたように晴れやかで、慈愛に満ちていた。衣服の代わりに神々しさを纏った、体毛と汚濁の
「――――ありがとう。みんな」
彼女はマイクを通さず、生の声で囁いた。
瑠衣は一礼し、スタインウェイに向き合った。
奏でられたのは、リスト『愛の夢 第3番』。
一音一音を噛み締めるような、優しく、甘美な旋律。 地下空間の豊かな残響が、その音色を天上の音楽のように響かせ、観客の心に染み渡らせていく。
自分を獣として見出し、肯定し、居場所をくれたKへの感謝。
そして、汚れた自分を見て熱狂し、愛してくれた共犯者たちへの、心からの「愛の歌」。
汚い場所でこそ、愛は輝く。
泥の中に咲く蓮の花のように。
観客たちは皆、涙を堪えることができなかった。 汚いものと美しいもの。その境界線が溶け合い、ただ「有村瑠衣」という存在への愛だけがそこに在った。
最後の和音が、静かに消えていく。
和音が消えるのを待ってから、観客は瑠衣を万雷の拍手で称え、感情を爆発させた。
「ありがとう、ありがとう……!!」
「瑠衣ちゃんーーーー!!愛してるよーーーーー!!!」
共犯者たちの魂の叫びがこだまする。
しかし。
その喝采は、長くは続かなかった。
――――ガタガタガタガタッ!!
突然ピンスポットが消え、会場後方にある扉から十数人の男が飛び入ってきた。
「警察です!皆さんは、ここから退場してください!」
拡声器の叫び声とともに、場内は一気に物々しい雰囲気に包まれた。突然の展開に観客たちが混乱し立ち竦むなか、数人の警官がステージによじ登り、奥へと消えていった。