フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
父は現場から尊敬される優秀な警察官だったが、家庭では不在の象徴でしかなかった。幼い晃規の記憶にあるのは、父の背中ではなく、写真家である叔父の現像液の匂いだ。 叔父と共に街や野山を出歩き、生物の営みを切り取る瞬間は、彼の少年時代の記憶として色濃く残っていた。
当然、叔父と同じ道を志した。だが晃規が高校生になって間もなく、日本は未曾有の不景気に沈んだ。「このご時世では写真家など食えるわけがない。潰しの効く大学へ行ったほうが良い」。父の現実的な助言は、当時の世相においては呪いのように正しかった。
晃規は都内の国立大学へ進学後、父のコネクションを頼り警察組織へと就職した。「写真家には、後からでもなれる」という叔父の言葉を、微かな希望として胸に秘めて。
組織に入った晃規は、感情を殺し業務に邁進した。とにかく出世すること。金を稼ぐこと。そして、早期にリタイアして自由を手に入れること。その目的のためなら、人が嫌がる汚れ仕事も率先して引き受けた。
その最たるものが、TIH(Targeted Indictment Handling:標的型起訴処理)の主導役だった。それは、警察組織への多額の寄付者からの依頼に基づき、ターゲットを合法的に「社会的抹殺」に追いやる裏のシステムであった。
晃規は、このシステムで数多の人生を破滅に導いた。頭脳明晰な若手政治家、飛ぶ鳥を落とす勢いのベンチャー企業CEO、人気シリーズ映画の主役を勝ち取った女優……。人の人生を踏み荒らすということは、自分の人生をも同様に荒廃させるということなのかもしれない。晃規は仕事に明け暮れるうちに、人の感情というものがよく分からなくなってしまった。
『
(……完璧に仕上げろ。これが最後だ)
当時、父が亡くなったばかりだった。 晃規は父の死に、悲しみよりも安堵を覚えていた。これで警察に居続ける義理はなくなった。退職を申し出たが、将来の幹部候補であった彼を組織は容易に手放そうとはしなかった。 この「有村瑠衣の案件」を完璧に処理すること。それが、彼が自由になるための交換条件だった。
だから晃規は、何ら躊躇することなく彼女を破壊した。彼女が海外公演から帰国したところに「コカイン所持容疑」をでっち上げて逮捕。 手錠をかけられ絶望に染まった彼女を、彼は事務的に処理した。晃規は晴れて退職し、第二の人生へと歩みを進めた。一人の天才ピアニストの死体の上に立って。
だが、一度闇に浸かった眼球は、もう光を捉えることができなかった。 念願の一眼レフカメラを手にしても、美しい風景にはピントが合わない。 腐り落ちた組織の裏側を支え続けた彼のレンズは、人間がひた隠しにする「真実」ばかりを鮮明に映し出すようになっていた。
気がつけば、彼はネットの深淵を彷徨っていた。 承認欲求に飢え、猥褻な自撮りを投稿する裏アカウントの女性たち。その生態を観察し記録することは、いつしか屈折した美的感覚を満たすための歪んだ趣味となっていった。
そして、出会ってしまった。
裏アカウント「獣」。
見つけた時は「まさか」と思った。独房で繰り広げられた有村瑠衣の「奇行」は、かつての部下たちを通じて晃規の耳にも届いていた。だからそこに投稿されていた脇と陰部の濃い剛毛、そして排泄姿を見て、もしかすると同一人物ではないだろうかと予感した。そして接触に成功し、予感は確信へと変わった。
目の前に現れた瑠衣は、かつての身元調査資料にあったどんな写真よりも圧倒的に「美しく」見えた。 輝かしい経歴と美貌を持つ彼女が、目の前で汚物にまみれる姿をさらけ出してくれることがたまらなく心地よかった。
(……ああ、私が作ったんだ。この美しき生き物は、私の「作品」だ)
彼女の人生を壊したのは紛れもない自分だという、吐き気を催す罪悪感。 しかし、その壊れた姿がここまで美しい芸術品になってしまったことへの、どうしようもなく絶望的な興奮。晃規は瑠衣の共犯者を演じながら、その相反する感情に酔いしれた。
……だから、彼女から「愛」を差し向けられた時、身体が拒絶反応を起こした。彼女に愛される資格など、あるはずがなかったからだ。
有村瑠衣を「汚物の表現者」たらしめているのは他ならぬ自分だ。
彼女は、我が理想を押し付けるための
そんな自分が、愛されるなど。
***
4月。
その日はどんよりとした曇り空だった。
瑠衣との急遽の打ち合わせを終え、
瑠衣の人生を狂わせた原因は自分にある。 ならば、幕引きをするのも自分でなければならない。
Kはアドレス帳を開き、ある人物の名前をタップした。かつての後輩であり、現在のTIH業務を引き継いだ男だ。
コール音が三回鳴り、相手が出た。
「もしもし。
一瞬の沈黙の後、彼らしい明朗な声が返ってきた。
『……アキさん。仕事用の携帯に電話かけたらダメだって言ったじゃないですか』
署内にいるのか、背後からは微かにガヤガヤとした騒音が漏れ聞こえる。
「すまない。さっさと要件を済ませたくてな」
『要件……』
山本は身構えるように声を潜めた。Kの声色から、単なる世間話ではないことを敏感に察知したのだろう。向こう側の騒音がふっ、と遠ざかった。席を立ったのだ。
「取引をしよう。有村瑠衣を見逃してはくれないか。彼女は私に良いように利用されているだけの被害者だ。そうだろう?」
『アキさん、それは出来ません。騒ぎになっている以上、彼女を逮捕して沈静化させなければなりません。上からもそう言われてるんです』
「……まあそうだろうな」
ここまでは想定通りだった。組織の論理も、山本の思考回路も、かつての自分がそうであったように手に取るように分かる。だからこそ、次のカードが有効になる。
「では彼女を見逃す代わりに、私を逮捕しろと言ったら?」
『いやいや……何言ってるんですか。アキさんは特免持ちじゃないですか。まさかそれを放棄しようって言うんですか?』
特免。特別免罪特権の略だ。TIHに所属した人間は、所属年数に応じて相応の「免罪」が与えられ、罪に問われることがない。瑠衣の後ろでKが暗躍できたのは、この特免があったからだ。
「警察への不信が高まっているのは知っているだろう?彼女ではなく元警察官の私を逮捕したほうが、世間の溜飲も下がると思うが?」
『いやまあ、そうですけど……』
「ではこういうのはどうだ。私を逮捕しないならば、TIHの存在を嗅ぎつけている者たちへの”証言者”となってしまうというのは?」
『…………』
電話の向こうで、山本の低い声が漏れた。TIHの存在は、世間ではまだ都市伝説のような扱いに留まっている。Kのような世間の注目を浴びている「元所属者」に破れかぶれにそれを語られるのは、避けたいはずだ。
『……それを逮捕されるための脅しに使うのは、初めて聞きましたよ』
「私に情けはいらない。やれるのか、やれないのか、どっちなんだ」
『…………』
迷っている時間は数秒だっただろうか。
『いいんですか、それで』
「ああ。もう腹は決めている」
『……わかりました。上と話をしてみます』
山本は観念したように、ため息混じりで答えた。
「すまない、よろしく頼む」
Kはスマートフォンをポケットにしまい、雲に覆われた空を見上げた。
これでいい。 穢れきった自分の人生で、これが最初で最後の「
Kは澱みない顔つきで、しばらく厚い雲を眺め続けた。