フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
手錠の冷たさが、手首の骨に食い込んでいた。地下空間から地上へと続く長い非常階段を、
すべては終わった。そして、計画通りだ。
Kの隣を、一人の男が並んで歩いていた。 仕立ての良いスーツの上に現場用のジャンパーを羽織った、線の細い男。かつてKの部下であり、現在はTIHの指揮を執る
「山本。まさかお前が直々に来るとは思わなかったぞ」
Kが視線を向けずに言うと、山本は肩をすくめた。
「元先輩を逮捕するわけですしね。特別に現場入りさせてもらいましたよ」
一同は階段を上り続ける。コツ、コツと乾いた足音が響き渡る。出口はまだ先のようだ。
「……アキさんは、どうして
歩きながら、山本が尋ねてきた。
「そんなに、特別な女性なんですか?」
Kは、薄暗い足元を見つめたまま答えた。
「そうだ。私が壊してしまったがゆえに、”最高傑作”となってしまった女だ。それを一番間近で眺めていたかった。……まあ、もうそれも終わりにするがな」
「人に対してする表現じゃないですよ、それ」
山本が呆れたように苦笑する。
「なんだ、お前随分と人間らしい感覚が残ってるな。あの組織に染まるにはまだ時間が足りないか?」
「アキさんが感情殺しすぎなんですよ」
二人の足音が、コンクリートの壁に乾いた音を立てて反響する。 山本は少し思案するように沈黙した後、再び口を開いた。
「話戻しますけど……、壊したって言っても、アキさん的には仕事でやったわけじゃないですか。別に罪悪感を持つ必要、なくないですか?」
Kは小さく息を吐いた。白い吐息が闇に溶ける。
「そうだな……。だが私の中で『こうあるべきだ』という感覚が抜けなくてな。それがどうしてなのかは、正直自分でもよく分からない」
「アキさんが『よく分からない』って言うのは、珍しいですね」
「……なんだろうな。心の何処かで、自分は裁きを受けるべき人間だと、思っているのかもしれない」
ピグマリオンは、自らが彫り上げた愛する彫像ガラテアと共に生きることを望んだ。だがKの彫像は、自身で生み出したものではない。本来人間であったものが、理不尽な謀略により彫像と成り果てたに過ぎない。そしてその彫像は、あろうことか彼女を陥れた首謀者に情愛を差し向けているのだ。
いっそ憎んでくれていれば、さっさと彼女を解き放っていただろうに。
彼女の好意に付け入って、欲望のままに「理想の彫像」を突き詰めてしまった。
「それで、彼女を庇うことで罪滅ぼしをした気分になりたいってことですか?」
山本の容赦ない指摘に、Kは自嘲気味に口角を上げた。
「そう、かもしれない」
***
地上に出た。 回転灯の赤色が、夜の闇を毒々しく染め上げている。無数のパトカーと野次馬、そして規制線のテープが風に煽られていた。カメラのフラッシュが焚かれる中、Kは誘導されるまま一台の覆面パトカーへと向かった。
「指示通り、後部座席へ」
山本の指示で、警官がドアを開ける。 Kは身を屈めて車内に乗り込んだ。シートに深く体を沈め、目を閉じて大きく息を吐く。これでようやく、長い
「……?」
違和感があった。 誰もいないはずの隣の席に、人の気配がある。
Kが目を開けると、頭から大きなコートを被った小柄な人物が、ちょこんと座っていた。
Kの血の気が引いた。
「おい山本、これはどういう――――」
助手席に座った山本をすぐに睨んだが、彼は窓枠に肘をつき、悪びれる様子もなく言った。
「すみません、言い忘れてたんですけど、もう一人乗せる必要が出てきちゃいまして」
「は……?」
暗雲が、Kの頭を押しつぶすようにのしかかった。
彼はおそるおそる、隣の人物が被っているコートに目を向けた。
「そんな、まさか……」
それを引き剥がすと、
「Kさん」
聞き慣れた声。
Kは目を見開いて硬直した。
「私も、一緒に行きますよ」
有村瑠衣は悪戯が見つかった子供のように笑い、手錠のかけられた両手をKに見せつけた。