フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
終止線の彼方
【社会】元警視監に実刑判決、元ピアニストは執行猶予 東京地裁 202X年10月12日 11:32
元ピアニストとして知られる
裁判官は「元警察官僚という立場にありながら、自身の歪んだ性的嗜好を満たすために将来ある若者を『作品』と称して支配し、社会の善良な風俗を著しく害した」として、首謀者である高村被告に懲役2年(求刑懲役2年6ヶ月)の実刑判決を言い渡した。弁護側は「芸術表現の一環」として無罪を主張していたが、判決は「表現の自由の逸脱は明らか」として退けられた。
一方、共犯として問われた有村被告に対しては「被告人の精神的従属性が高く、高村被告による心理的支配下にあったことは考慮すべき事情」とし、懲役1年・執行猶予3年(求刑懲役1年6ヶ月)を言い渡した。
この事件は、両被告がインターネット上に排泄行為などを想起させる画像を多数投稿し、今年7月には都内の地下施設で公衆の目前でわいせつ行為に及んだもの。
閉廷後、高村被告は弁護人を通じ「控訴はしない。服役して罪を償う」とのコメントを発表。有村被告も控訴しない意向を示しており、両被告の判決が確定する見通し。
***
潮騒の音が、穏やかな空間を演出していた。
リビングには、不釣り合いなほど立派なグランドピアノが置かれていた。瑠衣は鍵盤に指を這わせる。かつてのように観衆を狂わせるための演奏ではない。排泄の快楽を伴う儀式でもない。ただ、波の音に溶け込むような、静かで優しい旋律。
ピンポーン。
無機質なチャイムの音が、静寂を破った。瑠衣は指を止め、ゆっくりと立ち上がる。心臓の鼓動が、早鐘を打っていた。
玄関の扉を開ける。
「――――お待たせしました」
潮風で少し髪を乱した、大荷物の男。
高村晃規――かつて「K」と呼ばれた男は、二年ぶりの再会に少し緊張したような面持ちで立っていた。
「……ふふ。待っておりました」
言葉よりも先に、二人の手は求め合うように重なった。晃規はその場に跪くように身をかがめると、震える両手で瑠衣の手を包み込んだ。そして、かつて手錠をかけられていた手首に、うやうやしく唇を這わせた。それは愛する人へのキスというよりは、女神への崇拝に近い、宗教的な儀礼のようだった。
「Kさん。これじゃ女主人と執事みたいじゃない」
瑠衣が苦笑すると、晃規は立ち上がりながらばつが悪そうに首に手を当てた。
「……私にはまだ、こういう愛情表現しかできないようです。もうしばらくここで暮らせば、何か変わるかもしれませんが」
あの逮捕劇の後、瑠衣は移送中のパトカーで山本から真実を知らされた。かつて自分を陥れ、ピアニストとしての人生を暗転させた張本人が、目の前にいるこの男であることを。
普通なら、殺意を抱いてもおかしくない事実。
だが、瑠衣は晃規の方をまじまじと見て、こう述べた。
「あなたが、私を壊した張本人だったんだね。……
人生を狂わせた男を目の前にしてなお、穏やかな笑みを浮かべて感謝の気持ちを伝えてくる聖獣。
その狂気的な全肯定を受け、晃規はついに観念した。彼は瑠衣を自分から解き放つのではなく、瑠衣という業を背負い続けるために、この島へ「流刑」されることを選んだのだ。
「まだ敬語なの?」
「……瑠衣さんこそ、まだ私のことを『K』と呼ぶじゃないですか」
「ふふ、まあ、今更変えられないよね」
二人は共犯者の顔で、静かに笑い合った。
***
島の民宿に併設された飲食店で、久しぶりの再会を祝う宴が開かれた。 テーブルを囲むのは瑠衣と晃規、そして「経過観察」と称して島を訪れた
「しかしアキさんが獄中結婚決めた時は驚きましたよ。瑠衣さん、あなた本当にとんでもない人ですね」
「えー?でもこうなっちゃったのはTIHでしたっけ?組織の皆さんのせいなんですから。Kさんにはちゃんと責任取ってもらわなくちゃ」
瑠衣が悪戯っぽく微笑むと、山本は「痛いところを突きますね」と苦笑いした。
「それを言われると、何も言えないな……」
晃規もまた、バツが悪そうに肩をすくめる。
目の前で屈託なく笑うこの女性からは、悲壮感など微塵も感じられない。自らの運命をねじ曲げた男を、まるで所有物として愛でるかのようだった。その無慈悲なほどの慈愛が、晃規の愛への忌避を上回ったのだ。
目覚めてしまった聖獣は、あまりに強大で、そして美しかった。首輪を握られているのはとうの昔に自分の方だったのだと、晃規は今更ながらに思い知らされるのだった。
「二人は、これからどうするんですか?」
宴もたけなわになった頃、山本が真面目なトーンで尋ねた。
「まあ、しばらくはゆっくりして、それから考えるよ」
「そうしてください。……ただ、もうネットに写真ばら撒いたりとかしたらダメですからね。こっちもちゃんと監視してますんで」
釘を刺す山本に、瑠衣は顔を覗き込んできた。
「でもこれだけ社会現象になったし、私を封じ込めても、第二第三の有村瑠衣が現れるんじゃないんですか?」
「勘弁してくださいよ〜。瑠衣さんみたいな破天荒な女性は一人で十分ですって」
山本は軽口を叩いてビールを煽ったが、その瞳の奥は笑っていなかった。 一度世界にばら撒かれた「毒」を、全て回収することなどできない。彼女たちがこじ開けたパンドラの箱から一体何が飛び出してくるのか、それは誰にも分からない。
かつての支配者と、その被写体。そして、彼らを捕らえた法の番人。 決して交わるはずのない三人の夜は、波音に溶けるように更けていった。
***
数日後。瑠衣と晃規は、人気のない海岸を歩いていた。
そこは、観光客が訪れるような美しいホワイトビーチではない。 打ち上げられた流木が墓標のように突き刺さり、どこからか流れ着いたプラスチックのゴミが散乱している。 波打ち際には、干からびた魚の死骸が転がり、腐敗と潮の匂いが混じり合っていた。
だが晃規にとって、これこそが真の「
ふと、シャッター音が止んだ。 ファインダーから目を外すと、波打ち際に立つ瑠衣が、ワンピースのボタンを外しているところだった。
布が滑り落ち、彼女の肢体が南国の太陽の下に晒される。もはや排泄をするわけではない。ただ、海風に吹かれながらそこに立っているだけだ。しかし、その姿は晃規の網膜を刺激し、昂らせる。
「……もう、貴方をレンズ越しに見ることはないはずだったのですが」
晃規が呟くと、瑠衣は振り返り、挑発するように微笑んだ。
「Kさんには、私の姿をずっとフィルムに収めていてほしい。今撮られている姿が、明日あるとは限らないのだから」
彼女の中の「獣」は、まだ死んでいない。 誰かに見られ、記録され、固定されることを渇望している。晃規のカメラが再び彼女を捉えようとしているのは、他ならぬ
逆光の中、瑠衣の全身に生え揃った産毛が、黄金色に輝いている。それは汚れではなく、生命力そのものの輝きだった。
晃規は覚悟を決めたように、カメラを構え直す。この美しい獣を、フィルムという名の檻へ、永遠に閉じ込め続けるために。
ファインダーの四角い世界の中で、瑠衣が笑った。
――――カシャッ。
乾いたシャッター音が、波音に吸い込まれていく。
彼らの
物語本編としては完結となります。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
今後はあとがきを入れたり、余談となる補足エピソードが追加される予定です。