フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
有村瑠衣という「現象」
文:御子柴 レイ(現代ネットカルチャー研究家・ライター)
序:二つの顔を持つ「聖獣」
そのピアニストの名前を聞いて、あなたが思い浮かべるのはどちらの姿だろうか。ステージの壇上で、漆黒のスタインウェイに向かう清廉な姿か。それとも、ファンサイトやSNSで拡散された、排泄物にまみれたドレス姿か。
有村瑠衣。かつてクラシック音楽界の将来を担うと目されていたものの、自らの身体と尊厳を垂れ流す「裏アカウント」の発覚によって、無惨にも社会的抹殺を受けた女性。彼女と、その共犯者とされる男・高村晃規――Kが引き起こした一連の騒動は、逮捕という制裁によってその幕を閉じた。
世間は彼らを「スカトロジーに耽溺した変質者」として片付けるかもしれない。あるいは「現代アートを装った露悪趣味」と冷笑するかもしれない。だが、あの一連の現象をリアルタイムで目撃していた私たちは、そこに単なる性癖の発露以上の「何か」を感じ取っていたはずだ。なぜ、あんなにも「汚い」はずの写真集が、あれほどまでに「美しく」見えたのか。なぜ、生理的嫌悪を催すはずの排泄行為が、一種の宗教画のようにネットの海を支配し、私たちの脳裏に焼き付いて離れないのか。
結論から言おう。あれはKという稀代のアートディレクターと、有村瑠衣という演者が共謀して行った、「演奏」の概念を書き換えるための壮大な儀式だったのだ。
1.冷徹なる計算による「侵犯」、そして表出した「聖性」
有村瑠衣の汚物にまみれた写真が「美しい」と評価されてしまった最大の要因。それは、撮影者であるKが持ち込んだ、狂気的なまでに計算され尽くした「美学」の存在にある。彼がレンズを通して世界に突きつけたのは、徹底的なコントラストの表現だ。ただ汚いものを見せるのではなく、最も美しい器(有村瑠衣)に、最も美しい構図で、最も汚い行為をさせる。これが徹底されていた。
Kの美学は写真だけに留まらない。写真に添えるキャプションや、作品のタイトル――『晩餐の生贄 -ナチュール・モルト-』や『青の
彼らの写真集は、ジョルジュ・バタイユの提言する「侵犯」そのものだ。元警察官僚であるKが構築した、理性的で完璧な秩序。その枠組みの中に、最も不潔な「排泄行為」を配置するということ。これこそが、理性が遠ざけようとする「禁忌」そのものである。だが、バタイユはそういった禁忌を破る瞬間に「聖性」が宿るのだという。「聖性」は快感と同時に畏怖を与える。私たちはその神々しい有り様を目撃し、「美しい」と感じてしまったのだ。もっとも、彼らの真に恐ろしいところはこの過激な「聖性」をコンテンツ化してしまったことだが。
2.「演奏」の再定義と、不協和音の解放
では、演者である有村瑠衣自身は何を想っていたのか?Kという演出家に操られただけの人形だったのか?私はそうは思わない。Kと共に破滅へと突き進んだあの行動を見る限り、彼女もまた、能動的にこの儀式を遂行していたと考えるべきだ。
現代音楽の父、アルノルト・シェーンベルクが提唱した「不協和音の解放」という概念を知っているだろうか。古典的な音楽理論において、不快で不安定な音(不協和音)は、美しい安定した音(協和音)へと「解決」されなければならないとされた。汚いものは、綺麗にされなければならない。それが調和・ハーモニーであり、社会のルールだ。
しかしシェーンベルクは、不協和音を解決する必要はない、それ自体が独立した響きとして存在を許されるべきだと説いた。 有村瑠衣とKが到達した境地は、まさにこれだ。排泄、体毛、羞恥、社会的な転落。これら人生における強烈な不協和音を「解決」しようとはしなかった。彼らは汚濁を汚濁のまま、ノイズをノイズのまま、圧倒的な強度で世界に提示した。
「私は汚れている。だからこそ、ここに存在している」彼女が写真集の中で見せる恍惚の表情は、社会的な調和へ帰還することを拒絶している。彼女はピアノを弾く代わりに、自らの肉体を使って、世界が隠蔽してきた「ノイズ」を解放したのだ。孤独な排泄から始まったその旋律は、調性音楽のルールを破壊する、美しくも残酷な無調のシンフォニーだったのである。
3.「感染」する共犯関係
彼らの表現手法が実に現代的なのは、その新しい「演奏」に私たち全員を巻き込んだことにある。彼らは写真集『青の聖痕』を「逆プレゼント」と称して無料でばら撒くという暴挙に出た。それを「タダだから」「話題だから」という理由で興味本位でリンクをクリックした瞬間、あなたは有村瑠衣の背徳の儀式に加担した「共犯者」となってしまう。
さらに、前述したKの恐ろしいまでのアート的演出と、既存の価値観では到底解釈しきれない「異様さ」が、写真集の解説動画や「考察班」などの二次情報を生んだ。これが彼らの神格化を加速させた。第三者による権威付けが、拒否感を抱いていたネットユーザーに「これは”アート”だから、”考察の一環”だから」という弁解の余地を作ったのだ。
Kは、「顧客」よりも「共犯者」の数を稼ぐことを選んだ。無料化という手段は、ウイルスの感染爆発を引き起こすためのトリガーだった。社会的に抹殺された女が、社会そのものを自身の排泄物で汚染し返す。これほど痛快で、これほど残酷な復讐があるだろうか。私たちがスマホの画面で彼女の肢体を見つめた時、私たちは知らず知らずのうちに、Kが仕掛けた「世界の再構築」の一部に組み込まれていたのである。
4.コンサートホールから「地下神殿」へ
極めつけは、クライマックスとなった最後のコンサートの舞台だ。Kが選んだのは、煌びやかなコンサートホールではなく、湿り気を帯びた「地下採石場跡」だった。なぜ地下でなければならなかったのか。それは、このプロジェクトの最終段階が「終焉を神話として世界に刻むこと」だったからだ。地上(社会)のルールが及ばない場所で、彼女は一度社会的に「死に」、人ならざる「聖獣」として完成する必要があった。
彼らは、自分たちが逮捕され破滅することさえもシナリオに織り込んでいた。瑠衣のSNSアカウントが停止措置を受けた時点で、活動を止めることもできたはずだ。だが彼らは止まることを良しとせず、最後の儀式を執り行い、そして制裁を受けることを選択した。
二人が逮捕され社会から隔離された直後、ネットの海には最後のデジタル写真集『奈落の伽藍 -De Profundis-』が放流された。「深き淵より」を意味するそのタイトル通り、地下空間での儀式の記録は彼ら自身の不在を埋めるかのように、永遠の石と刹那の汚物の対比をネット上に刻みつけた。
ハッピーエンドで終わる物語は消費されて忘れられる。しかし、破滅で終わる悲劇は「神話」となって、人々の記憶に不可逆的に刻まれる。デジタルタトゥー?いや、彼らにとってそれは、永遠に消えることのない、誇るべき「
終わりに:神話は不可逆に刻まれる
祭りは終わった。有村瑠衣とKは私たちの前から姿を消した。しかし、彼らがネットの海に刻み込んだ「神話」は、二度と消えることはない。彼らのプロジェクトの最終段階は、この不可逆性にあったと言える。
彼らが不在であるからこそ、残された映像や画像の強度は増していく。私たちはもう、クラシック音楽を聴くたびに、あるいはトイレで排泄行為をするたびに、ふと思い出してしまうはずだ。かつてこの国に、自らのすべてを排泄し尽くすことで、逆説的に「生」を証明してみせた、哀しくも美しい獣がいたことを。
それは、清潔で安全な檻の中で生きる私たちが決して到達することのできない、真の理想郷なのかもしれない。