※この作品はR-18です。

フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き-   作:宇多川志木

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08 獣と飼い主

箱根湯本駅に降り立つと、硫黄の匂いが微かに鼻をくすぐった。 週末の温泉街は、観光客で賑わっている。手をつないで歩くカップルや、家族連れの笑い声。その平和で平凡な風景の中に、有村(ありむら)瑠衣(るい)とK(ケー)の姿もあった。

 

瑠衣は、今日は「普通の服」を着ていた。 淡いアイスブルーのアンサンブルニットに、夜の海を思わせるネイビーのロングスカート。 首元には華奢なシルバーのネックレスが光り、艶やかに巻かれた黒髪と相まって、知的な美しさを放っている。

 

だが、Kは違った。 いつもと同じ、量販店のグレーのスーツ。ネクタイを緩めることもなく、常に周囲を警戒するような目つきで歩いている。その右手には、決して手放さないカメラバッグが握りしめられていた。

 

 

「……Kさん、少しはリラックスしたら?」

 

瑠衣が腕を組もうとすると、Kは反射的に体を強張らせ、さりげなく距離を取った。

 

「いえ、私はただの撮影係ですから」

「今日はデートでしょ?」

「レンズが曇るようなことは、考えないようにしてるんです」

 

撮影と称したデートだと念押ししたというのに、Kはつれなかった。 瑠衣は、小さくため息をついた。

 

(やっぱり、ダメか……)

 

 

レンタルルーム、海岸、学校。 数々の背徳的な撮影を重ねる中で、二人の間には奇妙な絆が生まれていた。瑠衣は、自分の最も醜く、恥ずべき部分を全て受容し、称賛してくれるKに、特別な感情を抱き始めていた。

 

あの独房で失った「人間らしさ」を、この人なら受け止めてくれるかもしれない。そう期待して、彼女は今日の「撮影(デート)」を提案したのだ。

 

だが、Kは頑なに「記録者と被写体」という関係性を崩そうとはしなかった。

 

 

二人は、ロープウェイに乗って大涌谷へ向かった。 眼下に広がる荒涼とした噴火口の景色。立ち昇る白煙。

 

「素晴らしい……。まるで地獄のようだ」

Kはカメラを構え、夢中でシャッターを切った。 瑠衣は、その横顔を見つめた。

 

(地獄、か……)

 

 

彼女にとって、Kとの関係こそが、甘美な「地獄」だった。プライベートな時間を割いて、これほどまでに心身をさらけ出してきたというのに、Kとの関係性にはまるで発展の兆しがない。だから今日は直接的にアプローチをかけているわけだが、Kに乗り気は微塵も感じられない。

 

普通、年下の若い女性がスキンシップを迫ってきたら、どんなに硬派な男だろうと鼻の下を伸ばして喜んでもおかしくないのだが、この男は良くも悪くも一貫性の塊である。

 

彼が瑠衣を愛しているかどうかで言えば、確かに愛していると言える。

ただし、カメラのレンズを通してのみ、だ。

 

 

夕食を終えると、瑠衣は貸切露天風呂を予約した。

 

「Kさん、一緒に入りましょう」

 

これが最後の賭けだった。

Kは少し迷った末に、カメラを持っていくことを条件に承諾した。

 

 

***

 

 

夜の露天風呂は、静寂に包まれていた。 湯船からは湯気が立ち昇り、月明かりが水面を照らしている。

 

瑠衣は、Kの前でゆっくりと浴衣を脱いだ。

白い肢体、目を引く大きな乳房、ツンと立った乳首。そして、彼女の脇や股間には、今日も処理されることのない剛毛が、黒々とした影を落としていた。

 

「……どう? 今日の私」

 

瑠衣は湯船に浸かり、濡れた髪をかき上げながらKを見つめた。Kはカメラを構え、息を呑んだ。

 

「完璧だ。温泉の湯気と、あなたの野性的な美しさ……。ルネサンス絵画のようだ」

 

Kはカメラを構えた。シャッター音が鳴り響く。

 

瑠衣は、湯の中でKに近づいていった。

 

 

「ねぇ、Kさん。カメラを置いて。……私に触れて」

 

彼女は、Kのスーツの袖を掴んだ。 その指先は震えていた。被写体としての演技ではなく、一人の女としての、切実な願いだった。

 

Kの動きが止まった。ファインダーから目を離し、瑠衣に目を合わせた。

 

 

……しかし彼は、困惑したような表情に変わった。

 

「獣さん……。それは、”契約違反”です」

 

「契約?」

 

「私は、あなたの『生態』を記録する者です。それ以外の関係は、作品の純度を濁らせます」

 

 

Kは、瑠衣の手をゆっくりと、しかし明確に拒絶の意志を持って振り払った。

そして、再びカメラを構えた。

 

「さあ、そのポーズのままで。目線を、もう少し右に」

 

 

Kはまたも自身のスタンスを崩さなかった。

瑠衣の目から、涙が溢れ出した。 それは温泉の湯と混じり合い、頬を伝って落ちた。

 

 

「……わかりました。」

 

瑠衣は涙を拭い、妖艶な笑みを浮かべた。

 

 

彼女は悟った。この男は、自分を「人間」として愛する気はないのだと。

 

彼は、瑠衣という「獣」の飼育係であり、その生態を記録する観察者に過ぎない。

 

そして、瑠衣自身も、彼に愛される資格などない「異形」の存在なのだということを。

 

 

瑠衣は、湯の中で両足を大きく広げた。 顕になった濃密な陰毛の森が、湯に揺らめく。

「じゃあ、撮って。私のアンバランスな姿を。全部、記録して」

 

 

彼女はひとまず、Kの望む「異形」を演じ切ることにした。 それが、この歪んだ関係を続けるための、唯一の方法だったから。

 

シャッター音が、温泉の静寂を切り裂き続ける。 湯けむりの中で、女の涙と、男の狂気が交錯する。 それは、決して結ばれることのない、獣と飼い主の、あまりにも悲しい愛の記録だった。

 

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