クズ夫と復讐者の裏で、何も知らない妻は義父に恋をした 作:木桜 春雨
真夜中の火事だった。
アパートの住人たちは皆、外に追い出され、言葉もなく立ち尽くしている。
夜気は本来なら冷たいはずなのに、立ち上る煙と炎の熱で、肌にまとわりつく空気は生ぬるかった。
消防車が到着し、赤色灯が闇を切り裂く。
放水の音を聞きながら、雄一は焼けた自分の部屋の中を思い浮かべていた。
仕事用のデスクトップパソコンは、もう使い物にならないだろう。
だが、脚本のデータはノートパソコンに保存してある。
次回作の原稿も、プロットも。
それだけは失われていない――そう思うことで、かろうじて現実を受け止めていた。
問題は、今夜の寝場所だった。
時刻はすでに深夜に近い。
この時間からホテルを探すのは現実的ではない。
息子に連絡するしかない。
瑛太の顔が脳裏をよぎり、雄一は小さく息を吐いた。
そのときだった。
「すみませんっ」
切羽詰まった女性の声が、騒然とした空気の中に響いた。
聞き覚えのある声だった。
まさか、と思って振り向く。
視界の先で、一人の女性がこちらを見つけ、駆け寄ってくる。
街灯の下で、その顔を認識した瞬間、雄一はわずかに目を見開いた。
「雄一さんっっ!」
息子の嫁、桜だった。
「ニュースで、それに、サイレンも聞こえて、場所を確認したら、ここだったので」
桜の顔は青ざめていた。
炎に照らされて、血の気が引いているのがはっきり分かる。
「怪我は、大丈夫ですか」
「今日は夕方から出かけていてね。無事だったよ」
そう答えると、桜はようやく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が、目に見えて抜ける。
「帰りましょう。瑛太さんにも連絡しました」
「あいつは仕事か」
桜は小さく頷いた。
「今夜は遅くなるって、もしかしたら、泊まりになるかもって」
相変わらず仕事ばかりだな、と雄一は思った。
だが、その感想を口にすることはなかった。
翌朝、火事の原因はタバコの不始末ではないか、というニュースが流れていた。
雄一はそれを聞きながら、アパートの住人の顔を思い出していた。
ヘビースモーカーの男、過去に二度、ボヤを出している。
建物も古く、立て直しの話が出ていたこともある。
この際、別の住まいを探すべきだろう。
そう考えていた矢先だった。
「父さん、どうせなら、一緒に住もう」
瑛太の言葉に、雄一は思わず顔を上げた。
「いや、おまえたち夫婦の生活があるだろう」
結婚して三年。
そんな二人の家に、父親が同居するなど、考えたこともなかった。
「桜も同意してくれてる」
瑛太は、あっさりと言った。
「それに、俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は、一瞬、言葉を失った。
「俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
予想していなかった、というより、考えたことすらなかった言葉だった。
「理由を聞いてもいいのか」
慎重に問い返すと、瑛太は肩をすくめるようにして答えた。
「深い理由じゃないよ。今は何かと大変だろ」
そう言ってから、続ける。
「物価も上がってるし。俺の給料だって無限じゃない。桜も、ネットで小遣い稼ぎみたいなことはしてるけどさ」
淡々とした口調だった。
まるで、家電の買い替えでも話すような軽さで。
確かに、出産、育児、教育費。
現実を考えれば、楽な話ではない。
雄一自身、それを否定できる立場ではなかった。
だから、それ以上は踏み込まなかった。
「それに、部屋だって余ってるし」
瑛太はそう言って、気にするなというように笑った。
その笑顔を見ながら、雄一は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えていた。
理由が薄いわけではない。
だが、何かが決定的に語られていない、そんな感覚だけが、静かに残った。
「この部屋を使ってください」
そう言われて、雄一は一瞬、返事を忘れた。
息子の家に同居することを決めてから、慌ただしい数日が過ぎていた。
火事で濡れたアパートの家具は、ほとんどが使い物にならなかった。
着替えだけでは足りない。
暖房器具、寝具、ラグマット――生活に必要なものは、想像以上に多い。
それらを揃えるため、桜と二人で買い出しに出かけた。
息子の嫁と並んで歩くのは、結婚の挨拶以来だったかもしれない。
そう思うと、少しだけ居心地の悪さを覚える。
「雄一さん、足りないものがあったら言ってください」
桜はカートを押しながら、声をかけてくる。
「あと、食べ物の好き嫌いも教えてください」
気遣いに、計算は感じられなかった。
義理だから仕方なく、という様子でもない。
夫の父親の世話など、負担に感じても不思議ではない。
だが桜は、どこか楽しそうに動き回っている。
「雄一さんのドラマ、私、見てます」
唐突な一言だった。
雄一は思わず足を止めそうになる。
義父の仕事に興味を示す、それを特別とも思っていない顔だ、普通の家庭なら、ありえない。
雄一はそう思った。
彼女の視線には、煩わしさも、距離を置こうとする警戒もなかった。
そこにあるのは、ただ一人の人間として向けられる、まっすぐな関心だった。
その日、雄一は久しぶりに友人と会っていた。
仕事関係ではない、古い付き合いの相手だった。
「火事に遭ったんだってな。大変だったろ」
グラスを置きながら、友人が言う。
「それで、息子の家に同居か。大丈夫なのか?」
「ああ、今のところはな」
雄一は曖昧に頷いた。
「よくしてもらっている」
その返事に、友人はわずかに目を見開いた。
「そうか」
短くそう言ってから、間を置く。
「理由を聞いたら、まずいか?」
息子夫婦の家に同郷なんて、最近はあまり聞かないだろうと言われて確かにと思った。
「子供を作るつもりはないらしい。部屋も余っているし、問題ないって」
「ああ、そういうことか」
友人は納得したように頷いた。
「今は多いぞ。子供を持たない夫婦。金もかかるし、覚悟もいる」
「そうなのか」
「現実は厳しいからな」
会話はいったん途切れた。
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。
「あのな」
友人が声を落とした。
「実は、今日呼び出したのは、それだけじゃない」
「俺を心配してくれたんじゃないのか」
それもある、と友人は言った。
だが、その表情はどこか曇っている。
「お前の息子のことだ。瑛太」
雄一は、言葉を待った。
友人は声を落とし、言葉を選ぶように一度間を置いた。
「浮気、してないか」
雄一は、すぐに返事ができなかった。
喉の奥が、わずかに詰まる。
「気のせいかもしれない」
友人は慌てて続けた。
「勘違いってこともあるしな」
だが、雄一は知っていた。
友人が根拠のない冗談を口にする性格ではないことを。
「もしかして、見たのか」
問いかける声は、思った以上に低くなった。
友人は、ゆっくりと頷いた。
「女と一緒に歩いていた」
短く、それだけを言う。
「仕事関係、って雰囲気じゃなかった。少なくとも、俺にはそう見えた」
それ以上、友人は何も付け加えなかった。
言葉を重ねれば、断定になってしまうことを分かっているようだった。
雄一は、黙ってグラスを見つめた。
確信している。
そう思ったのは、友人の態度そのものだった。
断言しない慎重さが、逆に事実味を帯びている。
瑛太の顔が脳裏に浮かぶ、仕事だと言って遅くなる夜、軽く笑顔が。
そして妻の桜の笑顔が浮かんだ。
息子、瑛太が浮気をしているかもしれない。
その可能性を、雄一ははっきりと否定できずにいた。
友人の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
確信はない。
桜は、知っているのだろうか。
いや、気づいている様子はなかった。
少なくとも、雄一の目にはそう映る。
ここ数日、桜は忙しそうに動き回っていた。
自分の世話に、時間を割いている。
「雄一さん、パソコン、デスクトップ、買いましょう。仕事に必要でしょう?」
笑いながら、そう言った顔を思い出す。
話すべきなのか、いや、そんなことは、できない。
雄一は公園のベンチに腰を下ろし、
答えの出ない思考に身を委ねていた。
平日の昼間、人影はまばらだった。
そのときだった。
「隣、いいですか」
低く、落ち着いた女性の声。
不意を突かれ、雄一は顔を上げた。
声の主は、すでにベンチの端に立っていた。
短く整えられた髪。
中性的な服装。
年齢は、はっきりとは分からない。
戸惑う雄一に、女性は視線を合わせたまま、静かに言った。
「瑛太さんの父、雄一さんですよね」
名を呼ばれて驚いた。
何故、自分を知っている。
どうして、今、ここで。
「失礼ですが」
女性は一度、言葉を切る。
「少しだけ、お話ししたいことがあるんです」
午後の公園、空気は乾いて澄んでいるのに、隣に座った女の存在だけが、周囲から温度を奪っていくようだった。
サングラスをかけた女の表情は読めなかった。だが、口元だけはわずかに動いた。
「あなたの息子、相変わらずですね」
冷たい、いや、違う、むしろ何も感じていない、そんな無の響きだ。
「結婚して妻がいるのに、昔と何も変わっていない」
耳に届いたその言葉が、現実なのか、すぐには判断できなかった。
だが、心の奥が妙にざわつく。理性が、直感を追いかけている。
「あなたは、瑛太を知っているのか」
絞り出すように尋ねると、女はゆっくりと頷いた。
「あなたに、見せたいものがあるんです」
女の手がゆっくりとバッグへと伸びた。
慎重で、ためらいのない動き。
中から取り出されたのは、一枚の茶封筒だった。
「これを見て、決心がついたら、連絡してください」
何の決心なのか、すぐには理解できなかった。
「持ち帰っては駄目です。奥さんには見せないで、すぐに処分してください」
女はそれだけ告げると、静かに立ち上がった。
サングラスの奥の視線は終始読めず、ただ、彼女の声だけが妙に現実味を持って胸に残った。
ゆっくりとした足取りで去っていく姿が完全に見えなくなるまで、雄一は動けなかった。
取り残されたベンチの上で、茶封筒だけが不気味な存在感を放っている。
震える指先で封を切った。
中から出てきたのは、数枚の写真だった。
一枚目を見た瞬間、雄一は息を飲んだ。
そこには瑛太が映っていた。
桜ではない若い女と、親しげに腕を組んで歩いている。
恋人のように、自然に、笑って。
もう一枚、さらにもう一枚。
写っている女性は、どれも違った。
時間、場所、服装。
偶然ではない。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
雄一は写真の隅に印字された日付に目を落とした。
指先の震えが止まらなかった。
結婚直後。
その翌月。
最近。
喉の奥が締めつけられるように痛んだ。
「結婚したときから、ずっと、裏切っていたのか」
声が、かすかに漏れた。
桜の笑顔が脳裏に浮かぶ。
無邪気で、優しく、夫を信じて疑わない顔。
怒りでも、哀しみでもなかった。
もっと静かで、逃げ場のない感情だった。
理解。
息子は、最初から桜を裏切っていた。
その事実だけが、乾いた冬の空気の中で、妙に鮮明だった。
写真を持ち帰るわけにはいかない。
雄一は、処分の方法をいくつも思い浮かべた。
ゴミ箱など論外だ、燃やすのも、今の時代では目立ちすぎる。
図書館、役所、コピー機のそばに置かれている、機密文書ボックスを思い出した。
投入口から落ちた紙は二度と取り出せない。
中身を確認されることもない、確実に処分できる。
写真のうち、一番新しいものだけをスマホで撮影した。
証拠として残すためだ。
それ以外はすべて、封筒ごと細かく折り、ジャケットの内ポケットに押し込む。
封筒の底に、小さな紙片が残っていた。
連絡先の番号、「A子」という名前。
スマホに登録し、紙片も細かくちぎった。
女が言った通り、持ち帰る必要はない。
むしろ、存在してはならない。
決断はもう終わっていた。
後は、自分がどう動くかだけだ。
その夜、夕食を終えたあと、雄一は「散歩してくる」とだけ告げて家を出た。
夜風は冷たく、吐く息さえ白い。
電話の内容を、桜に聞かせるわけにはいかなかった。
スマホの呼び出し音が一度鳴っただけで、相手は出た。
「待っていました」
A子の声は静かだった。
自分がかけてくるのを最初から知っていたように。
「君は、何をするつもりだ」
雄一は低い声で問いかけた。
「少し間を置いて、A子は淡々とした口調で返してくる。
「まず聞きたいんですけど……写真、合成だとか偽造だとか、そうは思わなかったんですか?」
夜道に、彼女の問いだけが響いた。
雄一は、言葉を探した。
だが、喉の奥で何かが固まって、うまく動かない。
沈黙。
それが、答えになってしまっていた。
「父親なのに、認めるんですか」
A子の声は静かだったが、その静けさが逆に鋭く胸に刺さった。
雄一は、何も言わなかった。
否定も、肯定もできなかった。
「あなたの息子に復讐したい、協力者を集めています」
その言葉に、雄一は小さく眉を動かした。
自分以外にも、声をかけている者がいるというのか。
「淳一という男性、知っていますか。瑛太さんの大学時代の友人です。彼は、私のことも知っています」
雄一は、思わず歩みを止めた。
胸の奥に、鈍い衝撃が広がる。
淳一、名前だけは聞いたことがある。
だが、その男が彼女の過去を知っているという事実が、重くのしかかる。
A子は続けた。
「でも、復讐の前に……大事なことがあります」
「なんだ」
息を整えて尋ねた。
わずかに声が掠れたのが、自分でもわかった。
「桜さんのことです」
その名前が出た瞬間、雄一の胸が静かに、だが確かに揺れた。
「彼女を不幸にはしたくない。私みたいな人間を増やしてはいけないんです」
夜気の中で、A子の言葉だけが鮮やかに響いた。
雄一は驚きを隠せなかった。
復讐を口にする女が、桜の幸せを案じている。
そこに、憎しみだけでは割り切れない“別の感情”が混ざっていることが、雄一には分かった。
「桜を、幸せに?」
「彼女を幸せにして、そのうえで瑛太に復讐するんです。
同時に、です」
あまりに矛盾した宣言に、雄一の呼吸が一瞬止まった。
幸せにする。
復讐する。
両立しないはずの言葉が、彼女の口から平然と並べられている。
だが、不思議と嘘には聞こえなかった。
胸の奥で、何かが音を立てて動き始める。
驚き、戸惑い、説明できない、別の感情。
このとき、雄一は電話の向こうの女性を敵とも他人とも思えなくなっていた。