クズ夫と復讐者の裏で、何も知らない妻は義父に恋をした 作:木桜 春雨
妻の桜がクリスマスのメニューについて楽しそうに話す様子を見ながら、瑛太は適度に相槌をうっていた。
表情は柔らかく、声は夫として十分誠実に聞こえるように整えてだ。
「実は取引先の相手からパーティに呼ばれている、年明けの商談相手も来るんだ。」
仕事を理由にするのは簡単だった。
桜は少し驚いた顔をしたが、疑う気配は一切ない。
「心象を良くしておきたいこともある、他の会社の人間も来るんだ」
もっともらしく言いながら、瑛太は桜の反応を観察する。
心配こそすれ、責める素振りはない。それが彼女だ。
予想通りだ、と内心で冷めた笑みを隠す。
「雪が降るみたい、帰りのタクシーも電車も大変じゃない?」
「泊まりになるかもしれない」
「その方が安心よ」
桜の言葉に瑛太は胸の奥で静かに微笑んだ。
彼女が自分を信じているほど、自分の“自由”は確保される。
「一人にするのは悪いが、今年はオヤジもいるし」
「大丈夫、雄一さんもいるし」
瑛太はホッとしたように見せかけて頷いた。
演技というほど力は要らない。慣れすぎていた。
「オヤジと外で食事したらと思ったが、脚本家って仕事、芸能関係だからさ。変に見られると困るだろ?」
瑛太の言葉に、桜はすぐ理解を示すように頷いた。
「そうよね。芸能関係の人に見られたら大変でしょ。
クリスマスだし、噂にでもなったら」
瑛太は、自然な笑みを浮かべて見せた。
夫としての表情は完璧に整っている。
桜が安心し、納得し、疑いを一切抱かないのは分かりきっていた。
「だからケーキを予約しておいた。夕方には届くはずだ、料理は作るんだろう」
その一言で、桜の顔がぱっと明るくなる。
瑛太は内心でゆっくりと息をついた。
――これでいい。
桜が喜べば、文句を言う理由はない。
ケーキひとつで、家庭は円満に見える。
いい夫という仮面も、簡単に維持できる。
瑛太の胸の奥には、静かで冷たい計算があった。
この家に自分を疑う者はいない。
桜は信じている、自分の父親も深入りしてこない。
だからこそ。
今夜は浮気相手と過ごせる。
その事実を噛みしめながら、瑛太は表面上だけ優しい夫であり続けた。
胸の内側でだけ、誰にも見せない薄い笑みがゆっくりと形を作っていく。
罪悪感など、とっくの昔に捨てていた。
A子は思っていた。
クリスマス、あの男は、もっともらしい言い訳を用意して、浮気相手と過ごすだろうと思った。
念のために調べてみた、結果は、予想通りだ。
仕事と偽って妻を安心させる、嘘をついても罪悪感を抱く素振りすら、見せない。
罪の意識がないのだ。
A子は雄一に連絡を入れた。
メッセージを見た雄一は、家を出た。
会話を家の中でしたくなかった。
桜に聞かれるわけにはいかない。
まして、息子に感づかれたら取り返しがつかない。
夜の空気は冷たく、街はクリスマスの灯りで騒がしい。
その中で、A子の声だけが静かに響いた。
「クリスマスの予定は、どうなっていますか」
「仕事先のパーティだそうだ。泊まりになるかもしれないと」
短く答えると、A子は一拍置いた。
「浮気相手と過ごすんじゃないですか」
「調べたのか」
雄一の問いに、返事はなかった。
「桜さんと、食事はどうです」
A子の言葉は、会話の流れを突然断ち切るように響いた。
裕司は返事ができない、意味がわからないというより、理解が追いつかなかったからだ。
「こちらで準備します。個室です。あなたは脚本家、人目がある、と言えば桜さんも納得するはずです」
桜と食事。
どうして自分が、何故、そんな提案がここで出てくる。
胸の奥に、ざわりと重い波が立つ。
息子の話をしていたはずなのに。
「何を、考えているんだ」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど低く響いた。
「見てほしいんです。お願いします」
命令でも脅しでもない。
むしろ、静かな懇願に近い響きだ。
拒むことはできない、嫌だと拒絶することも。
「……分かった」
「クリスマスだが、外で食べないか」
その言葉に、桜は目を丸くした。
クリスマスの夜に義父から誘われるとは思ってもいなかったのだろう。
「えっ、外で、ですか?」
裕司は、できるだけ自然に続けた。
「実はね、友人が店を予約していたんだが、急に仕事が入ってしまってね。キャンセルするのはもったいないから、よかったら代わりにどうかと」
「個室なんだ、キャンセルするのももったいない。それに、私も……女性と二人でいて“脚本家の〇〇氏に新恋人か”なんて書かれたら、さすがに困る」
裕司が冗談めかして言うと、桜はふっと笑った。
「今は芸人さんの付き人でも週刊誌に撮られる時代です。ましてや脚本家さんなら、十分、ネタになりますよ」
軽口のように言ったものの、その声にはどこか本気がにじんでいる。
裕司は思わず頷いた。
最近の芸能ニュースを思い返す。
テレビに出ない地下アイドルやインフルエンサーがスキャンダルで炎上する時代だ。
SNSの一枚の写真が、瞬く間に拡散される。表に出る職業であれば、誰もが見られる存在になっている。
(桜にとって、俺も芸能人みたいなものなのか)
ふと、そんなことを思った。
だから彼女は最初から「お義父さん」ではなく「裕司さん」と呼んでいたのかもしれない。
クリスマス当日。
街は浮き立ち、笑い声と音楽が途切れることなく流れている。
裕司だけが落ち着かなかった。
理由のない緊張が、胸の奥に張り付いている。
スマホが震えた瞬間、心臓が強く跳ねた。
反射的に画面を伏せ、周囲を確かめてから表示を確認する。
A子からだ。
電話ではない、メールだ、それがかえって不安を煽った。
即座に開く。
「食事は楽しんでください。終わった後、あなたに声をかけてくる人物がいます、知っている人です」
短い文面だった。
(知っている人間?)
頭の中で、いくつもの顔が浮かんでは消える。
だが、どれも決定打にならない。
何故、食事の後なのか。
胸の奥がざわつき、嫌な予感だけが膨らんでいく。
祝祭の夜に、静かに仕掛けられた何か。
それが避けられないものであることだけは、はっきりと分かった。
店内は落ち着いた照明で、白木のテーブルが柔らかく光を反射している。
聞こえてくるのは控えめなBGMと、静かな湯気の音。
騒がしさとは無縁の、品のある和食店だった。
運ばれてきた料理を見て、桜は思わず声を上げた。
「わぁ、飾り付けが綺麗、なんだか、食べるのがもったいないです」
雪の結晶を模した器、淡い色の盛り付け。
桜が驚いて自分を見るその表情に、裕司は自然と笑みを返していた。
「本当だな、友人が食べられないのは残念だよ」
その言葉は半分冗談、半分本音だった。
桜は嬉しそうに箸を取り、そっと料理に触れる。
自分が選んだわけでもない店で、こんなにも喜んでくれるのか、そのことが裕司の胸に、じんわりと温かいものを落とした。
だが、心の奥には別の影がある。
A子からのメール。
「知っている人物が現れる」という不穏な予告。
胸の中に張り付く重さは消えない。
消えはしないが――ふと、思った。
(せめて、今だけは、楽しんでもいいか)
桜の笑顔の前で、暗い予感ばかり抱えているのが馬鹿らしく思えてくる。
出汁の香り、丁寧に焼かれた魚の音、桜の小さな感嘆。
そのすべてが、不安をわずかに薄める。
A子の仕掛けは、この後に待っている。
避けられないことも分かっている。
だが、この食事だけは汚したくなかった。
裕司は静かに箸を取り、桜のほうに目を向けた。
この時間だけは、普通の大人として。
ただ、目の前の料理と桜の笑顔を楽しみたい。
そんなささやかな願いが、胸の中にそっと灯った。
「クリスマスに、こんな素敵で贅沢な時間を過ごせるなんて、お友達の方にお礼をしないといけませんね」
桜が、テーブル越しに微笑んだ。柔らかな笑顔だった。何も知らない、その無垢さが、胸に静かに刺さる。
「そうだな。いや、俺が礼を言っておくよ。気にしなくていい」
雄一は穏やかに言ったつもりだったが、どこか言葉に力がこもってしまった気がした。
桜は「焼き菓子の詰め合わせでも……」と言いかけて、ふとその声を止めた。
義父の人間関係に踏み込みすぎるのは、良くないと思ったのだろう。
「それじゃあ、喜んでいたって……伝えてくださいね」
桜は、にこやかに締めくくった。
その姿が、雄一にはどうしようもなく、切なかった。
目の前で微笑むこの女性が、何も知らず、裏切られたまま笑っている。
それを、守ろうとする自分が、今はまだ真実を語ることもできずにいる。
知らないままで、いられたら良かったのに。
そんな想いが、一瞬、雄一の胸を通り過ぎた。
店を出たときだ。
不意に名前を呼ばれ、雄一は振り返った。
暗がりの中から歩いてくる男の顔を見て、一瞬、誰だか判断できなかった。
しかし男が軽く笑った拍子に、ふと記憶が蘇る。
「淳一です。瑛太のやつ、元気ですか?」
息子の名前が出た瞬間、雄一の胸がわずかに硬くなった。
瑛太の大学時代の友人、確かに面影がある。
しかし、今この場所で会うのは、あまりにも偶然すぎた。
「こんなところで会うなんて、偶然だな」
そう答える声に、自分でも気づくほど小さな緊張が混ざった。
「仕事が一段落して、晩飯を食べたんです。桜さん、こんばんは」
淳一は変わらぬ調子で笑い、桜のほうに軽く会釈した。
「お久しぶりです、淳一さん」
桜はニッコリと笑った。
その笑顔は、クリスマスの街灯に照らされていっそう温かかった。
だが、雄一の胸には別の温度が流れていた。
A子のメール。
“知っている人物が声をかける”という予告。
このタイミングで現れた淳一。
(……まさか、彼が?)
桜の明るい挨拶とは裏腹に、雄一の背筋を冷たさが走った。
偶然か、仕組まれたものか。
判断できないまま、雄一は静かに呼吸を整えた。
雄一は桜に向き直り、声を落として言った。
「桜さん、先に帰っていてくれないか。……少し、話をしたいんだ。君、IT会社で働いているんだろう?」
桜は淳一が頷くのを見て小さく会釈した。
雄一はそれ以上、理由を説明しなかった。
説明すべきではない、と直感していた。
タクシーが走り去り、赤いテールランプが夜の向こうに消える。
街の喧騒が遠のき、二人の間に重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、淳一だった。
「A子。彼女を、恨まないでほしいんです」
突然の名前に、雄一は息を飲んだ。
「最近なんです。A子に会ったのは。実は、大学時代からの知り合いでした」
淳一は視線を落とし、続ける。
「俺は彼女のことが、好きだったんです」
予想もしなかった告白に、雄一は言葉を失った。
ただ、目の前の男を見ることしかできない。
「A子は……瑛太が好きだったみたいで。
でも、周りには内緒で付き合っていたらしいんです」
淳一の言葉に、雄一は眉をひそめた。
「内緒で、付き合っていた?」
思わず聞き返していた。
大学生だ。もう子どもではない。
なぜ隠す必要がある。
雄一には、すぐには意味が分からなかった。
「彼女以外に、複数の女性と、同時に付き合っていたらしいんです」
淡々とした声だった。
だが、その内容は、容赦なく重い。
「A子だけじゃない。他の女性たちも、誰一人気づかなかったみたいで」
言葉が、胸の奥に沈んでいく。
隠していたのではない。
巧妙に、使い分けていたのだと、遅れて理解が追いつく。
雄一は、しばらく何も言えなかった。
息子の顔が浮かぶ。
人当たりがよく、要領がよく、嘘を嘘とも思わないような笑顔。
(そんなことを、平然と)
怒りよりも先に、冷たい感覚が広がった。
自分の知らない息子。
いや、知ろうとしなかった息子。
内緒で付き合う理由は、ただ一つだったのだろう。
誰かを選ぶ気など、最初からなかった。
雄一は、静かに息を吐いた。
吐息が白く、夜に消えていく。
クリスマスの明かりが遠くで瞬いている。
祝祭の裏側で、息子の過去が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
「A子に会ったのは……最近なんです」
淳一は、吐くように言った。
「もし、まだ一人なら、チャンスがあると思って、付き合いたいって、結婚も考えているって言いました」
そこまで言ったところで、淳一は目を伏せた。
「でも、断られました」
その声音には、失恋の痛み以上のものが滲んでいた。
「好きな人がいるのか、結婚しているのか……そう聞いたら、A子が言ったんです」
淳一は唇を震わせながら、搾り出した。
「自分は、女ではなくなったって」
雄一は言葉を失った。
意味が分からない。
いや、理解したくなかった。
「それは、どういうことだ」
問いは自然に口から漏れていた。
淳一はゆっくりと顔を上げ、その目には怒りとも悲しみともつかぬ色が宿っていた。
「妊娠と、中絶です」
言葉が夜の空気を鈍く切り裂いた。
「大学時代に。その相手は――」
雄一の胸に、冷たいものが落ちていく。
まさか、いや、考えたくない。
だが、状況はひとつの答えしか示さない。
雄一の呼吸がわずかに乱れた。
この年になっても、こんなふうに足元が崩れる感覚を味わうとは思わなかった。
クリスマスの賑わいが遠く聞こえる。
祝福の夜にふさわしくない真実が、容赦なく雄一の胸に落とされていった。
A子の復讐が少しずつ始まろうとしていた。