クズ夫と復讐者の裏で、何も知らない妻は義父に恋をした 作:木桜 春雨
街中で名前を呼ばれた瞬間、どうして振り返ってしまったのか、今でもわからない。
「英子だろ」
その声に、思わず足を止めてしまった。
そんな必要なんてなかったのに。
知らない人のふりをして、そのまま通り過ぎればよかった、それなのに。
ほんの少しだけ、顔を向けてしまった。
それだけで終わった気がした。
男は笑顔で立っていた、過去の記憶の中と、ほとんど変わらない顔でだ。。
淳一は、大学時代と同じ柔らかな表情を浮かべて立っていた。
「久しぶりだな」
その一言が、胸の奥を静かに刺した。
「どうして、わかったの」
声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。
昔とは違う、地味な黒のパンツスーツ。
身体の線を消すためだけの服。
男と間違われても不思議じゃない格好。
淳一は、わずかに目を伏せ、困ったように、少し照れた笑みを浮かべた。
「すれ違った瞬間、あれって思ったんだ」
そう言って、視線を私の顔に戻す。
「どうしたんだ、そのサングラス」
その問いに、心臓が一度だけ強く跳ねた。
似合っていない、そう言われた気がして何も答えられなかった。
時間が、わずかに動き始めた気がした。
「今は、A子って名乗ってるの。英子じゃない」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
淳一は踏み込まなかった。
ただ困惑と戸惑いを、そのまま顔に浮かべて立っている。
理由を話すつもりはなかった。
最初から、その選択肢は存在しなかった。
それなのに。
「瑛太とは、今でも付き合いがあるんでしょ」
淳一は、小さく頷いた。
駄目だ、これ以上は聞いてはいけないと思った。
「どこへ行くんだ。よかったら、送るぞ」
引き止めるほど強くはない。
けれど、放っておけない距離に踏み込んでくる。
「墓参り」
短く答えた。
誰のとは聞かれなかった、答えたら自分は話さなければいけなくなると持ったからだ。
だが、心のどこかで言ってしまいたいと思う自分もいた、 そうなったら、軽くならないかと思ったのだ。
「おまえ、大学で、あいつの提出物とか、手伝っていたのか」
その言い方に、わずかな違和感を覚えた。
確認するような言葉だ。
淳一は、少し困ったように視線を逸らした。
「大学じゃ、お前と瑛太は、利害関係だって噂が流れてた」
意味が分からなかった。
「お前が、あいつの提出物、レポート、色々と手伝って、その代わりに」
淳一は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「俺は、おかしいと思ってた」
そう言って、A子のほうを見る。
「お前、講義もゼミも真面目だっただろ。出席だって欠かさなかったし、レポートも自分でやってた」
淡々とした口調なのに、その一つ一つが胸に刺さる。
「金をもらって、ゼミやレポートの代行を引き受ける、そんなことをする性格じゃないと思ってた」
A子の胸の奥が、すっと冷えていく。
淳一の表情には、どこか、信じきれないという色が残っていた。
噂を疑っているのではない、理解できずにいる顔だった。
A子は淳一の言葉に返事ができなかった。
自分がいない場所で、そんな噂が流れていたことを。
恋も、苦しみも、すべてを削ぎ落とされ、都合のいい関係として処理されていた、知らなかった。
否定する言葉も、説明する理由も見つからない。
自分の大学生活が勝手に歪められていた。
その事実だけが、重く胸に沈んでいった。
付き合っていると思っていたのは、自分だけだった。
卒業したら結婚しよう。
二人で語った時間、信じて疑わなかった未来は嘘だった。
何もなかったのだ。
A子は、墓石から視線を上げた。
「もし、あたしと瑛太が付き合って、結婚を約束していって言ったらどう思う?」
その問いに、淳一の表情が止まった。
驚きが、遅れて滲み出る。
冗談だと処理することも、否定することもできず、
ただ言葉を失った顔で、A子を見ている。
A子の声は、淡々としていた。
怒りも、涙も、そこにはなかった。
淳一は、すぐには何も言えなかった、唇を強く噛みしめる。
驚きではない、知ってしまったことへの重さに耐えきれない仕草だった。
「誰の墓だ」
沈黙に耐えきれなくなったように、淳一は墓石へ視線を落とした。
刻まれた名前を追い、言葉を探すような間があった。
「あたしの妹になるはずだった子」
A子は、わずかに口角を上げた。
笑った、というより、笑う形を作っただけだった。
「弟の、彼女よ」
その声は驚くほど静かだった。
淳一は息を詰め、何も言えずに墓石を見つめる。
「あたしのせい」
ぽつりと、A子が続ける。
自嘲するような笑みが、消えない。
弟の彼女が、夜の繁華街を一人で歩いていた。
酒が飲みたいから、誰かと遊びたかったからでもない。
そんな性格じゃない、と弟は言った。
アルコールは体質的に受けつけない、医者からも、止められて、普段から、飲み屋の空気すら避けていたはずだと。
「もう、会わない」
A子は静かに言った。
「その方がいいでしょう」
ここで切り離すつもりだった。
すると、淳一はゆっくり首を振った。
「待ってくれ」
その声は、懇願ではなかった。
「もう一度、会いたい、その時までに」
「意味がわからないんだけど」
「瑛太のことだ、調べる」
その名前が出た瞬間、
A子は反射的に首を振った。
「後悔することになったら?」
だが、淳一はA子を一切の迷いを削ぎ落とした、真顔で見た。
「俺は大学にいたときから、君が」
一瞬、言葉が途切れる。
言葉は続かない、A子は息を止めた。
理解が、追いつかない。
意味を掴む前に、胸の奥がざわつく。
そんな感情を向けられる覚えはない。
今さら、そんな話をされる理由もない、なのに淳一の目は、逸れなかった。
A子は、はっとした表情で立ち尽くす。
自分が踏み込もうとしている世界が、復讐だけでは済まない場所だ、そのことを、初めて思い知らされた瞬間だった。
A子が去ったあと、淳一は一人、墓前に残った。
静けさの中で、墓石を見下ろす。
ポケットからスマートフォンを取り出し、写真を一枚だけ撮る、名前を、忘れないためだ。
画面に映る文字を見つめながら、胸の奥が重くなる。
A子は言った、瑛太と、付き合っていたと。
結婚の約束までしていたと、知らなかった。
だが同時に、どこか腑に落ちない感覚もあった。
大学時代、何度か聞いたことがある。
「付き合ってる女はいるのか」
そのたびに瑛太は笑って、ゼミや勉強が忙しくて、そんな暇はない、と言った。
もっともらしい理由だった。
だが、内心では引っかかっていた。
女にモテる顔だ、要領もいい。
誰とも付き合っていないというのは、不自然だった。
だが実際、女性と親密そうにしている様子は、見たことがなかった。
なのに、A子と付き合っていた?
頭の中で、その事実が何度も反芻される、おかしい、どう考えても。
「何を隠してた」
誰に向けたとも分からない独り言が、墓前に落ちた。
淳一は、もう一度墓石に視線を戻す。
弟が付き合っていた女性は、亡くなった。
その事実が、墓前を離れてからも、淳一の頭を離れなかった。
歩きながら、何度もA子の顔を思い出す。
引っかかるのは弟の恋人が亡くなったことを、A子は必要以上に気にしているように見えた。
まるで、自分が原因だと思い込んでいるように。
もしかして関係している、繋がっているのではないか。
そんな考えが、頭から離れなくなる。
理由を聞けばよかった。
そう思わなかったわけじゃない。
けれど、あの表情では、答えは返ってこなかっただろう。
A子は、もう言葉で救われる段階にいない。
そう直感した。
「ああ、あの子ね。酒が飲めないから、ずっとソフトドリンクを頼んでたよ」
小さなバーのマスターは、記憶を辿るように言った。
「注意したんだ。女の子一人で入ってきたし、若くて可愛い子だったからね。酔っぱらいだけじゃない、夜遅くなると危ないやつもいるから」
淳一は頷きながらも、胸の奥に引っかかりが増していく。
「そうですか、でも、飲めないのにバーに来るなんて」
「人を探していた。男をね」
マスターの声は淡々としていた。
誰だ、誰を探していた?
「必死になって探してた。こっそりとね」
その言葉が淳一の思考を鋭く止めた。
「スマホの写真を見せられたんだ、この人、知りませんかって言われてね」
マスターの言葉に驚いた。
「どんな男だったんです?」
問いながら、淳一は胸が締めつけられるような予感を感じていた。
「いい男だったな。でも彼氏じゃない。その時の彼女の顔見て、違うって分かった」
淳一の目が大きく見開かれた。
彼氏じゃ、ない?
亡くなった弟の恋人は、男を探していた。
だが、誰だったのかは分からない。
それが、淳一の胸に重く沈む。
このことを、A子の弟は知っていたのだろうか。
こっそりと男を探していた事実を。
知らないなら、伝えるべきなのか。
もし知っていたなら、なぜ黙っているのか。
疑問は増えるばかりなのに、どれも答えに届かない。
淳一はため息をつき、A子の残した背中を思い出す。
あのとき、聞けたはずだった。
問いただせば、何か掴めたかもしれない。
だが彼女は、何も言わなかった。
そして自分も、それ以上踏み込めなかった。
今さらになって、悔しさがこみあげる。
「A子に、もう一度会わないと」
そう思った瞬間、連絡先を知らない事に気づいた。
不意に瑛太の顔が浮かんだ。
だが、大学時代、A子と付き合っていたのか?
そんなこと、聞けるはずがない、聞けば最後だ。
自分が何を探しているのか、何に気づこうとしているのか。
淳一はゆっくりと息を吐いた。
だがA子に会うしか道はない。
弟に直接聞くこともためらわれる。
どこに踏み込めばいいのか、
どこから糸を引けばいいのか、
答えのない迷路に投げ込まれたようだった。
胸の奥で、静かに不安が増えていく。
このままでは、何も掴めない”
だが、下手に動けば、取り返しのつかないことになる。
淳一は、立ち尽くすしかなかった。
「……出張?」
桜は、思わず声を上げてしまった。
その表情には驚きと、わずかな戸惑いが混ざっている。
瑛太は気にした様子もなく、軽く笑ってみせた。
「海外なんだ。一週間ほどね」
瑛太は肩をすくめる。
「最低限でいいよ。大きな荷物持っての移動は面倒だし、必要なものは向こうで買うから」
桜は素直に頷いた、疑いなど微塵もなかった。
瑛太は一瞬、桜を見つめ、それから視線を逸らす。
「オヤジのこと、頼むよ。新しいドラマの脚本で忙しいみたいだからさ」
何気ない口調、その言葉に桜は安心したように表情をゆるめた。
「裕司さんの部屋、足元冷えるでしょう? ホットカーペット買ってもいい?」
「もちろん。寒いの苦手だしな」
穏やかな会話。
まるで何の問題もない夫婦の日常のように見えた。
だが、どこかで何かがずれている。
瑛太の笑顔は、桜に向けられているようでいて、その奥には別の世界があるように感じられた。
桜は気づかない。
瑛太は軽やかに微笑む。
その影がどれほど深いものか、彼女だけが知らない。
淳一が動き始めた。
その知らせは予想以上にA子の胸を締めつけた。
まさか、と思った、本気で調べようとしているなんて。
弟の恋人の死を。
そこに踏み込めば、二度と引き返せない場所に足を踏み入れることになる。
淳一の正義感、優しさも真実の重さの前では、容易く歪んでしまうかもしれない。
弟の恋人は内緒で調べていた、弟に言えなかった、も当たり前だ、弟が知れば動こうとする。
恋人の為、そして姉である自分の為に。
A子はスマホを開く。
画面に残る、一通のメール、他ならぬ自分宛だ。
弟の恋人が自分に送ってきた真実。
読み返すたびに、胸の奥が痛む。
これを見たら、淳一はどう思う?”
その問いが、鋭い刃のように刺さる。
もし淳一が知れば指先が震える。
怖いのは淳一が傷つくことだけではない。
自分がその背中を押してしまうかもしれない”
その可能性の方が、よほど恐ろしかった。
利用したくない。
淳一を、自分の復讐の道具にするようなことは。
A子は深く息を吸った。
彼の動きを止めるにしても、導くにしても向き合うしかないと思った。
年内にUPできた、よかった。