※この作品はR-18です。

葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー   作:戌威

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第10話 線引き

 

 執務室の窓は半分だけ開いていた。潮の匂いが薄く入ってきて、書類の紙の匂いと混ざる。

 そのはずなのに、今夜は空気が重い。

 

 机の上には、簡単にまとめた取調べ記録。

 “侵入者”――呉鎮守府にフェンスを越えて入り、倉庫に潜んでいた男の供述。

 動機は分かりやすい。けれど、言葉の端々に残る震えは、理屈のための演技ではなかった。

 

 ……いや。

 あれは理屈の外側で起きた恐怖だ。

 

 俺は帽子を机に置き、額を押さえて息を吐く。

 

「提督。呼んだか」

 

 扉がノックもなく開いて、長門が入ってきた。相変わらず背筋が真っ直ぐで、鎮守府の柱そのものみたいな立ち姿だ。

 その後ろから、小さな足音。控えめなノックの遅れ。

 

「失礼します……」

 

 吹雪だ。疲れと気遣いで顔色が薄い。けれど目だけは逃げていない。

 その二人のさらに後ろ、廊下の角からもう一つ足音が近づく。

 

「……」

 

 葵が入ってきた。

 いつもの笑顔――ではない。けれど、無理に明るく振る舞っている感じもしない。

 ただ静かで、落ち着いている。

 それが逆に、今夜の話の重さを際立たせる。

 

「座ってくれ。……葵さんも」

 

「うん」

 

 葵は椅子に腰を下ろすと、両手を膝の上に重ねた。指先が少しだけ白い。

 気丈だ。でも、何も感じていないわけがない。

 

 長門は立ったまま、吹雪は椅子の端に浅く座る。

 俺は一度、窓の外を見た。暗い海。遠くに灯台の光。

 ――それから、覚悟を決めて口を開いた。

 

「今日、倉庫に侵入者がいたのは……聞いてるな」

 

「うん。長門さんから“警備が一時止まる”ってだけは」

 

 葵はそう言った。

 “止まる理由”を聞かずに待った、という言い方にも聞こえた。

 

 俺は記録を指で押さえ、言葉を選びながら続ける。

 

「侵入者は、艦娘反対派。艦娘を“兵器”と呼ぶ連中の一部だ。

 “艦娘が戦争を呼んだ”“深海棲艦を刺激した”“だから艦娘を否定すべきだ”……そういう主張だ」

 

 吹雪が小さく息を呑む。

 長門は眉ひとつ動かさない。ただ、目の奥が冷えている。

 

「倉庫の死角に潜んでいた。目的は……最初は宣伝だと言った。

 だが、話を進めると“証拠を掴む”とも言った。……何の証拠かは、言葉を濁した」

 

 葵の視線が、静かに俺の口元に向く。

 急かさない。けれど、逃がしてくれない視線。

 

「そこで――」

 

 俺は、一度だけ言い淀んだ。

 この先を言うと、彼女の中にある“日常”に傷を入れる。

 

 それでも言うべきだ。

 彼女は知らなきゃいけない。

 “守られる側”としてではなく、“ここで共に在る人間”として。

 

「……侵入者は、ハヤトさんに近づいた」

 

 吹雪の手が、膝の上でぎゅっと握られる。

 

「“正体不明の何か”がいる、と噂になっていたらしい。

 それを確認したかった。――もしくは、排除したかった」

 

 葵は目を伏せずに聞いていた。

 ただ、口元だけが僅かに固くなる。

 

「侵入者は、刃物を持っていた」

 

 空気が一段、冷たくなる。

 窓から入る潮風ではない。言葉の冷たさだ。

 

 俺は淡々と続けるしかない。

 

「首元を狙った。

 ……刺そうとした」

 

 吹雪が俯いた。

 長門の拳が、僅かに握られる。

 

「だが、刃は刺さらなかった。皮膚に少し食い込むだけで止まった。

 ハヤトさんは、無表情のまま侵入者の手首を掴んで――」

 

 俺は、その場面を思い出す。

 怒号も、威嚇も、殺気もなかった。

 ただ、確定した現実みたいに、静かな声だった。

 

「『捨てろ』と言った」

 

 葵の指先が、膝の上で小さく動いた。

 何かを確かめるみたいに、自分の指を軽く握り直している。

 

「侵入者は……それで崩れた。

 抵抗もしない、怒りもしない、ただ淡々と命令される。

 それが――“触れてはいけないものに触れた”って恐怖に繋がったんだろう」

 

 吹雪が小さな声で言う。

 

「……あの人……怒らないのが、怖いんです」

 

 俺は頷く。

 

「そうだ。

 “怒り”なら理解できる。

 “憎しみ”なら言い訳できる。

 でも、あれは違った。……感情の外側で線を引かれた」

 

 長門が低く言う。

 

「ハヤト殿は反撃しなかった。

 侵入者を制圧はしたが、殺そうとはしなかった。

 その場で終わらせる力があるのに、選ばなかった」

 

「……うん」

 

 葵が小さく返事をした。

 それだけで、彼女が何を思っているか少し分かる。

 “らしい”と思っている。

 

 俺は、葵を見た。

 

「葵さん。……聞いておきたい。

 こういうことは、以前からあったのか?」

 

 葵は一秒も迷わなかった。

 

「うん。……以前から、そうだよ」

 

 そして、続ける。

 その声が、今までより低い。

 

「線を越えたら、容赦しない」

 

 吹雪が顔を上げる。

 長門の目が、僅かに鋭くなる。

 

 俺の背中がぞくりとした。

 言葉の意味が怖いからじゃない。

 それが“真実”だと分かる言い方だったからだ。

 

 葵は、俺と長門と吹雪を順に見た。

 責める目じゃない。

 諭す目でもない。

 ただ、隠していたものを隠さずに置く目。

 

「それが、ハヤトで――」

 

 一度、息を吸う。

 

「それが、みんなで――」

 

 “みんな”。

 その一言で、ハヤトが孤立した異常じゃないと分かってしまう。

 背後に、文化がある。掟がある。共有された生き方がある。

 

 葵は、静かに言った。

 

「それが、冥焔連の掟だよ」

 

 ――冥焔連。

 初めて聞く名前なのに、不思議と“重さ”だけは伝わった。

 炎の匂い。

 黒い熱。

 それでも、守るための手。

 

 長門が口を開く。

 

「……冥焔連、とは何だ」

 

 葵は、少しだけ視線を落とす。

 悲しいからじゃない。

 思い出の底を確かめるみたいに、静かだった。

 

「ハヤトがいた場所で……ハヤトが背負ってきた人たちの名前。

 家族、仲間、居場所。

 ……それが“冥焔連”」

 

 吹雪が唇を噛んだ。

 葵は気づいたけれど、あえて見ないふりをする。

 優しさの形が、ここでも同じだ。

 

「でもね」

 

 葵は顔を上げて、微笑む。

 作った笑顔じゃない。

 “今の自分”が持てる分だけの、自然な微笑みだ。

 

「冥焔連は、怖いよ。

 ハヤトも、怖い。

 それを否定しない。……否定できない」

 

 吹雪が小さく頷く。

 

「だから、私も“恐れていい”って言うの。

 恐怖を我慢して、無理に笑って、“大丈夫なふり”をする方が壊れるから」

 

 俺は、胸の奥が少し痛くなった。

 この人は――自分が拒絶される痛みを知っている。

 それでも、相手の恐怖を否定しない。

 

「でも」

 

 葵は、そこで言葉を強くした。

 強いのに、声は荒れない。

 凪いだ海の底にある岩みたいな強さだ。

 

「線だけは越えさせない」

 

 俺が問い返す。

 

「……線、とは?」

 

 葵は即答した。

 

「“奪う”こと。

 生きてる人を、弱い人を、傷つけることを正当化すること。

 ……それを越えたら、容赦しない」

 

 長門が、低く言う。

 

「侵入者は、越えかけた。だから、止めた。……そういうことか」

 

「うん」

 

 葵は頷いた。

 

「ハヤトは、ああ見えて“待つ”んだよ。

 怖がられても、距離を置かれても、拒絶されても。

 相手が選ぶまで待つ。

 でも、線を越えた瞬間だけは――止める」

 

 吹雪が震える声で言う。

 

「……じゃあ、私たちが……怖くて避けてしまうのも……」

 

「うん」

 

 葵は優しく返した。

 

「いいよ。

 怖いのは、当たり前だもん。

 ……でも、もし“知りたい”って思ったら。

 少しだけでも近づいてくれたら。

 ハヤトはそれを、ちゃんと覚えてる」

 

 吹雪の目に涙が浮かぶ。

 こぼれないように、何度も瞬きをしている。

 

 長門が、俺に視線を寄越す。

 “どうする”と訊いている。

 

 俺は答える。

 

「侵入者は憎しみで来た。

 だが、ハヤトさんに殺されなかったことで……別の意味で、逃げ道を失った。

 自分がしてしまったことを、背負って生きるしかない」

 

 葵が小さく頷く。

 

「うん。……それが一番、効くんだと思う」

 

 その言い方に、俺は息を止めた。

 葵が言う“効く”は、残酷の意味じゃない。

 “人が変わるための痛み”の意味だ。

 

 長門が言う。

 

「提督。取調べは続ける。

 同じ侵入が今後も起こりうる。

 ……そして、鎮守府内の“意見”も割れていくだろう」

 

「分かってる」

 

 俺は椅子から立つ。

 窓の外の海が、さっきより暗く見えた。

 

「葵さん。ありがとう。

 この話を、聞かせるべきか迷った。……だが、聞いてもらって良かった」

 

 葵は微笑んで、頷いた。

 

「大丈夫。

 私も“選ぶ側”にいるって決めてるから」

 

 その言葉に、俺は救われた気がした。

 

 吹雪が、葵に小さく敬礼をする。

 

「……ありがとうございます。……私、まだ怖いです。

 でも……今日、葵さんの言葉で……少しだけ、息ができました」

 

「うん。ありがと」

 

 葵は、吹雪の敬礼に同じように頭を下げた。

 形式じゃなく、心で返していた。

 

 長門が扉に向かいかけた、その時。

 

 ――廊下の奥から、足音がない“気配”が近づいた。

 

 空気が、変わる。

 吹雪が硬直する。

 長門の背中が僅かに張る。

 

 扉の隙間に、黒い影。

 

「……」

 

 ハヤトがそこに立っていた。

 いつからいたのか分からない。

 聞き耳を立てていた気配もない。

 ただ、そこに“現れた”。

 

 葵は立ち上がり、ハヤトに向けて一歩だけ近づく。

 

「……聞こえた?」

 

「……必要な部分だけ」

 

 ハヤトの視線が、俺と長門と吹雪に向く。

 責めない。

 挑発しない。

 ただ、確認する目。

 

 そして、葵に戻る。

 その瞬間だけ、ほんの少し柔らかい。

 

「葵。……大丈夫か」

 

「うん。大丈夫」

 

 葵は笑って答えた。

 その笑顔は、逃げの笑顔じゃない。

 “背負う覚悟”の笑顔だった。

 

 ハヤトは一度、静かに頷いた。

 

「……白瀬、長門。吹雪」

 

 名前を呼ばれて、吹雪がびくりとする。

 でも、逃げなかった。

 それだけで、今日の会話が意味を持つ。

 

「今夜の警備、俺が見ておく」

 

 長門が即座に言う。

 

「必要ない。夜間は我々が――」

 

「……違う」

 

 ハヤトが遮った。

 声は低い。感情は見えない。

 けれど、言葉の芯が硬い。

 

「“違和感”がある」

 

 部屋の空気が、さらに一段沈む。

 

 俺は問い返した。

 

「違和感……?」

 

 ハヤトは、窓の外――海の暗さを一度だけ見た。

 

「……まだ小さい。だが、増える」

 

 長門の目が細くなる。

 

「何が増える」

 

 ハヤトは、答えた。短く。

 

「恐怖」

 

 その一言で、葵の表情が僅かに変わった。

 理解している顔だ。

 

 ハヤトは続ける。

 

「恐怖は、連鎖する。

 連鎖した恐怖は、“線”を越えさせる」

 

 そして、最後に言った。

 

「……だから、今夜は俺が見ておく」

 

 俺は――反論を飲み込んだ。

 長門も同じだった。

 吹雪は唇を震わせながら、けれど頷いた。

 

 葵がハヤトの袖を軽く掴む。

 

「無茶はだめ。……お願いだから」

 

「……無茶はしない」

 

 ハヤトはそう言って、葵の頭に手を置いた。

 撫でる、というより“そこにいる”と確かめる仕草。

 

 そして、扉の外へ静かに消えた。

 音もなく。

 まるで最初から、夜の一部だったみたいに。

 

 残された俺たちは、しばらく言葉を失った。

 

 長門が、低く呟く。

 

「……始まるな」

 

 俺は頷く。

 

「――ああ。

 だが、俺たちも“選ぶ側”だ」

 

 葵が静かに微笑んだ。

 

「うん。……だから大丈夫」

 

 その言葉は、吹雪に向けたものでも、長門に向けたものでもなく。

 この部屋にいる全員へ――そして、今夜の闇へ向けたものに聞こえた。

 

 窓の外、遠い灯台の光がまた一つ回る。

 呉鎮守府の夜は、いつも通り静かで――

 

 その静けさの奥で、確かに何かが動き始めていた。

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