葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
執務室の窓は半分だけ開いていた。潮の匂いが薄く入ってきて、書類の紙の匂いと混ざる。
そのはずなのに、今夜は空気が重い。
机の上には、簡単にまとめた取調べ記録。
“侵入者”――呉鎮守府にフェンスを越えて入り、倉庫に潜んでいた男の供述。
動機は分かりやすい。けれど、言葉の端々に残る震えは、理屈のための演技ではなかった。
……いや。
あれは理屈の外側で起きた恐怖だ。
俺は帽子を机に置き、額を押さえて息を吐く。
「提督。呼んだか」
扉がノックもなく開いて、長門が入ってきた。相変わらず背筋が真っ直ぐで、鎮守府の柱そのものみたいな立ち姿だ。
その後ろから、小さな足音。控えめなノックの遅れ。
「失礼します……」
吹雪だ。疲れと気遣いで顔色が薄い。けれど目だけは逃げていない。
その二人のさらに後ろ、廊下の角からもう一つ足音が近づく。
「……」
葵が入ってきた。
いつもの笑顔――ではない。けれど、無理に明るく振る舞っている感じもしない。
ただ静かで、落ち着いている。
それが逆に、今夜の話の重さを際立たせる。
「座ってくれ。……葵さんも」
「うん」
葵は椅子に腰を下ろすと、両手を膝の上に重ねた。指先が少しだけ白い。
気丈だ。でも、何も感じていないわけがない。
長門は立ったまま、吹雪は椅子の端に浅く座る。
俺は一度、窓の外を見た。暗い海。遠くに灯台の光。
――それから、覚悟を決めて口を開いた。
「今日、倉庫に侵入者がいたのは……聞いてるな」
「うん。長門さんから“警備が一時止まる”ってだけは」
葵はそう言った。
“止まる理由”を聞かずに待った、という言い方にも聞こえた。
俺は記録を指で押さえ、言葉を選びながら続ける。
「侵入者は、艦娘反対派。艦娘を“兵器”と呼ぶ連中の一部だ。
“艦娘が戦争を呼んだ”“深海棲艦を刺激した”“だから艦娘を否定すべきだ”……そういう主張だ」
吹雪が小さく息を呑む。
長門は眉ひとつ動かさない。ただ、目の奥が冷えている。
「倉庫の死角に潜んでいた。目的は……最初は宣伝だと言った。
だが、話を進めると“証拠を掴む”とも言った。……何の証拠かは、言葉を濁した」
葵の視線が、静かに俺の口元に向く。
急かさない。けれど、逃がしてくれない視線。
「そこで――」
俺は、一度だけ言い淀んだ。
この先を言うと、彼女の中にある“日常”に傷を入れる。
それでも言うべきだ。
彼女は知らなきゃいけない。
“守られる側”としてではなく、“ここで共に在る人間”として。
「……侵入者は、ハヤトさんに近づいた」
吹雪の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「“正体不明の何か”がいる、と噂になっていたらしい。
それを確認したかった。――もしくは、排除したかった」
葵は目を伏せずに聞いていた。
ただ、口元だけが僅かに固くなる。
「侵入者は、刃物を持っていた」
空気が一段、冷たくなる。
窓から入る潮風ではない。言葉の冷たさだ。
俺は淡々と続けるしかない。
「首元を狙った。
……刺そうとした」
吹雪が俯いた。
長門の拳が、僅かに握られる。
「だが、刃は刺さらなかった。皮膚に少し食い込むだけで止まった。
ハヤトさんは、無表情のまま侵入者の手首を掴んで――」
俺は、その場面を思い出す。
怒号も、威嚇も、殺気もなかった。
ただ、確定した現実みたいに、静かな声だった。
「『捨てろ』と言った」
葵の指先が、膝の上で小さく動いた。
何かを確かめるみたいに、自分の指を軽く握り直している。
「侵入者は……それで崩れた。
抵抗もしない、怒りもしない、ただ淡々と命令される。
それが――“触れてはいけないものに触れた”って恐怖に繋がったんだろう」
吹雪が小さな声で言う。
「……あの人……怒らないのが、怖いんです」
俺は頷く。
「そうだ。
“怒り”なら理解できる。
“憎しみ”なら言い訳できる。
でも、あれは違った。……感情の外側で線を引かれた」
長門が低く言う。
「ハヤト殿は反撃しなかった。
侵入者を制圧はしたが、殺そうとはしなかった。
その場で終わらせる力があるのに、選ばなかった」
「……うん」
葵が小さく返事をした。
それだけで、彼女が何を思っているか少し分かる。
“らしい”と思っている。
俺は、葵を見た。
「葵さん。……聞いておきたい。
こういうことは、以前からあったのか?」
葵は一秒も迷わなかった。
「うん。……以前から、そうだよ」
そして、続ける。
その声が、今までより低い。
「線を越えたら、容赦しない」
吹雪が顔を上げる。
長門の目が、僅かに鋭くなる。
俺の背中がぞくりとした。
言葉の意味が怖いからじゃない。
それが“真実”だと分かる言い方だったからだ。
葵は、俺と長門と吹雪を順に見た。
責める目じゃない。
諭す目でもない。
ただ、隠していたものを隠さずに置く目。
「それが、ハヤトで――」
一度、息を吸う。
「それが、みんなで――」
“みんな”。
その一言で、ハヤトが孤立した異常じゃないと分かってしまう。
背後に、文化がある。掟がある。共有された生き方がある。
葵は、静かに言った。
「それが、冥焔連の掟だよ」
――冥焔連。
初めて聞く名前なのに、不思議と“重さ”だけは伝わった。
炎の匂い。
黒い熱。
それでも、守るための手。
長門が口を開く。
「……冥焔連、とは何だ」
葵は、少しだけ視線を落とす。
悲しいからじゃない。
思い出の底を確かめるみたいに、静かだった。
「ハヤトがいた場所で……ハヤトが背負ってきた人たちの名前。
家族、仲間、居場所。
……それが“冥焔連”」
吹雪が唇を噛んだ。
葵は気づいたけれど、あえて見ないふりをする。
優しさの形が、ここでも同じだ。
「でもね」
葵は顔を上げて、微笑む。
作った笑顔じゃない。
“今の自分”が持てる分だけの、自然な微笑みだ。
「冥焔連は、怖いよ。
ハヤトも、怖い。
それを否定しない。……否定できない」
吹雪が小さく頷く。
「だから、私も“恐れていい”って言うの。
恐怖を我慢して、無理に笑って、“大丈夫なふり”をする方が壊れるから」
俺は、胸の奥が少し痛くなった。
この人は――自分が拒絶される痛みを知っている。
それでも、相手の恐怖を否定しない。
「でも」
葵は、そこで言葉を強くした。
強いのに、声は荒れない。
凪いだ海の底にある岩みたいな強さだ。
「線だけは越えさせない」
俺が問い返す。
「……線、とは?」
葵は即答した。
「“奪う”こと。
生きてる人を、弱い人を、傷つけることを正当化すること。
……それを越えたら、容赦しない」
長門が、低く言う。
「侵入者は、越えかけた。だから、止めた。……そういうことか」
「うん」
葵は頷いた。
「ハヤトは、ああ見えて“待つ”んだよ。
怖がられても、距離を置かれても、拒絶されても。
相手が選ぶまで待つ。
でも、線を越えた瞬間だけは――止める」
吹雪が震える声で言う。
「……じゃあ、私たちが……怖くて避けてしまうのも……」
「うん」
葵は優しく返した。
「いいよ。
怖いのは、当たり前だもん。
……でも、もし“知りたい”って思ったら。
少しだけでも近づいてくれたら。
ハヤトはそれを、ちゃんと覚えてる」
吹雪の目に涙が浮かぶ。
こぼれないように、何度も瞬きをしている。
長門が、俺に視線を寄越す。
“どうする”と訊いている。
俺は答える。
「侵入者は憎しみで来た。
だが、ハヤトさんに殺されなかったことで……別の意味で、逃げ道を失った。
自分がしてしまったことを、背負って生きるしかない」
葵が小さく頷く。
「うん。……それが一番、効くんだと思う」
その言い方に、俺は息を止めた。
葵が言う“効く”は、残酷の意味じゃない。
“人が変わるための痛み”の意味だ。
長門が言う。
「提督。取調べは続ける。
同じ侵入が今後も起こりうる。
……そして、鎮守府内の“意見”も割れていくだろう」
「分かってる」
俺は椅子から立つ。
窓の外の海が、さっきより暗く見えた。
「葵さん。ありがとう。
この話を、聞かせるべきか迷った。……だが、聞いてもらって良かった」
葵は微笑んで、頷いた。
「大丈夫。
私も“選ぶ側”にいるって決めてるから」
その言葉に、俺は救われた気がした。
吹雪が、葵に小さく敬礼をする。
「……ありがとうございます。……私、まだ怖いです。
でも……今日、葵さんの言葉で……少しだけ、息ができました」
「うん。ありがと」
葵は、吹雪の敬礼に同じように頭を下げた。
形式じゃなく、心で返していた。
長門が扉に向かいかけた、その時。
――廊下の奥から、足音がない“気配”が近づいた。
空気が、変わる。
吹雪が硬直する。
長門の背中が僅かに張る。
扉の隙間に、黒い影。
「……」
ハヤトがそこに立っていた。
いつからいたのか分からない。
聞き耳を立てていた気配もない。
ただ、そこに“現れた”。
葵は立ち上がり、ハヤトに向けて一歩だけ近づく。
「……聞こえた?」
「……必要な部分だけ」
ハヤトの視線が、俺と長門と吹雪に向く。
責めない。
挑発しない。
ただ、確認する目。
そして、葵に戻る。
その瞬間だけ、ほんの少し柔らかい。
「葵。……大丈夫か」
「うん。大丈夫」
葵は笑って答えた。
その笑顔は、逃げの笑顔じゃない。
“背負う覚悟”の笑顔だった。
ハヤトは一度、静かに頷いた。
「……白瀬、長門。吹雪」
名前を呼ばれて、吹雪がびくりとする。
でも、逃げなかった。
それだけで、今日の会話が意味を持つ。
「今夜の警備、俺が見ておく」
長門が即座に言う。
「必要ない。夜間は我々が――」
「……違う」
ハヤトが遮った。
声は低い。感情は見えない。
けれど、言葉の芯が硬い。
「“違和感”がある」
部屋の空気が、さらに一段沈む。
俺は問い返した。
「違和感……?」
ハヤトは、窓の外――海の暗さを一度だけ見た。
「……まだ小さい。だが、増える」
長門の目が細くなる。
「何が増える」
ハヤトは、答えた。短く。
「恐怖」
その一言で、葵の表情が僅かに変わった。
理解している顔だ。
ハヤトは続ける。
「恐怖は、連鎖する。
連鎖した恐怖は、“線”を越えさせる」
そして、最後に言った。
「……だから、今夜は俺が見ておく」
俺は――反論を飲み込んだ。
長門も同じだった。
吹雪は唇を震わせながら、けれど頷いた。
葵がハヤトの袖を軽く掴む。
「無茶はだめ。……お願いだから」
「……無茶はしない」
ハヤトはそう言って、葵の頭に手を置いた。
撫でる、というより“そこにいる”と確かめる仕草。
そして、扉の外へ静かに消えた。
音もなく。
まるで最初から、夜の一部だったみたいに。
残された俺たちは、しばらく言葉を失った。
長門が、低く呟く。
「……始まるな」
俺は頷く。
「――ああ。
だが、俺たちも“選ぶ側”だ」
葵が静かに微笑んだ。
「うん。……だから大丈夫」
その言葉は、吹雪に向けたものでも、長門に向けたものでもなく。
この部屋にいる全員へ――そして、今夜の闇へ向けたものに聞こえた。
窓の外、遠い灯台の光がまた一つ回る。
呉鎮守府の夜は、いつも通り静かで――
その静けさの奥で、確かに何かが動き始めていた。