葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
昼下がりの鎮守府正門。
いつもと変わらない時間帯だった。
鳳翔が箒を手に、正門前の石畳を掃いている。
その少し後ろで、葵がバケツを持ち、落ち葉を集めていた。
「今日は風が強いですね」
「ええ。でも気持ちいい風です」
そんな他愛のない会話。
鎮守府の日常。
誰もが、それが壊れるとは思っていなかった。
――最初に気づいたのは、赤城だった。
正門の向こう側。
人影が、増えている。
「……加賀さん」
隣に立つ加賀も、すでに気づいていた。
数人ではない。
十数人……いや、もっと。
正門前の広場に、人が集まり始めていた。
「艦娘を解放しろ」
「兵器を鎮守府から出せ」
「怪物を匿うな」
声が、上がる。
ざわめきが、怒号に変わる。
鳳翔の手が止まり、葵も顔を上げた。
「……?」
葵は状況を理解しきれず、正門の方を見る。
その瞬間、怒声が一斉に浴びせられた。
「人殺し!」
「戦争を呼ぶ兵器め!」
「お前らがいるから深海棲艦が増えるんだ!」
鳳翔が、葵の前に半歩出る。
「皆さん、落ち着いてください」
「ここは鎮守府です」
だが声は届かない。
群衆はすでに熱を帯びていた。
「話せば分かると思うな!」
「艦娘なんて作ったのが間違いだ!」
赤城が一歩前に出る。
「それ以上は、聞けません」
声は静かだった。
だが、火に油を注いだ。
「ほら見ろ!」
「兵器が人間に逆らったぞ!」
群衆の中の誰かが、石を拾う。
――吹雪は、その瞬間を見ていた。
「……やめて……」
小さく呟いた。
だが、届かない。
石が、放られた。
一直線に、葵へ。
時間が、伸びる。
鳳翔が振り向く。
赤城が踏み出す。
加賀が腕を伸ばす。
――間に合わない。
その瞬間。
何かが、葵の前に現れた。
黒い影。
蛇のように、しなやかで、巨大な――赫子。
石はそれに弾かれ、乾いた音を立てて転がった。
静寂。
正門前の空気が、凍りついた。
鳳翔が、ゆっくり振り返る。
赤城と加賀も、同時に息を呑む。
葵の前に、赫子があった。
護るように、包むように。
その背後。
屋根の上から、黒い影が降り立つ。
音は、なかった。
ただ、そこに「立った」。
ハヤト。
群衆の誰かが、息を吸い損ねた。
「……な、なんだ、あれ……」
誰かが後ずさる。
ハヤトは動かない。
赫子が、ゆっくりと畳まれる。
葵の肩に、そっと手を置く。
「……大丈夫か」
「う、うん……」
葵の声は震えていたが、立っていた。
ハヤトは、前を向く。
群衆を見る。
目は、冷えていた。
怒りではない。
殺意でもない。
ただ、断定。
「――線を越えた」
それだけだった。
空気が、変わる。
説明はない。
声も低く、淡々としている。
それなのに。
足が、動かない。
群衆の一人が、喉を鳴らす。
「な、なんだよ……」
「何様だ……!」
虚勢だった。
ハヤトが、一歩、前に出る。
それだけで、数人が後退した。
「近づくな!」
「怪物が!」
ナイフが、抜かれる。
吹雪の心臓が跳ねた。
「やめて!!」
侵入者が、突進する。
狙いは――首。
刃が、触れた。
皮膚に、少しだけ食い込む。
それ以上、進まない。
「……?」
侵入者の顔が、歪む。
刺さらない。
押しても、引いても。
まるで、拒絶されているかのように。
ハヤトは、無表情のまま。
侵入者の手首を掴む。
力を込めない。
握り潰さない。
ただ、止める。
「捨てろ」
短い声。
侵入者の呼吸が、乱れる。
「な……なんだ……」
「なんなんだ、お前……」
ハヤトは答えない。
目を、逸らさない。
侵入者の手が、震え始める。
ナイフが、落ちた。
金属音が、やけに大きく響いた。
それを合図にしたように。
群衆が、崩れ始める。
誰かが座り込む。
誰かが泣き出す。
誰かが吐き気を訴える。
ハヤトは、歩き始める。
ゆっくりと。
赫子が、背後で蠢く。
触れない。
殴らない。
斬らない。
ただ、進む。
それだけで、人が退く。
理解してしまったからだ。
――これ以上、近づいてはいけない。
――ここから先は、戻れない。
恐怖は、連鎖する。
「や、やめろ……」
「もう、分かった……」
誰かが叫ぶ。
だが、ハヤトは止まらない。
「……結果だ」
その一言で、膝が落ちた。
「もういい!!」
葵の声だった。
ハヤトが、止まる。
赫子が、静止する。
葵が、ハヤトの腕を掴む。
「もう、伝わった……」
「これ以上は、いらない……」
ハヤトは、葵を見る。
少しだけ、目を細める。
「……分かった」
それだけ言って、赫子を引く。
圧が、消える。
風が、戻る。
音が、戻る。
人々は、その場にへたり込んだまま、動けなかった。
誰も、追わない。
誰も、罵らない。
ただ、理解した。
――触れてはいけないものに触れた。
――越えてはいけない線を越えた。
ハヤトは、振り返らない。
葵の肩を抱き、正門から離れる。
鳳翔が、深く頭を下げた。
赤城と加賀も、敬礼する。
吹雪は、立ち尽くしていた。
怖かった。
でも。
それ以上に、はっきりと分かった。
――だから、今まで動かなかった。
――動かないことも、選択だった。
線を越えなければ、何も起きない。
越えた時だけ、結果がある。
その事実が、胸に深く刻み込まれた。
正門の外で、誰かが呟く。
「……怪物、だった……」
「……でも……」
言葉は、続かなかった。
それで、十分だった。