葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
極秘回線は、通常の通信とは違う重さを持っていた。
執務室の照明を一段落とし、白瀬提督は背筋を正す。
モニターに映し出されたのは、日本海軍司令長官・本郷だった。
軍服の皺一つない姿。
その目は、感情を排した冷静さの奥に、数え切れない決断を積み重ねてきた重みを宿している。
「報告を聞こう」
それだけだった。
前置きも、雑談もない。
白瀬提督は一度だけ息を整え、口を開く。
「呉鎮守府正門にて、艦娘反対派による集団侵入未遂が発生しました。人数は推定四十から五十。武装は軽微。主に投石、罵声による威圧行為です」
淡々と、事実だけを並べる。
「現場には鳳翔、赤城、加賀、その他数名の艦娘と、一般協力者である葵が居合わせていました」
「被害は」
「人的被害はありません」
一瞬の沈黙。
本郷司令長官の視線がわずかに鋭くなる。
「……だが、“何も起きなかった”わけではないな」
「はい」
白瀬提督は、否定も肯定もせず、続けた。
「集団の一名が投擲した石が、葵に向けて放たれました。直撃する寸前、対象の前方に“防御行動”が発生しました」
「防御行動?」
「正体不明の生体構造物です。高い反応速度と耐久性を確認しました。結果、石は遮断され、葵への被害はありません」
本郷は黙って聞いている。
「その直後、当該存在――ハヤトが出現しました」
ここで初めて、白瀬提督は言葉を選んだ。
「彼は、威嚇、攻撃、追撃、いずれも行っていません」
「……では何をした?」
「“立ちました”」
短い返答。
「集団と艦娘の間に降り立ち、展開したのは威圧的な生体構造物。発言はごく短く、断定的でした」
白瀬提督は、正確に記録された言葉を読み上げる。
「――線を越えたな
――俺の家族に触れたな」
それだけだ。
本郷司令長官の指が、机の上でわずかに止まった。
「それで?」
「それ以上の発言はありません。歩き出したのみです」
「歩き出した?」
「はい。ゆっくりと、集団へ向かって」
白瀬提督は視線を落とさず続ける。
「その時点で、群衆の統制は崩壊しました。恐怖反応による後退、転倒、過呼吸。武装解除。誰一人、抵抗行動には出ていません」
「彼は……何人殺した?」
「一人も」
即答だった。
「傷を負わせた者も?」
「ありません。拘束、威嚇、反撃、すべて最小限です。正確には――“触れていません”」
本郷司令長官は、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
「……奇妙だな」
その一言に、評価が滲んでいた。
「力を誇示するだけなら、もっと簡単な方法はいくらでもあったはずだ」
「その通りです」
白瀬提督は頷く。
「彼は、力を使わない選択をしました。ただし、“線”を越えた場合の結果だけは、明確に示しました」
「線、か」
「はい。対象は“葵への直接的危害”。それ以外に対して、彼は一切反応を示していません」
沈黙が落ちる。
軍事会議室特有の、思考の沈黙。
「……つまり君は」
本郷司令長官が口を開く。
「彼を“怪物”とは評価していない、ということだな」
白瀬提督は、少しだけ間を置いた。
「危険な存在であることは否定しません」
慎重な言い回し。
「ですが、無差別性はありません。衝動性もありません。彼は常に“選択”しています」
「選択?」
「はい。恐怖を与える相手、守る対象、踏み越えてはならない線。それらを意図的に区別しています」
「……兵器ではない、と?」
「少なくとも、制御不能な兵器ではありません」
白瀬提督は、ここで一段声を落とした。
「むしろ――抑止力です」
本郷司令長官の視線が、鋭くなる。
「扱いを誤れば、国家が揺らぐ存在だぞ」
「承知しています」
白瀬提督は一切目を逸らさない。
「だからこそ、隠蔽せず、排除せず、理解と線引きを選びました」
長い沈黙。
やがて、本郷司令長官は低く言った。
「……彼の所属は?」
一瞬の迷い。
だが白瀬提督は答えた。
「彼らは、自らを“冥焔連”と名乗っています」
その名が、静かに空気に落ちる。
「冥焔連……」
本郷司令長官は、ゆっくりと復唱した。
「覚えておこう」
それだけだった。
「今後の方針は?」
「監視ではなく、観察を。拘束ではなく、距離を。
そして――線を越えない限り、彼は動きません」
「……君は、随分と賭けに出たな」
「はい」
白瀬提督は静かに言う。
「ですが、彼は既に示しました。
“線を越えなければ、こちらには手を出さない”と」
通信が切れる。
暗転したモニターを見つめながら、白瀬提督は深く息を吐いた。
重い。
だが、逃げなかった。
これが、自分の選択だ。
そして――
線を越えた時に、何が起きるのか。
それを一番理解しているのは、
誰よりも沈黙を選び続けてきた――ハヤトだった。