※この作品はR-18です。

葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー   作:戌威

14 / 71
第14話 工廠の静けさ

――理解の入口――

 

朝の呉鎮守府は、いつも通りの音で始まった。

食堂から漂う味噌汁の匂い。乾いた廊下の足音。誰かが笑う声。

 

けれど“いつも通り”は、以前とは少し違う。

同じ空気なのに、どこか薄い膜が一枚だけ残っている。

 

それは恐怖の名残だ。

誰もそれを口にしない。口にした瞬間、崩れてしまいそうだから。

 

吹雪は、食堂の入口で立ち止まった。

 

(今日は……何も起きない日、でいい)

 

そう思うのに、胸の奥が落ち着かない。

“何も起きない”ことが、まだ当たり前ではない。

 

食堂の中央では、鳳翔と間宮が配膳を回し、葵が手際よく小鉢を並べている。

笑顔はいつもと同じ。声も明るい。動きも迷いがない。

 

だけど、葵の周囲に立つ艦娘たちの間に、目に見えない距離がある。

 

「……おはようございます、葵さん」

 

吹雪が声をかけると、葵はぱっと顔を上げた。

 

「吹雪ちゃん、おはよう。今日は鮭だよ。お味噌汁、具は豆腐とわかめ!」

 

明るさは変わらない。

だからこそ吹雪は、少しだけ救われる。

 

「……ありがとうございます」

 

言葉は出た。

それだけで、ほんの少し前に進んだ気がした。

 

列の最後尾、壁際。

そこにハヤトがいる。

 

腕を組み、背を壁に預けて立っているだけ。

視線は食堂全体をゆっくりと見渡している。

 

誰かを威嚇しているわけでもない。

誰かを監視している、というより――

 

(“確認してる”……?)

 

誰も置いていかれていないか。

誰も取りこぼされていないか。

その確認のようにも見えた。

 

吹雪の視線に気づいたのか、ハヤトがこちらを見る。

無表情。だけど目は冷たくない。

 

「……」

 

吹雪は反射的に背筋を伸ばす。

敬礼まではしない。けれど目は逸らさない。

 

「……おはようございます」

 

声は小さく震えた。

それでも言った。

 

ハヤトは少しだけ頭を下げた。ほんの僅かな角度。

礼として十分な、それ以上に重みのある動作だった。

 

(……返してくれた)

 

それだけで胸が詰まる。

怖いのは消えない。けれど――消えなくてもいいのかもしれない、と少しだけ思えた。

 

そのとき、食堂の奥から声がする。

 

「今日、工廠の点検……夕張、行く?」

 

「うん。明石さん、弾薬庫の棚も見ておきたい」

 

明石と夕張だ。

 

工廠担当の二人は、いつも通りの手つきで書類をまとめ、工具箱を抱え、朝の食堂を出ていこうとしていた。

しかし出口付近で、二人の足が止まる。

 

視線の先。壁際のハヤト。

 

明石は一瞬だけ呼吸を整えたあと、あっさりとした声で言った。

 

「……あの、ハヤトさん」

 

周囲の空気が、ほんの少しだけ固くなる。

 

吹雪は思わず明石を見る。

(い、今……声をかけた……?)

 

夕張も続ける。

 

「工廠で、ちょっとお時間いただけますか?」

 

ハヤトはすぐに答えない。

ただ二人を見る。

 

そして――

 

「……用件は」

 

短い言葉。問い。拒絶ではない。

 

明石は笑ってみせた。

 

「興味です」

 

夕張は真面目な顔で頷く。

 

「私たちは工廠担当です。未知の“何か”を、理解しないままにしておくのが苦手で」

 

葵が、配膳の手を止めずに、けれど視線だけをハヤトへ送る。

その目が、優しく頷いた。

 

「……分かった」

 

ハヤトはそれだけ言い、壁から背を離した。

 

食堂の空気が、ほんの僅かに動く。

艦娘たちの視線が一斉に向き、数秒遅れて散る。

 

明石と夕張は何も言わず、先に歩き出す。

ハヤトはその後ろを、音もなくついていく。

 

葵は、吹雪の皿に小鉢をそっと追加しながら笑った。

 

「大丈夫だよ。明石さんたちなら、きっと上手に聞けると思う」

 

吹雪は頷くしかなかった。

 

(……怖いままでも、近づける人がいる)

 

それが、妙に眩しかった。

 

⸻

 

工廠

 

工廠は、鉄と油の匂いがする。

艤装の整備台、弾薬ラック、工具棚。

規律と整然が支配する場所だ。

 

明石と夕張は、普段の作業と同じ動作でハヤトを奥へ案内した。

 

「ここなら人目が少ないです」

 

「それに、床が硬い。もし何か落ちてもすぐわかる」

 

夕張の言葉は配慮にも聞こえるし、安全管理にも聞こえる。

 

ハヤトは「……ああ」とだけ答えた。

 

葵も遅れてやってくる。

手には小さな弁当箱と、水筒。

 

「お昼前までならここにいるよ。二人とも、無理しないでね」

 

明石は明るく返した。

 

「無理はしないです、はい! むしろ安全第一で!」

 

夕張も頷く。

 

「……ただ、質問は多いと思います」

 

ハヤトはため息を吐くでもなく、ただ言った。

 

「……好きにしろ」

 

それが許可なのか、諦めなのか分からない。

だが二人は、そこに“拒絶がない”ことを読み取った。

 

夕張がノートを開く。

明石がメジャーとスケールを準備する。

 

「まず確認したいです」

 

夕張の声がいつもより低い。

 

「あなたが出す“赫子”――その呼び方で合ってますか?」

 

葵が口を挟む。

 

「うん。元の世界ではそう呼ばれてたよ」

 

「……赫子」

 

夕張はその文字を書き、下線を引く。

 

「構造、由来、生理学……分からないことだらけです」

 

明石が続ける。

 

「でも、兵器として扱いたいわけじゃないんです」

 

「……存在として、理解したい」

 

その言葉は、夕張の本音に近い。

 

ハヤトは数秒黙り、短く答えた。

 

「……俺も理屈は知らない」

 

「ただ――」

 

視線を自分の背へ向ける。

 

「意志に反応する。怒り、恐怖、防衛……守る、という感情」

 

夕張は即座に書く。

 

「感情トリガー/意志制御」

 

明石は「なるほど」と頷き、すぐ次を投げた。

 

「制御はどれくらい可能です?」

 

「完全ではない」

 

「暴走は?」

 

「……ある」

 

即答だった。

 

工廠の空気がわずかに重くなる。

 

夕張は引かない。

 

「それでもあなたは、制御している」

 

「……している、というより」

 

ハヤトは一拍置いた。

 

「“越えない”と決めているだけだ」

 

明石が小さく息を吸う。

夕張は目を逸らさない。

 

「“線引き”……」

 

葵が、ここで柔らかく声を挟んだ。

 

「ねえ、ハヤト」

 

「……何だ」

 

「見せてあげたら?」

 

明石と夕張が、同時に息を呑む。

 

「無理にじゃなくていいよ」

 

葵は続ける。

 

「でも、怖いままより、見た方が分かることもあると思う」

 

ハヤトは黙った。

その沈黙は重い。けれど、拒絶の沈黙ではない。

 

「……分かった」

 

短い了承。

 

その瞬間だった。

 

空気が変わる。

 

ハヤトの背後――黒い影が揺らぎ、滲むように形を取る。

音がない。気配だけが増す。

 

蛇赫が、静かに現れた。

 

黒い。

鱗状の質感。

生物的なのに、どこか金属のような光沢。

 

明石の目が一気に輝く。

 

「……すごい」

 

夕張が呟く。

 

「展開速度……音がない」

 

「筋肉収縮じゃない……神経伝達?」

 

明石は手袋をはめながら、恐る恐る尋ねた。

 

「触ってもいいですか?」

 

ハヤトは一瞬、葵を見る。

葵が頷く。

 

「……問題ない」

 

明石は慎重に蛇赫へ触れる。

 

「……硬い」

 

夕張も続く。

 

「でも硬すぎない。装甲鋼より柔らかい、でも――」

 

明石が少し力を入れる。

 

蛇赫は、わずかに形を変えた。

 

「……受け流してる」

 

夕張が目を見開く。

 

「衝撃分散構造……!」

 

「え、これ、どこまで曲がるんです?」

 

明石が興奮して問いかける。

 

「柔軟性があるなら、応力集中を逃がせる……!」

 

夕張は即座に提案した。

 

「簡易試験をします」

 

「明石さん、木材板と金属棒、持ってきて」

 

明石が走る。

いつもの工廠のテンポだ。

怖がる暇がない。

 

木材板、金属棒、簡易の荷重計。

夕張は手早く準備し、蛇赫に触れたときの反応を観察する。

 

「力を加えると……戻る」

 

「戻り速度が一定じゃない。意志が介在してる」

 

「ハヤトさん、今、“硬くする”って意図できます?」

 

ハヤトは短く答える。

 

「……できる」

 

「じゃあ、お願いします。硬く」

 

ハヤトの視線が蛇赫へ向く。

その瞬間、触れていた明石の指先に“質感の変化”が伝わった。

 

「……っ、硬くなった!」

 

明石が思わず声を上げる。

 

夕張が荷重計を当て、ゆっくり押し込む。

 

「変形量が激減……」

 

明石は口元を押さえた。

 

「冗談みたい……意志で硬度変えるって……」

 

葵は少し困ったように笑う。

 

「……昔からこうだよ。ハヤト、理屈じゃなくて、やるから」

 

ハヤトは淡々と付け加える。

 

「……無駄は嫌いだ」

 

工廠の片隅で、小さな笑いが漏れた。

笑ったのは、夕張だった。

 

「合理的、という意味なら……確かに」

 

明石はさらに畳み掛ける。

 

「攻撃の時はどうするんですか?」

 

「力の伝達は? 先端形状の制御は?」

 

夕張も続く。

 

「熱に弱い? 冷却に弱い? 電気に反応する?」

 

ハヤトは短く言った。

 

「……意図する」

 

「え?」

 

「壊す、斬る、押す。結果を先に決める」

 

夕張の鉛筆が止まる。

 

「……プロセスじゃなく、結果指定型」

 

明石が頷く。

 

「だから余計な破壊が起きない? 必要最低限だけ、狙える……」

 

ハヤトは否定しない。肯定もしない。

ただ“事実”だけがそこに残る。

 

工廠の入口の方で、足音が止まった。

誰かが覗き込んでいる。

 

赤城と加賀だった。

それぞれ、興味と警戒の表情。

 

「……何をしているの?」

 

加賀が低い声で問う。

 

明石が振り返り、にこっと笑う。

 

「観察です!」

 

夕張が補足する。

 

「危険性の確認も含めて。理解のために」

 

赤城は蛇赫を見て、目を細めた。

 

「……綺麗、とは言えないけど」

 

「でも……守るための形に見えるわね」

 

ハヤトが赤城を見る。

赤城は逸らさない。

 

沈黙が流れる。

 

葵が一歩前に出て、やわらかく言った。

 

「大丈夫だよ。怖くていい。怖いままでも、知ろうとしてくれたら嬉しい」

 

その言葉は、誰かに言い聞かせるものではなく、

自分自身にも向けた言葉のように聞こえた。

 

加賀は少しだけ息を吐いた。

 

「……工廠での実験は、許可を取っているの?」

 

明石が胸を張る。

 

「今、取ってます!」

 

夕張が真顔で頷く。

 

「安全管理は私が」

 

加賀は呆れたように見えたが、拒絶はしなかった。

 

「……そう。なら、私は見ている」

 

赤城も「私も」と言った。

 

そこから、少しずつ見物人が増えた。

 

川内が遠巻きに覗き、

神通が眉をひそめ、

扶桑が静かに手を合わせ、

山城が不安げに姉の袖を掴む。

 

吹雪も、工廠の入口からその光景を見ていた。

 

(皆が、少しずつ近づいてる)

 

触れない。

でも逃げない。

 

その変化が、何より大きかった。

 

⸻

 

実証

 

夕張は“安全な範囲で”という前置きを何度も繰り返し、簡易試験を進めた。

 

「次、柔軟性」

 

「ハヤトさん、今度は“柔らかく”」

 

ハヤトは頷くだけで、蛇赫の質感が変わる。

 

明石が木材板を軽く叩く。

 

「……柔らかいのに、破れない」

 

夕張がメモを取る。

 

「表面の損傷耐性と内部構造が別」

 

「柔軟でも“裂け”が起きない……繊維方向が可変?」

 

明石は目を輝かせる。

 

「もしこれが艤装材に応用できたら――」

 

言いかけて、明石は止まる。

自分で言った言葉の重さを理解したように。

 

葵がすぐに笑ってフォローした。

 

「大丈夫。明石さん、夕張ちゃん。研究したい気持ちは分かるよ」

 

「でも“道具にするため”じゃなくて、“知るため”でいてくれるなら嬉しい」

 

夕張が小さく頷いた。

 

「……はい。まず、知りたいんです」

 

明石も真面目な顔になる。

 

「怖いから。怖いままじゃ、工廠担当として失格だから」

 

ハヤトは淡々と言った。

 

「……怖いままでいい」

 

「だが、越えるな」

 

短文化した言葉が、重く落ちた。

 

誰も返せない。

 

夕張がそれでも、次の質問を投げる。

 

「……“越える”の定義は?」

 

ハヤトは一拍置いた。

 

「葵に触れる」

 

「傷つける意志」

 

「それだけだ」

 

赤城が思わず口を挟む。

 

「それは……あなたにとって“線”なのね」

 

ハヤトは頷かない。

ただ、目を伏せる。

 

それが肯定だった。

 

吹雪は胸の奥が痛くなった。

(この人は、ずっとこうしてきたんだ)

拒絶されても、恐れられても、

“線”を守るために。

 

葵がハヤトの袖を軽く引く。

 

「ハヤト、ありがとう」

 

ハヤトは小さく「……ああ」とだけ返した。

 

そのやりとりに、工廠の空気がほんの少しだけ温度を持つ。

 

誰かが、勇気を出した。

 

「……あの」

 

神通だった。

 

「その赫子……痛みはあるの?」

 

夕張がペンを止める。

明石も息を呑む。

 

ハヤトは少しだけ考える。

 

「……痛む時もある」

 

「だが、慣れる」

 

神通は頷いた。

 

「……人と同じなのね」

 

その言葉が、工廠に落ちた。

たった一言が、空気を変える。

 

人と同じ。

そう言われた瞬間、

“正体不明の何か”が、少しだけ輪郭を持った。

 

葵が微笑んだ。

 

「うん。完璧じゃないけど、同じだよ」

 

「怖いけど、同じ」

 

その言い方が、葵らしかった。

 

⸻

 

余韻

 

昼前、工廠の実験は一区切りついた。

 

明石はノートを抱え、夕張は鉛筆を握りしめたまま、深呼吸する。

 

「……ありがとうございました」

 

夕張が頭を下げる。

明石も続ける。

 

「怖いです。でも、知れて良かったです」

 

ハヤトは短く言った。

 

「……それでいい」

 

葵が笑って、明石たちに弁当箱を渡した。

 

「はい。お昼、食べよ」

 

工廠の隅で、皆が少しずつ座る。

赤城と加賀も、結局そこにいる。

 

吹雪は少し離れた場所からその輪を見る。

 

(怖いままでも、ここまで来れるんだ)

 

誰かが一歩踏み出して、

それを誰かが見て、

また別の誰かが半歩近づく。

 

そういう“選択”の積み重ねが、

呉鎮守府を形作っていく。

 

ハヤトは相変わらず多くを語らない。

でも今日は――確かに“拒絶していない”。

 

葵は無理をしていない。

ただ、自分の痛みと悲しみを抱えたまま、

微笑みを絶やさず前に進んでいる。

 

吹雪は小さく息を吐いた。

 

(……この鎮守府は、変わる)

 

ゆっくりでいい。

怖くてもいい。

 

でも、目を逸らさずに、選び続ける。

 

それがきっと、

ここで“共にある”ということなのだ。

 

工廠の窓から差し込む光が、

鉄の床に細い帯を落としていた。

 

その光は、驚くほど静かで、優しかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。