葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
工廠の朝は、金属が呼吸しているみたいな音で満ちている。
工具の鳴る音、艤装の駆動音、油の匂い。
それらはいつも通りで、いつも通りだからこそ――
今日は、違いがよく分かった。
「……ねえ、やっぱり本当だった?」
整備用の台車を押しながら、明石が口を開く。
隣の夕張は手元のメモ帳をぱらぱらとめくって、目を細めた。
「尾ひれがついた部分もあるけど、根っこは本当だね。昨日の件、“見た”っていう人が増えた」
「増えたって……昨日は工廠の中だけでしょ? 外にも広がってるの?」
夕張は頷く。
「食堂まで行ってる。『黒い蛇みたいなのが出た』、『硬度が装甲並み』、『でも誰も怪我してない』。……それが一番、強い噂」
明石は軽く息を吐いて笑った。
「強い噂っていうか……“怪我がない”が一番怖いよね、普通は」
「うん。怖いのに、安心材料にもなる。矛盾してるけど」
そこへ、工廠の入口から足音が増える。
視察目的なのか、作業ついでなのか――今日はやけに艦娘が多かった。
「明石さーん! 夕張さーん!」
陽炎が片手を振って入ってくる。後ろには不知火と黒潮。
さらに遅れて、霞と霰も顔を出す。
「お? 何、集会?」
「集会じゃないよ。……たぶん、“見物”」
夕張がぽつりと言うと、霞が腕を組んで鼻を鳴らした。
「見物? あんなの、見物してどうすんのよ」
「……でも気になるでしょ」
「気にならないって言ったら嘘になるわよ。……でも、近づきたくはない」
霰が小声で言う。
「……昨日、夕張さんが“測ってた”って聞いた。嘘じゃなかった」
「嘘ならよかった?」
霰は一瞬黙って、首を横に振った。
「……嘘なら、ずっと怖いまま」
その言い方が、妙に刺さって、明石は軽く視線を落とした。
⸻
工廠の奥の作業区画。
そこに、噂の中心がいた。
黒いコート。
背筋の伸びた姿勢。
腕を組み、壁際に立っている。
ハヤト。
黙っているだけなのに、視線が集まる。
視線を浴びても、何も変わらない。
隣には葵がいた。
手には小さな布袋――工具でもなく部品でもなく、ただの布袋だ。
中身はたぶん、いつもの差し入れだろう。
「おはよう、ハヤト」
「……ああ」
短い。いつも通り短い。
葵はそれだけで十分みたいに笑う。
夕張と明石が近づく。
その気配を察しているのかいないのか、ハヤトは視線も動かさない。
「ハヤトさん、昨日は協力ありがとう。……今日はお願いがあるの」
「……何だ」
明石が一歩踏み出す。
けれど距離を詰めすぎない。昨日よりも慎重に。
「工廠内で噂が回ってるの。怖がってる人もいる。だから、もし可能なら……“安全に見せられる範囲”だけでいいから、説明してほしいって」
「……」
沈黙。
誰も急かさない。息を止める。
葵がほんの少しだけ、ハヤトの袖に触れた。
「……説明はできる」
「ほんと!? じゃあ――」
夕張が即座に続けようとした瞬間、ハヤトが一言だけ落とす。
「触るな」
夕張の言葉が喉で止まる。
明石も、霞も、不知火も。全員が一瞬硬直した。
葵がすぐに柔らかく言う。
「大丈夫。危ないって意味じゃなくて、“順番”の話だよね」
「……ああ」
その“ああ”が、工廠の空気を少しだけ戻した。
⸻
そこから先は、工廠らしい流れになった。
恐怖ではなく、作業と好奇心の空気。
「まず、出せる形状は三つある」
短い説明。
ハヤトは必要な部分だけを言う。余計な比喩もない。
「蛇。翼。刃」
「……翼って、飛べるの?」
黒潮が口を挟む。
「……飛ぶためじゃない」
「攻撃用?」
「……防御と制圧」
“制圧”。
その単語に、陽炎が眉を上げる。
「制圧って……相手、動けなくするの?」
「……逃がさない」
短い。
短いのに、妙に重い。
霞が口を尖らせた。
「……ほんと、言い方が怖い」
「怖くていいよ」
葵が、いつもの調子で言ってしまってから、少し目を伏せた。
それでも続ける。止まらない。
「怖いって思ったままでも、声をかけてくれるのが嬉しいんだよ」
その言葉が、艦娘たちの背中を少し押した。
⸻
「じゃ、実演する?」
夕張が言ったとき、明石が思い出したように手を挙げる。
「あ、待って待って! 安全柵! 安全距離! 目印つける!」
「……それ、いる?」
陽炎が苦笑する。
「いるよ! 工廠だから! 安全第一!」
そうやって“いつもの工廠”のノリが戻ると、不思議と周りの顔も戻っていく。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、怖さの扱い方が変わる。
葵がハヤトを見上げて言う。
「ハヤト、見せてあげたら?」
「……必要最小限だ」
そして、黒い影が――静かに、背中から溢れる。
蛇赫。
昨日よりも落ち着いた出し方。
勢いではなく、制御された動き。
空気を裂くでもなく、ただ“現れる”。
「うわ……」
陽炎が声を漏らす。
「ほんとに蛇だ……」
霰が目を丸くする。
「……綺麗」
不知火がぼそっと言う。
霞が一歩引きかけたが、踏みとどまった。
それだけで、彼女の中の何かが変わっている。
明石がすぐに食いつく。
「形状の保持力は? 固定しても疲労しない? 維持コストはどうなってるの?」
「……維持は可能」
「可能って、どれくらい!」
「……必要なら長い」
「必要なら長いって何時間!?」
「……知らん」
明石が固まってから、叫んだ。
「知らないって何!? そこ知りたいんですけど!?」
「明石さん落ち着いて!」
夕張が笑いながら止める。
その笑い声が工廠に響いたのを聞いて、周囲の空気がさらに緩む。
「硬度測るよ。――この辺、軽く叩いていい?」
「……やれ」
夕張が金属棒を当てる。
コン、と乾いた音。
想像以上に硬い。跳ね返りが強い。
「……装甲材に近い」
「ってことは、弾くの?」
「……弾く」
霰が小さく手を挙げる。
「……熱には弱い?」
「……弱くない」
「冷却は?」
「……意味がない」
霞が眉を寄せる。
「ねえ、じゃあ……どうやって壊すのよ」
「……壊す必要がない」
その返答に、霞はまた言葉を失う。
不知火が呟く。
「……“壊す必要がない”という発想が、兵器ではなく“生物”寄りですね」
葵が頷く。
「うん。生きてる。私にはそう見える」
“生きてる”。
その言い方が、工廠にいた艦娘たちの胸に残った。
⸻
そこへ、別の艦娘たちが工廠に顔を出す。
摩耶、鳥海、高雄、愛宕。
重巡の一団だ。
そして少し遅れて、利根と筑摩も。
「……おい、ここ何の集まりだ?」
摩耶が不機嫌そうに言いながら、蛇赫を見て足を止める。
「……マジか」
「噂、これか」
鳥海が冷静に言う。
愛宕がにっこり笑った。
「まあ。すごいわね。……触ってもいい?」
「ダメ」
即答。
愛宕が一瞬きょとんとして、次の瞬間くすっと笑った。
「ふふ。断り方が可愛いのね」
「可愛くないでしょ」
高雄が真面目に突っ込む。
利根が腕を組む。
「ふむ。つまり、近づく者は選別されるということか」
「……選別じゃない」
ハヤトが短く返す。
「線だ」
「線?」
筑摩が眉を上げる。
「越えるな」
「……線引き、ね」
鳥海がその単語を口の中で反芻するように言った。
葵が静かに頷く。
「うん。私たち、そこだけはずっと同じ」
それは説明ではなく、宣言に近かった。
⸻
その日の午後。
警備巡回。
今日は、いつもの班だけじゃない。
工廠の噂が回ったせいで、「偶然通りかかった」艦娘が増えた。
正門付近で、赤城と加賀がすれ違う。
二人は歩調を落とす。
「……警備、お疲れ様です」
赤城が先に言った。
葵ではなく、ハヤトに向けた言葉。
周囲の空気が、少し固まる。
言った本人も、言ってしまったあとで自覚したように、目を瞬いた。
ハヤトは止まり、赤城を見る。
「……ああ」
それだけ。
赤城は胸に手を当てたまま、少し笑う。
「……返事、もらえました」
「赤城さん、今の普通でしたよ」
傍にいた翔鶴が小声で言うと、赤城は頷いた。
加賀も一歩進む。
「……昨日の噂は事実ですか」
「……見れば分かる」
「いえ。私は“聞きたい”のです」
加賀の言葉は、いつも通り理詰めで、静かで、強い。
ハヤトは一拍だけ置き、短く答えた。
「……事実だ」
それだけで、加賀はわずかに目を細めた。
「……理解しました。ありがとうございます」
“ありがとうございます”。
その言葉が、周囲にいた艦娘たちに小さな衝撃を落とす。
加賀が、誰にでも言う言葉ではない。
その様子を遠くから見ていた瑞鶴が、翔鶴の袖を引く。
「ねえ、今の見た?」
「見たわ」
「加賀さんが……!」
「うん。たしかに」
二人はそれ以上言わない。
言わないまま、視線だけが動く。
⸻
巡回ルートの途中、洗濯場の近く。
鳳翔が箒を持ったまま顔を上げる。
「あら。警備、ご苦労様です」
「鳳翔さん、お疲れ様です!」
艦娘たちの挨拶は鳳翔に向けられる。
だが、そのあと――
「……あなたも、お疲れ様」
鳳翔が、ハヤトに言った。
自然に。何の引っかかりもなく。
ハヤトは鳳翔を見る。
「……ああ」
その返事は同じ短さなのに、
鳳翔は少しだけ表情を柔らかくした。
「葵さんが安心して笑える場所を、守ってくださっているのですね」
「……守る」
その一語で、鳳翔は十分だったように頷いた。
⸻
グラウンド横。
訓練終わりの川内が汗を拭きながら歩いてくる。後ろに神通と那珂。
「おっ、警備? いいねぇ!」
川内はハヤトを見て、足を止めない。止めないまま言う。
「ねえ、ハヤト! 夜戦得意!?」
「……知らん」
「即答で知らん!? 面白い!」
那珂が慌てて川内の袖を引く。
「川内ちゃん! そういう聞き方しないの!」
「だって気になるじゃん」
「気になるのは分かるけど!」
神通が一歩前に出て、丁寧に言った。
「……警備、ありがとうございます。私たちも努力します」
「……好きにしろ」
神通は一瞬固まりかけたが、すぐに小さく笑った。
「はい。好きにします」
その“好きにします”が、なぜだか胸に残る。
相手の言葉を恐怖で受け止めず、意思として返す。
それは小さな対等だった。
⸻
倉庫付近。
潮と暁と響が、巡回の帰りに合流する。
暁は胸を張って言った。
「……警備、お疲れ様よ! れ、レディとして言うけど……あなた、ちゃんと守ってるのね」
「……守る」
響が短く言う。
「……“守る”って、言葉で言うの、珍しいね」
「……必要だから言う」
潮がそっと続ける。
「……私、まだ怖いです。でも……おはようって言われたら、返したいって思うようになりました」
「……それでいい」
ハヤトが言ったのは、それだけ。
でも潮は目を見開き、そして小さく頷いた。
「……はい。それで、いきます」
⸻
夕方。
食堂へ向かう廊下。
すれ違いざま、声が増える。
「お疲れ様です」
「警備、ご苦労様」
「……怪我、ない?」
言葉を投げた艦娘の名は、扶桑、山城、陸奥、金剛、榛名。
戦艦たちの声は落ち着いていて、重い。
金剛は明るく言う。
「Hey! ハヤト! 今日もSilent guardネ!」
「……知らん」
「知らん!? でもカッコいいネ!」
榛名が苦笑しながら頭を下げる。
「……榛名は、大丈夫です。まだ怖いですけれど……逃げません」
「……好きにしろ」
榛名はそれを“拒絶”として受け取らない。
“許可”でもない。
ただ、相手の領域を侵さない言葉だと理解する。
「はい。好きにします」
その返答が、少しずつ鎮守府に増えていく。
⸻
食堂の入口。
葵がいつも通り配膳に立っている。
笑顔は変わらない。気丈だ。無理がない。
けれど、その笑顔の奥に、痛みがあることを知っている者も増えた。
「葵さん、今日もありがとう」
「うん! いっぱい食べてね」
その声が広がる中、
ハヤトは壁際、全体が見える位置に立つ。
“圧”があるはずなのに、
今日の食堂の空気は、昨日より柔らかい。
赤城がトレーを持ったまま立ち止まり、葵を見る。
「……葵さん」
「なあに?」
「あなたが“怖くてもいい”と言うのは、強いからですか」
「……ううん」
葵は少し考えて、笑った。
「弱いからだよ。怖いって言われるの、痛いもん」
「……」
「でもね、痛いままでも、ここにいたい。だって、私がここにいることで“誰かが選べる”なら、それって大事だと思う」
加賀が聞いていた。
加賀は目を伏せて、静かに言う。
「……“選ぶ”。それが、この鎮守府の言葉なのですね」
「うん。私はそう思ってる」
葵がそう言って、ふとハヤトを見る。
ハヤトは何も言わない。
でも、葵の視線にだけは反応する。わずかに頷く。
その仕草を見た明石が、小さく呟いた。
「……言葉より、頷きの方が重いんだなぁ」
⸻
食堂の端の席。
駆逐艦娘たちが集まって小さく話している。
吹雪、潮、響、暁、雷、電。
そして少し離れた席には、神通と那珂。
吹雪は箸を止め、ぽつりと言った。
「……今日、声をかける人、増えてた」
潮が頷く。
「……増えてました。怖いのに、みんな声を出してました」
響が淡々と言う。
「……声を出すのは、怖い時の方が必要」
暁が胸を張る。
「レディは、逃げないの!」
雷と電が顔を見合わせ、同時に言う。
「……でも、まだ怖い」
「……うん、怖い」
吹雪はその言葉に頷いた。
「怖いままでもいい。……たぶん、それが今日の空気だった」
その時、食堂の入口付近で小さなやり取りがあった。
摩耶がトレーを持ったまま、ハヤトの前で足を止めたのだ。
「……おい」
「……何だ」
「……警備、やってんだろ」
「……ああ」
「……じゃあ、今度、工廠の前も見とけ。整備員が怯えて動き遅くなるのは困る」
「……分かった」
摩耶は一瞬固まり――
すぐに視線を逸らして、乱暴に言い捨てた。
「……それだけだ」
その背中を見送って、鳥海が小さく笑う。
「摩耶様なりの挨拶ですね」
愛宕が楽しそうに言う。
「ふふ。可愛いわ」
⸻
夜。
警備の交代。
正門付近に集まる艦娘の数が、いつもより多い。
交代のついでに挨拶をしたい者。
顔を見ておきたい者。
怖いまま、確認したい者。
長門が腕を組んで見ている。
「……増えたな」
白瀬提督が隣で頷く。
「増えた。……静かに、確実に」
ハヤトは立っている。
黙っている。
その前に、誰かが立つ。
扶桑だ。
「……今日も、お疲れ様でした」
「……ああ」
山城が続ける。
「……まだ怖いです。でも……葵さんが笑っているのを見て、逃げたくないと思いました」
「……それでいい」
山城は目を見開き、
小さく頭を下げた。
次は、吹雪だった。
彼女は以前より足が震えない。
震えが“消えた”わけじゃない。
震えを抱えたまま、立っている。
「……今日も、警備、お疲れ様でした」
ハヤトは吹雪を見る。
「……ああ」
短い。
短いけれど、吹雪は息を吐く。
“返事がある”。
それだけで、明日が少し違う。
潮も並ぶ。
「……お疲れ様でした」
「……ああ」
響が短く言う。
「……おやすみ」
「……ああ」
暁は胸を張って言う。
「……レディは、礼を言うの! ありがとう!」
「……礼は要らん」
「い、いらないって言われた!?」
「でも言うの! ありがとう!」
「……好きにしろ」
暁は満足そうに頷いた。
「うん! 好きにする!」
周りが、少し笑う。
その笑いが、“怖さを踏み越えた笑い”ではなく、
“怖さを持ったまま出た笑い”だということが、分かる。
だから、強い。
⸻
最後に葵が現れる。
宿舎の入口で、ハヤトを迎える。
「お疲れ様」
「……ああ」
「今日は、声をかける人が増えたね」
「……増えた」
「嬉しい?」
「……悪くない」
それだけ。
でも葵は、それだけで目を細めた。
「ねえ、ハヤト」
「……何だ」
「怖いって言われるの、痛い?」
「……痛くない」
「……うそ」
「……」
ハヤトは黙る。
葵は笑って、でも真剣に言う。
「痛いままでも、ここにいようね」
「……ああ」
二人は手を繋いで、宿舎へ入っていく。
その背中を見て、長門が小さく呟く。
「……これが、変化か」
白瀬提督は頷く。
「恐怖が消えたわけじゃない。……でも、恐怖の中で“選ぶ”者が増えた。
それが、今の呉鎮守府の勝ち方なんだろう」
長門は目を伏せ、低く言う。
「……明日も、続けるだけだ」
誰も派手に喜ばない。
誰も浮かれない。
ただ、確かに前へ進む。
恐怖は残る。
拒絶も残る。
理解できない部分も残る。
それでも――
声が増えた。
それだけで、鎮守府の夜は昨日より少しだけ温かかった。