葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の警備交代。
正門前の空気は、少しだけ変わっていた。
昨日まであった「一歩引いた距離」が、
今日は「半歩分」くらい縮まっている。
誰も明確に意識していない。
ただ、そうなっていた。
ハヤトはいつもの位置に立っている。
腕を組み、背筋を伸ばし、視線は鎮守府全体へ。
変わらない。
けれど、周囲の反応が変わっていた。
「……おはようございます」
最初に声をかけたのは、潮だった。
小さな声。けれど、逃げ腰ではない。
ハヤトは一瞬だけ視線を向ける。
「……おはよう」
それだけ。
潮は一瞬固まり、それから少しだけ笑った。
「……はい!」
吹雪はその様子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(……今の、普通だった)
“普通”という言葉が、ここではまだ特別だ。
⸻
巡回に出る前、白瀬提督がハヤトの隣に立った。
以前なら、ここで空気が固まっていたはずだ。
「昨日の海上訓練、報告は受けた」
ハヤトは短く。
「……問題なかった」
「沈んだ件も含めて?」
一瞬の間。
ハヤトは否定しない。
「……改善された」
白瀬提督は苦笑した。
「夕張と明石が、妙に張り切っていた理由が分かったよ」
「……あの二人は、楽しそうだった」
「“楽しそう”で済ませられる内容じゃないがな」
そう言いながらも、白瀬提督の声には責める色はなかった。
「なあ、ハヤト」
「……何だ」
「ここでの警備、どうだ?」
少しだけ、間があった。
吹雪は無意識に耳を澄ませていた。
「……静かだ」
「それは良いことだ」
「……判断が遅い」
白瀬提督は一瞬驚き、それから納得したように頷いた。
「そうだな。
だが、“遅い”のは悪いことばかりじゃない」
「……」
「考えて、選んで、怖がって。
それでも一歩踏み出す。
時間はかかるが、壊れにくい」
ハヤトは答えない。
ただ、拒絶もしなかった。
白瀬提督は小さく息を吐く。
「……俺はな、ここを“安全な場所”にしたい」
「……安全?」
「誰かが来て、誰かが帰って、
誰かが失敗しても、もう一度やり直せる場所だ」
ハヤトは一瞬だけ、視線を遠くへ向けた。
「……脆い」
「分かってる」
白瀬提督は即答した。
「だから、守る」
短い沈黙。
「……好きにすればいい」
ハヤトが言った。
白瀬提督は眉を上げる。
「ずいぶん投げやりだな」
「……選ぶのは、そちらだ」
白瀬提督は笑った。
「じゃあ――好きにする」
その言葉が、後に広がっていくとは、
この時はまだ誰も知らなかった。
⸻
午前の巡回中。
倉庫付近。
吹雪が足を止めた。
「……あの」
ハヤトが止まる。
視線だけ向ける。
「昨日の……その……海の上の……」
言葉に詰まる吹雪。
ハヤトは急かさない。
「……浮いてたやつ、すごかったです」
沈黙。
「……そうか」
それだけ。
吹雪は少し戸惑ったが、
「……はい!」とだけ返した。
すると後ろから、別の声。
「ねえねえ」
川内だった。
腕を組み、興味津々という顔。
「今さ、砲撃とか避けてたでしょ?」
「……避けた」
「夜戦でも通用する?」
吹雪が思わず息を呑む。
(川内さん、直球すぎる……)
ハヤトは少し考えたように間を置き、
「……条件次第だ」
川内は目を輝かせた。
「条件?」
「……視界と距離」
「なるほどー!」
川内は満足そうに頷いた。
「今度、模擬戦やろうよ!」
吹雪が慌てる。
「か、川内さん!?」
ハヤトは即答しない。
ただ一言。
「……必要なら」
川内は笑った。
「うん、必要になったらね!
好きにします!」
その言葉に、吹雪ははっとする。
(……今の、提督の言葉と同じ……)
⸻
昼、食堂。
ハヤトは壁際の定位置。
葵がコーヒーを置く。
「今日、少し話しかけられてたね」
「……増えた」
「嫌?」
「……問題ない」
葵は安心したように微笑む。
「よかった」
その会話を、少し離れた席から赤城と加賀が見ていた。
赤城が小声で言う。
「ねえ、加賀さん」
「何かしら」
「最近、あの人……普通に会話してません?」
「……していますね」
「最初は怖かったのに」
加賀は箸を置き、静かに言う。
「恐怖が消えたわけではありません」
「でも?」
「……“線”が見えるようになった」
赤城は少し考え、頷いた。
「踏み越えなければ、何も起きない」
「ええ」
その会話を、隣の席の瑞鶴が聞いていた。
「つまりさ」
二人を見る。
「好きにしなきゃいいってこと?」
加賀は淡々と。
「そういうことです」
瑞鶴は肩をすくめる。
「じゃあさ、好きにする人は?」
赤城が即答した。
「……止められるでしょうね」
瑞鶴は苦笑する。
「うん、あれは止まらないタイプだ」
⸻
午後、警備交代前。
新しい当番の艦娘が集まってくる。
最初は距離があったが、
今日は違った。
「……あの」
声をかけたのは、榛名だった。
「今日も警備、よろしくお願いします」
ハヤトは短く。
「……こちらこそ」
榛名は少し驚き、それから微笑んだ。
「ありがとうございます」
その後ろで霧島がぼそっと言う。
「会話、成立してますね」
金剛が笑う。
「進歩ネ!」
夕張が通りすがりに言った。
「……データ的にも、良い傾向です」
明石が手を振る。
「工廠的にも大歓迎ですよー!」
ハヤトはその騒がしさを眺め、
一言。
「……賑やかだ」
白瀬提督が横に立つ。
「嫌か?」
「……嫌ではない」
「それなら、上出来だ」
⸻
夕方。
吹雪は巡回の終わりに、
もう一度ハヤトの前に立った。
「……今日も、お疲れ様でした」
昨日より、声が震えていない。
ハヤトは一瞬だけ見て、
「……ああ」
それだけ。
でも吹雪は、はっきり思った。
(……怖いままでいい)
怖いから、考える。
考えるから、選ぶ。
選ぶから、踏み越えない。
それでいい。
白瀬提督が最後に言った。
「明日も、好きにやろう」
川内が即答する。
「はーい!好きにします!」
榛名が苦笑する。
「ほどほどに、ですよ」
ハヤトはそれを聞いて、
ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
誰にも気づかれない程度に。
鎮守府は今日も、何も起きなかった。
けれど確実に、何かが変わり始めていた。
“会話”という、小さな変化が。