葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
執務室の空気は、重く沈んでいた。
窓の外には、いつもと変わらぬ呉の海。
訓練を終えた艦娘たちの声が、遠くで微かに響いている。
だが、この部屋の中だけは違った。
白瀬提督は椅子に深く腰を下ろし、指を組んだまま天井を仰ぐ。
「……正直に言う」
静かに、だがはっきりとした声だった。
「海中の敵に対して、我々は決定打を持っていない」
長門は腕を組み、無言で頷く。
吹雪は背筋を伸ばしたまま、唇を噛んだ。
「艦娘の領域だ。潜水艦娘が対応するのが前提になる」
「だが――」
提督は視線をハヤトへ向ける。
「仮に、最悪の状況になった場合」
「……君であっても、危険だと判断している」
一瞬の沈黙。
ハヤトは椅子にもたれず、背筋を伸ばしたまま答えた。
「……無いことはない」
短い言葉。
感情は乗っていない。
吹雪が小さく息を吸う。
「攻撃手段が、あるのか?」
長門が問いかける。
ハヤトは一度だけ視線を向け、すぐに戻した。
「ある」
それだけだった。
白瀬提督は、慎重に言葉を選ぶ。
「ならば――」
「……やらない」
ハヤトは被せるように言った。
「危険だから」
「巻き込む」
それ以上は語らない。
理由の説明も、正当化もない。
ただ、“選ばない”という事実だけ。
室内の空気が、さらに張り詰めた。
その時だった。
「……それは」
口を開いたのは、葵だった。
だが、いつもの柔らかな声ではない。
その表情には、微笑みは一切ない。
「それは、“見せるかどうか”の話じゃありません」
全員の視線が、一斉に集まる。
葵は真っ直ぐ前を見据えたまま、続ける。
「“やるか、やらないか”の話です」
白瀬提督は黙って聞いている。
長門も、吹雪も、言葉を挟まない。
「冥焔連には、絶対の掟があります」
その名が、初めてこの部屋で自然に口にされた。
「越えてはいけない線」
葵の視線が、ほんの一瞬だけハヤトへ向く。
だが、すぐに戻る。
「それは戦況でも、命令でもありません」
「私に――実害が及んだ時です」
吹雪の喉が、ひくりと鳴った。
「命、身体、自由」
「どれか一つでも、確定した時」
葵は、はっきりと言い切る。
「その瞬間、ハヤトは“止まる選択”をしなくなります」
沈黙。
重い沈黙。
白瀬提督は低く問い返す。
「……それは、彼一人の話か?」
葵は首を横に振った。
「違います」
即答だった。
「四天位も、他の者たちも」
「全員です」
名前だけが落ちる。
説明は、ない。
それ以上語らないという意思が、はっきり伝わってきた。
「その時に起きるのは――」
葵は一度、深く息を吸う。
「戦闘ではありません」
静かな断定。
「災厄です」
吹雪は、背中を冷たいものが走るのを感じた。
「制御出来ない」
「運用出来ない」
「評価も、管理も出来ない」
葵の声は、淡々としている。
「だから、見せる・隠すの話ではありません」
「“起きてはいけない”んです」
ハヤトは、何も言わない。
だが、その沈黙が、全てを肯定していた。
白瀬提督は帽子の鍔に触れ、ゆっくりと息を吐く。
「……理解した」
その一言に、重みがあった。
「この件について、これ以上踏み込むことはしない」
「抑止力として扱うこともしない」
葵は、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
だが、表情は緩めない。
「それが、彼を“こちら側”に留める唯一の方法です」
長門は腕を組み、低く呟いた。
「……線を越えさせない」
葵は頷く。
「誰にも」
その言葉は、命令ではない。
だが、重い。
吹雪は、この時ようやく理解した。
――だから、ハヤトは動かなかった。
――だから、沈黙していた。
恐れられても、拒絶されても。
それでも、選び続けていた。
会議は、それ以上続かなかった。
誰もが分かったからだ。
この鎮守府が扱っていいのは、
線のこちら側だけだということを。
そして同時に――
その線が越えられた時、
取り返しがつかない何かが起きるということも。