葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
執務室の空気は、重かった。
白瀬提督、長門、そして数名の艦娘達。
誰もが椅子に座っているのに、誰一人として“楽な姿勢”ではいられなかった。
沈黙が長く続くほど、部屋の中の温度が下がっていくようだった。
その沈黙を破ったのは、白瀬提督だった。
「……本当に、起きてはならないことだというのは理解している」
声は低く、慎重だった。
言葉を選び抜いた軍人の声だ。
「だが、我々は軍人だ。
そして……これからも、君達と同じ場所で生きていく」
一拍、間を置く。
「だからこそ、知っておきたい。
“線を越えた場合”に、何が起きるのかを」
その言葉に、空気がさらに張り詰めた。
長門は黙ったまま、机の上で指を組む。
艦娘達も誰一人、口を挟まない。
視線は自然と、ハヤトへ集まっていた。
ハヤトは無言だった。
だが、その瞬間――
彼の目が、変わった。
怒りでもない。
殺気でもない。
ただ、底が見えない。
無機質ですらない、
感情という概念そのものが削ぎ落とされたような目。
そこに「人」を感じ取れる者はいなかった。
白瀬提督は、思わず息を呑む。
長門の背筋が、はっきりと強張る。
――これは、見るべきものではない。
そう直感した瞬間、
静かに声を出したのは、葵だった。
「……皆さん」
その声は、柔らかい。
だが、はっきりしていた。
「本当に……知りたいですか?」
誰も答えなかった。
だが、誰も目を逸らさなかった。
葵は小さく息を吸い、
ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始める。
「皆さんは……
世界が、黒く、赤く焼き尽くされる光景を……見たいですか?」
艦娘達の喉が、一斉に鳴る。
「長門さん」
名を呼ばれ、長門は静かに顔を上げた。
「初めてお会いした時……
ハヤトが焼き尽くしたものを、見ましたよね」
長門は否定しなかった。
あの時の光景は、今でも夢に出る。
「でも……」
葵は続ける。
「線を越えた先では、
あれは“子供騙し”です」
その言葉に、空気が凍りついた。
「だって……」
葵は、真っ直ぐに提督達を見る。
「世界を、焼き尽くすんですから」
誰かが、息を詰まらせた音がした。
「それは、見せる・見せない、という話じゃありません」
葵の声は震えていない。
だが、感情が無いわけでもない。
「起きてしまったら、止めることは出来ません」
「それは……ハヤトだけの話じゃない」
一瞬、視線が伏せられる。
「炎慈も、深赫も……冥焔連の皆も」
初めて、その名が静かに口にされた。
「私が……何度も見てきた光景です」
艦娘達は、息をすることすら忘れていた。
「だから、お願いします」
葵は深く、頭を下げた。
「もし……万が一、その兆しが見えたら」
顔を上げ、真剣な眼差しで告げる。
「必ず、その場から逃げてください」
「振り返らないでください」
「生きて帰ることだけを、考えてください」
そして、はっきりと言った。
「守れなければ……死にます」
言い切りだった。
脅しではない。
警告でもない。
事実の提示だった。
白瀬提督は、拳を握り締めた。
「……それでも」
震えを押し殺しながら、口を開く。
「それでも、我々は……
共に在ることを、選べるのか?」
その問いに、ハヤトが僅かに動いた。
だが、言葉はない。
ただ一言も発さず、
その目で、全てを語っていた。
――選ぶのは、お前達だ。
葵は、静かに頷く。
「はい」
「だから、線は引きます」
「越えなければ、何も起きません」
「越えたら……終わりです」
沈黙が落ちた。
誰もが理解してしまった。
これは“戦える脅威”ではない。
戦争そのものを無意味にする災厄だと。
白瀬提督は、深く息を吐き、頭を下げた。
「……話してくれて、ありがとう」
長門も、ゆっくりと頭を下げる。
艦娘達も、同じように。
誰一人として、軽い気持ちではいられなかった。
この日、彼女達は知ってしまった。
恐怖の正体を。
線を越えるということの意味を。
そして――
それでもなお、共に在るかどうかを。
選ぶのは、これからだった。