葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の鎮守府は、いつもと変わらない音で満ちていた。
艦娘達の足音。
訓練の号令。
食堂から漂う匂い。
変わらない。
だが、心だけが、追いついていない。
吹雪は、廊下の角で足を止めた。
向こうから歩いてくるのは、曙と満潮、霞。
三人とも、どこか硬い表情をしている。
「……おはよう」
吹雪が声をかけると、曙は一瞬だけ視線を逸らした。
「……おはよ」
それだけ。
会話は続かない。
以前なら、軽口の一つも飛んだはずなのに。
満潮が、小さく息を吐く。
「……ねえ、吹雪」
「なに?」
「……昨日の話、聞いた?」
一瞬、胸が締め付けられる。
「……うん」
「……そう」
満潮はそれ以上、何も言わなかった。
霞が、腕を組んだまま口を開く。
「……正直に言うけどさ」
その声は、少しだけ刺があった。
「私は、まだ無理」
吹雪は、何も言わない。
「怖すぎるでしょ。
世界を焼き尽くす、とか……冗談じゃない」
「もし間違ったら?
もし気まぐれだったら?
もし、葵さんが……」
霞は言葉を切る。
「……その時、私達はどうすればいいの?」
吹雪は、答えられなかった。
廊下の先で、ハヤトと葵が歩いてくるのが見える。
二人は、こちらに気づいて立ち止まった。
葵は、いつも通りの表情だった。
柔らかく、穏やかで。
「おはよう」
その声に、曙が少し強い口調で返す。
「……正直に言っていい?」
葵は、頷いた。
「うん」
曙は、ぎゅっと拳を握る。
「私、怖いよ」
言葉が、真っ直ぐ飛ぶ。
「あなた達が何を守ろうとしてるのか、
分かるつもりではいるけど……」
「それでも、怖い」
「優しい顔で笑われるのも、
何も言い返してこないのも……」
曙は、歯を食いしばる。
「……全部、余計に怖い!」
廊下の空気が、張り詰めた。
誰かが止めると思った。
だが、葵は止めなかった。
ただ、静かに聞いている。
「私達、艦娘だよ?」
曙の声が震える。
「戦う覚悟はある。
死ぬ覚悟も、ある」
「でも……
“選択を間違えたら世界が終わる”なんて覚悟は、
最初から持ってない……!」
沈黙。
ハヤトは、何も言わない。
葵は、少しだけ視線を下げてから、曙を見る。
「……そうだよね」
その返事は、否定でも慰めでもなかった。
「怖いと思うのは、当たり前だよ」
霞が、眉をひそめる。
「……怒らないの?」
「ううん」
葵は、微笑んだまま首を振る。
「怒る理由がないから」
「だって……
私も、最初は怖かった」
その一言に、曙が目を見開く。
「……え?」
葵は、ゆっくり続ける。
「ハヤトが、どんな存在なのかを知った時」
「線を越えたら、何が起きるのかを知った時」
「……正直、逃げたくなった」
その場にいる誰もが、息を止めた。
「でもね」
葵は、真っ直ぐ前を見る。
「怖いって思ったからこそ、
私は“線”をちゃんと見ることが出来た」
「怖いから、
越えさせないって決められた」
「怖いから、
越えた後の世界を、引き受ける覚悟も出来た」
曙は、言葉を失っていた。
「……だから」
葵は、優しく言う。
「怖いままで、いいんだよ」
「選べなくても、いい」
「今、距離を取っても、責めない」
満潮が、ぽつりと呟く。
「……それ、強がりじゃないの?」
葵は、少しだけ目を細めた。
「強がりだったら、
もっと分かりやすく振る舞ってると思う」
ハヤトが、その時、短く口を開いた。
「……否定しない」
全員の視線が向く。
「恐怖は、正しい反応だ」
それだけ。
余計な言葉はない。
霞が、静かに言う。
「……じゃあ、私達が選ばなかったら?」
ハヤトは、一瞬だけ考えるように視線を落とし、答えた。
「……それも、選択だ」
葵が頷く。
「無理に隣に立たなくていい」
「でも……
逃げる時は、ちゃんと逃げて」
「生きて、帰って」
その言葉の重さに、誰も反論できなかった。
曙は、俯いたまま言った。
「……今は、無理」
「それでも、いい?」
葵は、はっきり頷いた。
「うん」
「今じゃなくてもいい」
「いつか、選びたくなった時でいい」
ハヤトは、何も言わず、その場を離れる。
葵も、一礼して後を追った。
残された艦娘達は、しばらく動けなかった。
吹雪は、胸の奥が痛むのを感じながら思う。
(……あれは、受け止めてる顔だ)
強がりじゃない。
逃げてない。
恐怖の一端を知った上で、
それがもたらす結果を、最初から引き受ける覚悟の顔。
それを、彼女達は――
まだ知らない。
だが、いずれ知ることになる。
葵が笑い続ける理由。
ハヤトが沈黙を選び続ける理由。
それが、優しさではなく、決意だということを。