葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
会議室の空気は、重かった。
地図も、戦況図も、報告書もすべて机の上に揃っている。
だが、誰もそれを見ていなかった。
視線は伏せられ、ある者は腕を組み、ある者は椅子の背に深く身を預けている。
ここに集められたのは、呉鎮守府の中でも中核にあたる提督と艦娘達だった。
白瀬提督は、帽子を机に置いたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……今回の件については、既に全員が概要を把握していると思う」
誰も返事をしない。
それでいい、というように白瀬は続ける。
「鎮守府正門での騒動。
外部の集団による侵入未遂。
そして……あの“存在”の介入」
あの存在。
誰も名前を口にしなかった。
だが、全員が同じものを思い浮かべている。
白瀬は一度、息を整える。
「結果として、死者は出ていない。
艦娘側にも負傷者はいない。
鎮守府施設への被害も、最小限だ」
そこで言葉を切り、白瀬は視線を上げた。
「……だが、問題はそこじゃない」
長門が、ゆっくりと頷いた。
「問題は、“あれ”が、何だったのかだ」
会議室の空気が、さらに沈む。
「力か」
「意思か」
「理性か」
誰かが小さく呟いた。
扶桑が静かに口を開く。
「私は……怖かったです。
正直に言えば、今でも」
山城も続く。
「でも、それは“襲われる恐怖”じゃなかった。
何と言うか……理解できないものを、見てしまった恐怖です」
戦艦艦娘達の言葉は重い。
力を持つ者だからこそ、力の異質さが分かる。
陸奥が腕を組んだまま、少し乱暴に言った。
「力を誇示するなら、まだ分かるわ。
威嚇するなら、理解できる。
でも……あれは違った」
「怒っていなかった」
「興奮していなかった」
「脅してすら、いなかった」
飛龍が低く呟く。
「……“断定”だった」
蒼龍が息を呑む。
「最初から、結果が決まっているみたいな……」
空母艦娘達も、沈黙する。
彼女達は、戦場で多くの“怪物”を見てきた。
深海棲艦も、暴走した兵器も。
だが、あの存在は、どれにも似ていなかった。
「ここで、一つ確認したい」
白瀬が言う。
「我々は、あの存在を“制御できる戦力”として見ているのか?」
即答はない。
北上が、軽い口調で、しかし真剣に言った。
「……無理でしょ。あれ」
大井も頷く。
「制御じゃない。
そもそも、制御の枠に入れていい存在じゃない」
重巡艦娘達も同意する。
摩耶は腕を組み、苛立ち混じりに吐き捨てた。
「じゃあ、切る?
排除する?
……それも無理だろ」
霞が静かに言った。
「無理だから、怖いんです」
その言葉に、全員が黙った。
そして――
長門が、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……私が、もう一つ恐れていることがある」
視線が集まる。
長門は、拳を握り締めた。
「“あれ”が、唯一ではない可能性だ」
空気が、凍る。
「ハヤトという存在が、特別なのか」
「例外なのか」
「それとも……同じものが、他にもいるのか」
長門の声は、僅かに震えていた。
「彼と同じ“喰種”が、他にもいる。
それだけは、確かだ」
「だが……もし」
長門は、言葉を選ぶように間を置く。
「もし、葵が傷つけられた時――
彼と“同じ力”を持ちながら、
彼のように“止まる選択”をしない者がいたら……」
俯いたまま、長門は続ける。
「私は、それを想像してしまった」
沈黙。
誰も、否定できなかった。
長門は、顔を上げない。
「冥焔連……」
初めて、その名前が、会議の場に落ちた。
「この世界では、誰も知らない。
だが、彼がそこに属していたという事実だけは、動かない」
白瀬提督が、低く呟く。
「……冥焔連とは、一体どういう組織だったのか」
誰も答えられない。
名前だけが、重く残る。
「彼一人でさえ、あれほどだ。
もし、同じ存在が、同じ意思を持たずに集っていたら……」
長門は、言葉を切った。
「……震えが、止まらなかった」
しばらくして、白瀬が口を開いた。
「それでも」
全員が、顔を上げる。
「それでも、我々は選ばなければならない」
「拒絶か」
「共存か」
「距離を保った協力か」
白瀬は、はっきりと言った。
「誰かが正解を教えてくれることはない」
「ハヤトも、葵も、ここにはいない。
だからこそ……これは、我々自身の選択だ」
艦娘達の表情は、まだ固い。
だが、誰一人として、席を立たなかった。
「恐怖がある」
「理解できない部分もある」
「それでも――」
白瀬は、静かに締めくくった。
「私は、“拒絶だけで守れるものはない”と判断した」
「それが正しいかどうかは、分からない。
だが、逃げないという選択だけは、した」
誰も拍手しない。
誰も賛同を叫ばない。
ただ、それぞれが、胸の内で決断を下していく。
会議は、静かに解散となった。
廊下に出た艦娘達は、互いに言葉を交わさず、歩いていく。
誰もまだ、答えを持っていない。
だが――
恐怖から目を逸らさないという選択だけは、確かに、ここに残った。