※この作品はR-18です。

葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー   作:戌威

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第24話 海の境界で

 

夜の海は、昼とは別の顔をしていた。

音が少ない。波の砕ける音と、風の擦れる音だけが、遅れて耳に届く。遠くの灯りが水面に滲み、揺れて、ほどけて、また繋がっていく。――同じことを繰り返しているようで、同じ形には二度と戻らない。

 

呉鎮守府の端、艦娘達の出入りが少ない外れの堤防。

そこに二つの影が並んでいた。

 

ひとつは、黒いコートを纏った男。

背筋を伸ばして、動かない。波のリズムにすら合わせない静けさで、海の向こうを見ている。

 

もうひとつは、白い羽織を肩に掛けた少女。

海風に髪が揺れるたび、その頬が少し冷えていく。冷えを誤魔化すみたいに、彼女は腕を回した。その腕が抱く相手の腕は、硬い。温度も感触も、人のそれとは違う――それでも、ここにいる。

 

「……寒い?」

 

男が先に言った。

声は低く、短い。問いかけの形なのに、確認に近い。

 

少女――葵は小さく笑って首を振る。

 

「ううん。大丈夫。ハヤトの方が寒いでしょ?」

 

「……俺は平気だ」

 

それ以上は言わない。

平気だ、で終わる。そういう人だ。

 

葵は海を見たまま、少しだけ体重を預けた。

肩が触れる。触れたまま、離れない距離。そっと、額を彼の腕に当てる。硬い感触に、安心する自分がいるのが分かって、葵は息を吐いた。

 

笑っていない。泣いてもいない。

ただ、静かだった。

 

「……ねえ、ハヤト」

 

「……」

 

返事はない。けれど、聞いている。

それが分かるから、葵は続ける。

 

「ここに来て……長門さん達と出会って……白瀬さんも……みんなも、少しずつ変わってくれてる。分かってるよ。ほんとに、分かってる」

 

海風が強くなって、髪が視界を遮る。葵は手で払って、また海を見る。

 

「でもね……私、たまに怖くなる」

 

その言葉は、自分自身に落とすみたいに小さかった。

ハヤトは何も言わない。

それが、葵にはありがたかった。慰めも励ましも、今は違う。

 

「もし……もし、このまま理解されなかったら」

 

波の音が一瞬、大きくなる。

葵の声はその上を滑るように続いた。

 

「……また、否定されて。拒絶されて。追われる身になったら。ここを出なきゃいけなくなったら……私達、どこに行こうかって」

 

葵は言い終えてから、少しだけ眉を寄せた。

“出なきゃいけない”という言い方が、自分の中で既に現実に寄りかかっていることに気づいたからだ。

 

ハヤトの視線が、海から僅かに動いた。

葵の髪の流れ、指先、肩の位置――そういう細部を一度だけ見て、また海へ戻す。

 

「……行く場所はある」

 

「うん」

 

「人が少ないところ」

 

「うん」

 

「港じゃないところ」

 

「……うん」

 

葵は目を閉じた。

具体的な言葉が、胸に落ちる。

夢や希望じゃない。“生活”の話だ。逃避でも悲劇でもない。現実の選択肢。そうやって言えるのが、ハヤトだ。

 

「山の方……とか?」

 

「……海が見える場所」

 

「え、海がいいの?」

 

「……お前が海を見る」

 

「……」

 

それは、理由になっていないのに、理由だった。

葵は不意に笑いそうになって、堪えた。ここで笑ったら、たぶん、涙が一緒に出てしまう。

 

「……私、海が好き。怖い時もあるけど、好き」

 

「……知ってる」

 

また短い。

でも、知ってる、の一言は重い。葵の全部を見てきた人の言葉だった。

 

葵は彼の腕に額を当てたまま、声を落とす。

 

「ねえ、ハヤト。私達って……この世界でも、ずっと“異物”のままなのかな」

 

「……」

 

ハヤトが少しだけ息を吐いた。

葵はその変化を聞き逃さない。

 

「……異物だ」

 

「……うん」

 

「だが……ここは、選んでいる」

 

その言葉に、葵の胸が一瞬だけ痛む。

“選んでいる”という言葉が、まるで刃物みたいに正確だからだ。

 

「……私達だけが?」

 

「……違う」

 

ハヤトは海を見たまま言った。

 

「長門。白瀬。吹雪。……迷っている奴らもいる。だが、選んでいる」

 

葵は目を開けた。

ハヤトは誰かを庇うように言ったわけでもない。持ち上げたわけでもない。ただ、事実として言った。

 

「……選ぶって、苦しいよね」

 

「……そうだ」

 

葵は、息を吸って、吐く。

その呼吸で、胸の奥の熱を落ち着かせる。

 

「私もね。ずっと、選んできた。笑うことも、受け止めることも。怖いって言われても、大丈夫って言うことも」

 

「……」

 

「……本当はね、言いたくない日もある」

 

一瞬、静寂が厚くなる。

波の音すら遠く感じる。

 

葵は、言葉を続けるか迷って――それでも続けた。

 

「“大丈夫だよ”って言い続けるの、簡単じゃないんだよ。怖いって言われるたびに、私は……私の中の何かが、少しだけ削れていく」

 

葵の声が震えそうになって、ぎゅっと堪える。

泣かない。泣きたいわけじゃない。ここで泣いたら、今まで積み上げたものが壊れてしまう気がした。

 

でも、壊れるのが怖いという気持ちも、葵は否定しない。

 

「……それでも、笑う」

 

ハヤトが言った。

葵の言葉を、奪わない。上書きしない。ただ、続きの答えを、短く置く。

 

「……うん」

 

「……お前が笑うと、ここは保つ」

 

葵は苦く笑った。

 

「それ、私が頑張らなきゃいけないってこと?」

 

「……違う」

 

ハヤトの声が、少しだけ低くなる。

葵は気づく。ここで彼は、言葉を選んでいる。短い言葉の中で、選んでいる。

 

「……俺がいる」

 

葵はその言葉に、思わず指先に力を入れた。

彼の腕を抱く手が、少しだけ強く締まる。

 

「……うん。いる。いつも、いる」

 

「……だから、無理をするな」

 

葵は首を振る。

 

「無理、してないよ」

 

そう言った瞬間、自分でも分かった。

――している。少しだけ。ほんの少しだけ。でも、確実に。

 

葵は息を吐いて、素直に言い直した。

 

「……無理してない、って言いたいだけかもしれない」

 

ハヤトは、そこで初めて葵を見た。

視線が合う。葵の目が揺れているのを、ハヤトはきっと見逃さない。

 

「……痛いか」

 

「え?」

 

「削れる、と言った」

 

葵は笑って首を振った。

泣きそうになりながら笑う、という器用なことをしてしまう。

 

「痛いっていうより……寂しい、かな」

 

「……」

 

「だって、私、怖がられるのは慣れてる。でも、理解されないのって……慣れない。何回経験しても」

 

ハヤトの目が、一瞬だけ、冷える。

海の暗さよりも深い冷え方だ。葵はその変化を知っている。何度も見た。

世界が壊れる直前の、あの目。

 

葵は反射的に、彼の腕を両手で包むように握った。

 

「……大丈夫。今は、まだ大丈夫」

 

「……」

 

ハヤトは言わない。

だが葵は分かる。ハヤトの中で、何かが“噛み合った”ことを。

 

葵は少しだけ視線を落とした。

 

「……ねえ、ハヤト。もし、また追われたらさ」

 

「……」

 

「私、逃げるよ。ちゃんと。走る。振り返らない」

 

「……そうしろ」

 

「でも……怖い。逃げることが怖いんじゃないよ。逃げてる途中で、あなたが――」

 

言葉が途中で止まる。

その先は、言わなくても分かる。ハヤトが止まらなくなる可能性。追撃に転じる可能性。線を越えた世界の帰結。

 

葵は一度、唇を噛んでから、言葉を拾い直す。

 

「……あなたが、ひとりで全部背負うのが怖い」

 

ハヤトは、少しだけ首を傾げた。

その仕草が、ほんの僅かに人間らしくて、葵は胸の奥が熱くなる。

 

「……背負う」

 

「うん」

 

「……お前は、背負うと言った」

 

「約束したから」

 

「……」

 

沈黙が長い。

葵は待つ。急かさない。言わせない。

言葉が短い人だからこそ、言葉の重さを知っている。

 

「……なら」

 

ハヤトが言った。

 

「……逃げる前に、俺を見るな」

 

葵は目を見開いた。

 

「え……」

 

「……お前が見ると、俺は止まる」

 

葵の喉が詰まる。

それは、嬉しい、では済まない言葉だった。

葵を見れば止まる。葵が見れば止まる。

つまり、葵の存在が、ハヤトを繋ぎ止める鎖であるということ。

それは愛でもあるが、同時に刃でもある。

 

葵は、震える息を吐いた。

 

「……うん。分かった」

 

「……だが」

 

ハヤトは続ける。

 

「……見たら、止まる。だから、見ていい」

 

葵は思わず笑ってしまった。

泣き笑いだ。最悪だと思いながら、でも止まらない。

 

「……なにそれ」

 

「……事実だ」

 

短い。冷たい。断定。

でも、そこには温度がある。ハヤトの温度。

 

葵は涙を指で拭って、海を見た。

夜の海は、何も言わない。

それでも、受け止めてくれている気がした。

 

「……ねえ、ハヤト。ここで暮らせる未来、あると思う?」

 

「……ある」

 

即答だった。

葵は驚いて、ハヤトを見る。

 

「そんなにすぐ言うの?」

 

「……お前がいる」

 

「またそれ」

 

「……それだけで十分だ」

 

葵は笑って、もう一度額を彼の腕に当てた。

硬い腕。強い腕。壊す腕。守る腕。

 

「……私ね、ここが好き。呉も。食堂も。鳳翔さんも。間宮さんも。明石さん達も。みんなも」

 

「……」

 

「だから、もし追われる未来が来ても……来てほしくないけど……その時は、ここが好きだったって、ちゃんと言いたい」

 

「……言わなくていい」

 

「え、なんで」

 

「……奪われる前提になる」

 

葵は息を呑んだ。

ハヤトは、その言い方で、未来を切り替えている。

奪われる前提を拒否する。

それは希望じゃない。戦いの姿勢だ。

 

葵は小さく笑って言った。

 

「……うん。じゃあ、言わない」

 

「……」

 

「言わない代わりにさ」

 

葵は顔を上げて、海ではなく、ハヤトを見た。

 

「ここを守るために、私も選ぶよ」

 

ハヤトの目が、わずかに細くなる。

それは、彼なりの肯定だ。

 

「……お前はもう、選んでいる」

 

葵はその言葉に、胸の奥の痛みが少しだけやわらぐのを感じた。

 

「……ねえ。私達、変だよね」

 

「……そうだ」

 

「ここが怖いのに、ここが好きで」

 

「……矛盾ではない」

 

「拒絶されるかもしれないのに、居たいって思って」

 

「……当然だ」

 

「……当然、なんだ」

 

葵は笑った。

ハヤトは無表情だ。

でも、葵には分かる。ハヤトは今、ほんの少しだけ、安心している。

 

夜風が強くなって、二人の影が揺れた。

遠くで艦娘達の声がする。訓練を終えた誰かの笑い声。誰かが叱る声。金属音。足音。

それらはここまで届かないのに、確かに“生きている”音だった。

 

葵はその音に耳を傾けながら、最後に言った。

 

「……もし、いつか。ここでまた誰かが私達を拒絶しても」

 

「……」

 

「私は、怒らない。否定しない。怖いって思う気持ちも、拒絶する気持ちも、分かるから」

 

「……」

 

「でも――」

 

葵の声が、少しだけ低くなる。

彼女の中にある“真剣”が滲む。

 

「私が傷つけられたら。私の大切な人が傷つけられたら……その時は、違う」

 

ハヤトが、僅かに葵を見る。

葵は目を逸らさない。

 

「線を越えたら……終わる」

 

波の音が、そこで一段階、重く聞こえた。

葵は言葉を続ける。

 

「……私、知ってるから」

 

その一言に、空気が変わる。

葵の言う“知ってる”は、想像じゃない。

過去の事実。血と火と、叫びと、黒炎の記憶。

 

ハヤトの目が――底の色を失う。

無機質以上に無機質。

葵と、冥焔連しか知らない目。

 

葵は静かに告げた。

 

「世界が黒く、赤く焼き尽くされる光景を……皆さんは見たいですか」

 

ハヤトは何も言わない。

葵は海を見たまま、ゆっくり言葉を落とす。

 

「長門さん、初めて会った時……ハヤトが焼き尽くしたの、見たんですよね。あれでも、皆さんは十分怖かったと思う」

 

葵は一拍置く。

 

「でも、越えたら――あんなの、子供騙しです」

 

風が、堤防の端を鳴らした。

葵は続ける。

 

「だって……世界を焼き尽くすんだから」

 

その言葉は、脅しじゃない。

淡々とした事実の共有だった。

葵はそれを理解している。だからこそ、表情は変わらない。怒っていない。笑ってもいない。ただ、真剣だ。

 

葵は最後に、静かに言った。

 

「だから……お願い」

 

「もし、万が一。その“線”が越えられることが起きたら――」

 

「逃げてください」

 

「振り返らずに」

 

「生きて帰ることだけ考えて」

 

「守れなければ……死にます」

 

葵は、そう言い切った。

 

長い沈黙が降りた。

海は変わらず、波を寄せては返す。

世界はまだ、ここにある。

 

ハヤトが、ようやく口を開いた。

 

「……起きないようにする」

 

「うん」

 

「……起きても」

 

葵の指先が、僅かに震えた。

 

「……俺は、お前を守る」

 

葵は息を吐いて、頷いた。

その言葉は救いであり、同時に災厄の鍵でもある。

葵は両方を知っている。だから、ただ頷く。

 

「……ありがとう」

 

二人はしばらく海を見ていた。

夜が深くなる。

 

やがて葵が、小さく言った。

 

「そろそろ戻ろうか。明日も、いつも通りにしなきゃ」

 

「……そうだな」

 

葵は立ち上がり、砂を払う。

ハヤトも立ち上がる。音がしない。足音がしない。

それでも葵は、その静けさを怖いとは思わない。怖いと感じる時がある自分を、否定しないだけだ。

 

帰り道、堤防から宿舎へ続く廊下の明かりが、二人の影を引き伸ばす。

葵は手を伸ばして、ハヤトの手を握る。

 

「……ハヤト」

 

「……」

 

「ねえ。もしさ」

 

「……」

 

「もし、この世界で、私達が家族って呼べるものが増えたら――それって、すごいことだよね」

 

ハヤトは少しだけ考えて、言った。

 

「……増えるなら、守る」

 

葵は笑った。

 

「うん。増えるなら、守ろうね」

 

「……ああ」

 

短い答え。

でも、それで十分だった。

 

二人の背中は、宿舎の角を曲がって、灯りの中へ消えていく。

夜の海は、何も言わないまま、ただ静かに波を返していた。

 

――明日も、選択が続く。

恐怖の中で。

それでも、共に在るために。

 

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