葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜の海は、昼とは別の顔をしていた。
音が少ない。波の砕ける音と、風の擦れる音だけが、遅れて耳に届く。遠くの灯りが水面に滲み、揺れて、ほどけて、また繋がっていく。――同じことを繰り返しているようで、同じ形には二度と戻らない。
呉鎮守府の端、艦娘達の出入りが少ない外れの堤防。
そこに二つの影が並んでいた。
ひとつは、黒いコートを纏った男。
背筋を伸ばして、動かない。波のリズムにすら合わせない静けさで、海の向こうを見ている。
もうひとつは、白い羽織を肩に掛けた少女。
海風に髪が揺れるたび、その頬が少し冷えていく。冷えを誤魔化すみたいに、彼女は腕を回した。その腕が抱く相手の腕は、硬い。温度も感触も、人のそれとは違う――それでも、ここにいる。
「……寒い?」
男が先に言った。
声は低く、短い。問いかけの形なのに、確認に近い。
少女――葵は小さく笑って首を振る。
「ううん。大丈夫。ハヤトの方が寒いでしょ?」
「……俺は平気だ」
それ以上は言わない。
平気だ、で終わる。そういう人だ。
葵は海を見たまま、少しだけ体重を預けた。
肩が触れる。触れたまま、離れない距離。そっと、額を彼の腕に当てる。硬い感触に、安心する自分がいるのが分かって、葵は息を吐いた。
笑っていない。泣いてもいない。
ただ、静かだった。
「……ねえ、ハヤト」
「……」
返事はない。けれど、聞いている。
それが分かるから、葵は続ける。
「ここに来て……長門さん達と出会って……白瀬さんも……みんなも、少しずつ変わってくれてる。分かってるよ。ほんとに、分かってる」
海風が強くなって、髪が視界を遮る。葵は手で払って、また海を見る。
「でもね……私、たまに怖くなる」
その言葉は、自分自身に落とすみたいに小さかった。
ハヤトは何も言わない。
それが、葵にはありがたかった。慰めも励ましも、今は違う。
「もし……もし、このまま理解されなかったら」
波の音が一瞬、大きくなる。
葵の声はその上を滑るように続いた。
「……また、否定されて。拒絶されて。追われる身になったら。ここを出なきゃいけなくなったら……私達、どこに行こうかって」
葵は言い終えてから、少しだけ眉を寄せた。
“出なきゃいけない”という言い方が、自分の中で既に現実に寄りかかっていることに気づいたからだ。
ハヤトの視線が、海から僅かに動いた。
葵の髪の流れ、指先、肩の位置――そういう細部を一度だけ見て、また海へ戻す。
「……行く場所はある」
「うん」
「人が少ないところ」
「うん」
「港じゃないところ」
「……うん」
葵は目を閉じた。
具体的な言葉が、胸に落ちる。
夢や希望じゃない。“生活”の話だ。逃避でも悲劇でもない。現実の選択肢。そうやって言えるのが、ハヤトだ。
「山の方……とか?」
「……海が見える場所」
「え、海がいいの?」
「……お前が海を見る」
「……」
それは、理由になっていないのに、理由だった。
葵は不意に笑いそうになって、堪えた。ここで笑ったら、たぶん、涙が一緒に出てしまう。
「……私、海が好き。怖い時もあるけど、好き」
「……知ってる」
また短い。
でも、知ってる、の一言は重い。葵の全部を見てきた人の言葉だった。
葵は彼の腕に額を当てたまま、声を落とす。
「ねえ、ハヤト。私達って……この世界でも、ずっと“異物”のままなのかな」
「……」
ハヤトが少しだけ息を吐いた。
葵はその変化を聞き逃さない。
「……異物だ」
「……うん」
「だが……ここは、選んでいる」
その言葉に、葵の胸が一瞬だけ痛む。
“選んでいる”という言葉が、まるで刃物みたいに正確だからだ。
「……私達だけが?」
「……違う」
ハヤトは海を見たまま言った。
「長門。白瀬。吹雪。……迷っている奴らもいる。だが、選んでいる」
葵は目を開けた。
ハヤトは誰かを庇うように言ったわけでもない。持ち上げたわけでもない。ただ、事実として言った。
「……選ぶって、苦しいよね」
「……そうだ」
葵は、息を吸って、吐く。
その呼吸で、胸の奥の熱を落ち着かせる。
「私もね。ずっと、選んできた。笑うことも、受け止めることも。怖いって言われても、大丈夫って言うことも」
「……」
「……本当はね、言いたくない日もある」
一瞬、静寂が厚くなる。
波の音すら遠く感じる。
葵は、言葉を続けるか迷って――それでも続けた。
「“大丈夫だよ”って言い続けるの、簡単じゃないんだよ。怖いって言われるたびに、私は……私の中の何かが、少しだけ削れていく」
葵の声が震えそうになって、ぎゅっと堪える。
泣かない。泣きたいわけじゃない。ここで泣いたら、今まで積み上げたものが壊れてしまう気がした。
でも、壊れるのが怖いという気持ちも、葵は否定しない。
「……それでも、笑う」
ハヤトが言った。
葵の言葉を、奪わない。上書きしない。ただ、続きの答えを、短く置く。
「……うん」
「……お前が笑うと、ここは保つ」
葵は苦く笑った。
「それ、私が頑張らなきゃいけないってこと?」
「……違う」
ハヤトの声が、少しだけ低くなる。
葵は気づく。ここで彼は、言葉を選んでいる。短い言葉の中で、選んでいる。
「……俺がいる」
葵はその言葉に、思わず指先に力を入れた。
彼の腕を抱く手が、少しだけ強く締まる。
「……うん。いる。いつも、いる」
「……だから、無理をするな」
葵は首を振る。
「無理、してないよ」
そう言った瞬間、自分でも分かった。
――している。少しだけ。ほんの少しだけ。でも、確実に。
葵は息を吐いて、素直に言い直した。
「……無理してない、って言いたいだけかもしれない」
ハヤトは、そこで初めて葵を見た。
視線が合う。葵の目が揺れているのを、ハヤトはきっと見逃さない。
「……痛いか」
「え?」
「削れる、と言った」
葵は笑って首を振った。
泣きそうになりながら笑う、という器用なことをしてしまう。
「痛いっていうより……寂しい、かな」
「……」
「だって、私、怖がられるのは慣れてる。でも、理解されないのって……慣れない。何回経験しても」
ハヤトの目が、一瞬だけ、冷える。
海の暗さよりも深い冷え方だ。葵はその変化を知っている。何度も見た。
世界が壊れる直前の、あの目。
葵は反射的に、彼の腕を両手で包むように握った。
「……大丈夫。今は、まだ大丈夫」
「……」
ハヤトは言わない。
だが葵は分かる。ハヤトの中で、何かが“噛み合った”ことを。
葵は少しだけ視線を落とした。
「……ねえ、ハヤト。もし、また追われたらさ」
「……」
「私、逃げるよ。ちゃんと。走る。振り返らない」
「……そうしろ」
「でも……怖い。逃げることが怖いんじゃないよ。逃げてる途中で、あなたが――」
言葉が途中で止まる。
その先は、言わなくても分かる。ハヤトが止まらなくなる可能性。追撃に転じる可能性。線を越えた世界の帰結。
葵は一度、唇を噛んでから、言葉を拾い直す。
「……あなたが、ひとりで全部背負うのが怖い」
ハヤトは、少しだけ首を傾げた。
その仕草が、ほんの僅かに人間らしくて、葵は胸の奥が熱くなる。
「……背負う」
「うん」
「……お前は、背負うと言った」
「約束したから」
「……」
沈黙が長い。
葵は待つ。急かさない。言わせない。
言葉が短い人だからこそ、言葉の重さを知っている。
「……なら」
ハヤトが言った。
「……逃げる前に、俺を見るな」
葵は目を見開いた。
「え……」
「……お前が見ると、俺は止まる」
葵の喉が詰まる。
それは、嬉しい、では済まない言葉だった。
葵を見れば止まる。葵が見れば止まる。
つまり、葵の存在が、ハヤトを繋ぎ止める鎖であるということ。
それは愛でもあるが、同時に刃でもある。
葵は、震える息を吐いた。
「……うん。分かった」
「……だが」
ハヤトは続ける。
「……見たら、止まる。だから、見ていい」
葵は思わず笑ってしまった。
泣き笑いだ。最悪だと思いながら、でも止まらない。
「……なにそれ」
「……事実だ」
短い。冷たい。断定。
でも、そこには温度がある。ハヤトの温度。
葵は涙を指で拭って、海を見た。
夜の海は、何も言わない。
それでも、受け止めてくれている気がした。
「……ねえ、ハヤト。ここで暮らせる未来、あると思う?」
「……ある」
即答だった。
葵は驚いて、ハヤトを見る。
「そんなにすぐ言うの?」
「……お前がいる」
「またそれ」
「……それだけで十分だ」
葵は笑って、もう一度額を彼の腕に当てた。
硬い腕。強い腕。壊す腕。守る腕。
「……私ね、ここが好き。呉も。食堂も。鳳翔さんも。間宮さんも。明石さん達も。みんなも」
「……」
「だから、もし追われる未来が来ても……来てほしくないけど……その時は、ここが好きだったって、ちゃんと言いたい」
「……言わなくていい」
「え、なんで」
「……奪われる前提になる」
葵は息を呑んだ。
ハヤトは、その言い方で、未来を切り替えている。
奪われる前提を拒否する。
それは希望じゃない。戦いの姿勢だ。
葵は小さく笑って言った。
「……うん。じゃあ、言わない」
「……」
「言わない代わりにさ」
葵は顔を上げて、海ではなく、ハヤトを見た。
「ここを守るために、私も選ぶよ」
ハヤトの目が、わずかに細くなる。
それは、彼なりの肯定だ。
「……お前はもう、選んでいる」
葵はその言葉に、胸の奥の痛みが少しだけやわらぐのを感じた。
「……ねえ。私達、変だよね」
「……そうだ」
「ここが怖いのに、ここが好きで」
「……矛盾ではない」
「拒絶されるかもしれないのに、居たいって思って」
「……当然だ」
「……当然、なんだ」
葵は笑った。
ハヤトは無表情だ。
でも、葵には分かる。ハヤトは今、ほんの少しだけ、安心している。
夜風が強くなって、二人の影が揺れた。
遠くで艦娘達の声がする。訓練を終えた誰かの笑い声。誰かが叱る声。金属音。足音。
それらはここまで届かないのに、確かに“生きている”音だった。
葵はその音に耳を傾けながら、最後に言った。
「……もし、いつか。ここでまた誰かが私達を拒絶しても」
「……」
「私は、怒らない。否定しない。怖いって思う気持ちも、拒絶する気持ちも、分かるから」
「……」
「でも――」
葵の声が、少しだけ低くなる。
彼女の中にある“真剣”が滲む。
「私が傷つけられたら。私の大切な人が傷つけられたら……その時は、違う」
ハヤトが、僅かに葵を見る。
葵は目を逸らさない。
「線を越えたら……終わる」
波の音が、そこで一段階、重く聞こえた。
葵は言葉を続ける。
「……私、知ってるから」
その一言に、空気が変わる。
葵の言う“知ってる”は、想像じゃない。
過去の事実。血と火と、叫びと、黒炎の記憶。
ハヤトの目が――底の色を失う。
無機質以上に無機質。
葵と、冥焔連しか知らない目。
葵は静かに告げた。
「世界が黒く、赤く焼き尽くされる光景を……皆さんは見たいですか」
ハヤトは何も言わない。
葵は海を見たまま、ゆっくり言葉を落とす。
「長門さん、初めて会った時……ハヤトが焼き尽くしたの、見たんですよね。あれでも、皆さんは十分怖かったと思う」
葵は一拍置く。
「でも、越えたら――あんなの、子供騙しです」
風が、堤防の端を鳴らした。
葵は続ける。
「だって……世界を焼き尽くすんだから」
その言葉は、脅しじゃない。
淡々とした事実の共有だった。
葵はそれを理解している。だからこそ、表情は変わらない。怒っていない。笑ってもいない。ただ、真剣だ。
葵は最後に、静かに言った。
「だから……お願い」
「もし、万が一。その“線”が越えられることが起きたら――」
「逃げてください」
「振り返らずに」
「生きて帰ることだけ考えて」
「守れなければ……死にます」
葵は、そう言い切った。
長い沈黙が降りた。
海は変わらず、波を寄せては返す。
世界はまだ、ここにある。
ハヤトが、ようやく口を開いた。
「……起きないようにする」
「うん」
「……起きても」
葵の指先が、僅かに震えた。
「……俺は、お前を守る」
葵は息を吐いて、頷いた。
その言葉は救いであり、同時に災厄の鍵でもある。
葵は両方を知っている。だから、ただ頷く。
「……ありがとう」
二人はしばらく海を見ていた。
夜が深くなる。
やがて葵が、小さく言った。
「そろそろ戻ろうか。明日も、いつも通りにしなきゃ」
「……そうだな」
葵は立ち上がり、砂を払う。
ハヤトも立ち上がる。音がしない。足音がしない。
それでも葵は、その静けさを怖いとは思わない。怖いと感じる時がある自分を、否定しないだけだ。
帰り道、堤防から宿舎へ続く廊下の明かりが、二人の影を引き伸ばす。
葵は手を伸ばして、ハヤトの手を握る。
「……ハヤト」
「……」
「ねえ。もしさ」
「……」
「もし、この世界で、私達が家族って呼べるものが増えたら――それって、すごいことだよね」
ハヤトは少しだけ考えて、言った。
「……増えるなら、守る」
葵は笑った。
「うん。増えるなら、守ろうね」
「……ああ」
短い答え。
でも、それで十分だった。
二人の背中は、宿舎の角を曲がって、灯りの中へ消えていく。
夜の海は、何も言わないまま、ただ静かに波を返していた。
――明日も、選択が続く。
恐怖の中で。
それでも、共に在るために。