葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の呉鎮守府は、いつもと変わらなかった。
海から吹く風は穏やかで、
遠くで艦載機の整備音が規則正しく響き、
食堂からは朝食の匂いが漂ってくる。
――何も起きていない。
少なくとも、表面上は。
吹雪は廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
正面から歩いてくるのはハヤトと葵だった。
二人はいつも通りだった。
ハヤトは無表情のまま、視線を前に向けて歩き、
葵はその少し前を、穏やかな足取りで進んでいる。
変わったことがあるとすれば――
すれ違う艦娘達の反応だった。
「……おはようございます」
そう声をかけたのは、満潮だった。
一瞬ためらいがあったが、それでも視線を逸らさず、葵に向かって頭を下げる。
「おはよう、満潮ちゃん」
葵はいつも通り微笑んで返した。
無理をしているようには見えない。
だからこそ、余計に胸の奥がざわつく。
少し後ろでは、曙が腕を組んだまま立ち止まっていた。
「……ふん」
短く鼻を鳴らし、視線を逸らす。
何か言いたそうだったが、結局何も口にしない。
ハヤトは、そのやり取りを見ても何も言わない。
足取りも、呼吸も、変わらない。
選んだ者と、まだ選べない者。
同じ廊下に立ち、同じ朝を迎えながら、
その距離は目に見えないところで確かに存在していた。
⸻
食堂では、さらにその差がはっきりと現れていた。
赤城と加賀は、葵の前で自然に会話を交わしている。
「今日の味噌汁、少し出汁が変わった?」
「うん、今日は昆布多めにしてみたの」
「なるほど……これはこれで悪くないわね」
一方で、別の席ではひそひそと小声が交わされる。
「……あの人達、やっぱり平気なんだ」
「私はまだ……正直、怖い」
「でも、何もしないし……」
言葉は途中で止まり、視線は自然とハヤトの方へ向かう。
彼は壁際に立ち、全体を見渡す位置にいた。
圧はない。
殺気もない。
ただ、そこにいるだけ。
それが逆に、選べない者達の心をざわつかせる。
葵は、その空気に気づいていないわけではなかった。
だが、何も言わない。
否定もしない。
弁解もしない。
「怖くていい」
「分からなくていい」
その前提を、言葉にせず、態度で示し続けていた。
⸻
午前の警備交代。
ハヤトの周囲には、以前よりも声をかける艦娘が増えていた。
「……巡回、異常なかった?」
そう聞いたのは北上だった。
「ない」
短い返答。
それでも北上は気にした様子もなく、軽く頷く。
「そっか。じゃ、次こっち見てくるね」
去っていく背中を、ハヤトは追わない。
引き止めない。
距離を縮めようともしない。
その姿を、少し離れた場所から霞が見ていた。
「……やっぱり、分からない」
ぽつりと呟く。
「怖いままでもいいのかな、これ」
誰も答えなかった。
答えは、まだ出ていない。
⸻
午後。
工廠では、明石と夕張が忙しなく動いていた。
「簡易艤装のチェック、もう一回やるよ!」
「うん、念には念を」
ハヤトはその横で立ち、黙って待っている。
「……本当に、何も言わないよね」
夕張が小声で言う。
「うん。でも、それが一番信用できるって人もいるよ」
明石はそう言って、工具を置いた。
「『使え』って言われるまで、出ないってことだから」
その言葉の意味を、夕張は理解していた。
ハヤトは“待機”している。
命令がなければ動かない。
そして――
葵が安全な場所にいない限り、前に出ない。
それは抑制であり、線引きだった。
⸻
夕方。
鎮守府全体が、いつもより少しだけ静かだった。
誰もが、無意識のうちに「次」を待っている。
理由は分からない。
だが、何かが起きる予感だけが、共有されていた。
その時――
警報が鳴り響いた。
鋭く、容赦なく、鎮守府の空気を切り裂く音。
「――警報! 警報!」
一瞬で、全てが動き出す。
「深海棲艦艦隊、呉鎮守府方面へ侵攻中!」
「距離、急速に詰めています!」
喧騒。
命令。
足音。
選んだ者も、選べない者も、関係ない。
全員が同じ警報を聞き、同じ恐怖を共有する。
「出撃組、準備急いで!」
「後方支援、所定位置へ!」
「ドッグ待機組、展開を!」
大淀が走りながら指示を飛ばす。
その視線が、葵を捉えた。
「葵さん、こちらへ! 安全区画に移動します!」
「……分かりました」
葵は一瞬、工廠の方を見た。
ハヤトの姿が、そこにあることを確認する。
何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
それで十分だった。
⸻
工廠。
明石がハヤトに簡易艤装を装着する。
「いつでも行ける状態にしておくよ」
「……了解」
短い返答。
ハヤトは海の方を見ていた。
呼ばれれば行く。
呼ばれなければ、ここにいる。
それだけ。
⸻
サイレンは鳴り続けている。
鎮守府は、完全に戦時体制へ移行した。
誰もが理解している。
――ここから先は、選択の結果が問われる。
だが、まだこの時点では、
誰も知らなかった。
この侵攻が、
「彼を呼ぶかどうか」を問う最初の戦いになることを。