葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
警報が鳴り止まない。
呉鎮守府の空気は、たった数秒で“平時”から引き剥がされ、
鋼鉄の音と短い命令の連鎖に塗り替えられた。
「深海棲艦艦隊、呉鎮守府方面へ侵攻中!予想針路は南東、速度速い!」
大淀の声が執務室から廊下へ、廊下から食堂へと響き渡っていく。
椅子が引かれる音、食器が置かれる音、駆け出す足音。
「出撃組、各自配置へ!後方支援、弾薬と資材の搬送急げ!ドッグ待機組、修理準備!」
その声に反応するように、艦娘達が一斉に動いた。
誰かを置いていかない。
誰かに押し付けない。
それは、彼女達が海で培ってきた習慣であり、誇りでもあった。
⸻
作戦室――
大きな海図と通信機器の前に、白瀬提督と長門、大淀が並ぶ。
「数は?」
「現時点で二十強。旗艦級反応あり。さらに後方に影――増援の可能性が高いです!」
大淀が即答する。
長門は腕を組んだまま、海図上の針路を追った。
視線が鋭くなる。
「……呉の鼻先に突っ込む気か」
「挑発の可能性もあります。あるいは、こちらの戦力配置を測っているか」
白瀬提督は短く息を吐いた。
“測られている”という感覚が、舌の上に苦く残る。
「迎撃は通常通り。第一迎撃隊は?」
大淀が即座に通信を開く。
「赤城さん、加賀さん、瑞鶴さん、翔鶴さん。長門さん、金剛さん、榛名さん、霧島さん。重巡は摩耶さん、高雄さん、妙高さん。軽巡は神通さん、川内さん。駆逐は吹雪さん、潮さん、時雨さん、霞さん。……以上、出撃準備完了です!」
作戦室に、短い沈黙が落ちた。
艦娘の名前が並ぶ。
いつも通りの編成。
いつも通りの迎撃。
――なのに、いつもと違う。
白瀬提督の意識の端に、工廠の方向が浮かぶ。
そこにいる“待機者”。
ハヤト。
“出撃させる”という発想が、今まではそもそも存在しなかった。
だが今は、発想そのものが、重い。
長門も同じだった。
彼女は言葉にせず、視線だけで白瀬提督の迷いを感じ取っていた。
「……提督」
「分かっている。まだ呼ばない」
白瀬提督は答える。
自分に言い聞かせるように。
「まずは艦娘だけで迎撃する。これが鎮守府の戦だ」
「了解です」
大淀が頷く。
だが、長門は腕を組んだまま、声を低くした。
「……“まだ”だな」
白瀬提督は否定しなかった。
“まだ”という言葉は、保険でもあり、覚悟でもある。
⸻
外――
出撃準備の動線が一斉に走り始める。
「燃料、補給ライン確保!間宮さん、鳳翔さん、食料は後方へ!」
「了解です!おにぎり、まとめますね!」
鳳翔が穏やかな声で応じるが、その手は速い。
間宮も黙々と運ぶ。
「工廠、弾薬補充!明石さん、夕張さん!」
「りょーかい!こっちは任せて!」
明石は普段の明るさを崩さない。
夕張はメモを片手に、次々と確認する。
「弾薬の搬送先、第一ドック横!第二は空母甲板裏へ!」
工廠の周辺では、いつもなら雑談が飛ぶ。
だが今日は違う。
声は短く、必要な言葉だけ。
それが逆に、緊迫を増幅させていた。
⸻
大淀に誘導され、葵は鎮守府の奥へ向かう。
「葵さん、こちらです。……すみません、走れますか」
「大丈夫。ありがとう」
葵は微笑む。
足取りは速い。
だが、視線が一度だけ工廠へ向いた。
そこにいるのが分かるから。
“今は、呼ばれない”
それを理解していても、心のどこかが冷える。
廊下の角で、加賀とすれ違った。
「葵さん」
加賀は足を止めずに言う。
「安全区画へ。……必ず、戻ります」
その言葉は誓いだった。
葵は頷く。
「いってらっしゃい。……皆、無事で帰ってきてね」
加賀は一瞬だけ、視線を揺らした。
そして短く「はい」と返し、走り去る。
葵はその背中を見送る。
同時に、胸の奥で別の背中が浮かぶ。
ハヤト。
動かなければならない状況が、近づいている。
――それだけは避けたい。
避けられるなら。
⸻
工廠。
簡易艤装の収納棚の前で、ハヤトが立っている。
明石が手袋を直しながら、ちらりと見上げた。
「ねえ、ハヤトさん。……今日は、出る?」
「……呼ばれたら」
短い。
夕張が眉をひそめる。
「呼ばれたら、って……その前に、気配とか分からないの?」
「……分かる」
「なら!」
夕張が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
“なら出てくれ”と言いそうになったからだ。
命令系統を無視してはいけない。
そして何より、“彼”を勝手に前に出すのは、線が危うい。
明石が小さく息を吐く。
「……うん、そっか。分かるんだ」
ハヤトは海の方向を見ていた。
無表情。
だが、その目は“待っている”目ではない。
“測っている”目だった。
葵がここにいない。
だから動けない。
それが鎖になるのか、抑制になるのか。
明石にはまだ判断がつかなかった。
⸻
海へ向かう道で、艦娘達が短く声を交わす。
赤城が笑う。
いつもの笑いではない。
戦場へ向かう笑いだ。
「さあ、行きましょう。呉を守ります」
「当然よ」
加賀が返す。
瑞鶴が肩を回して、やたら大きな声を出した。
「よーし!久々に派手にやるわよ!翔鶴姉、置いてかないでよ!」
「ふふ、置いていかないわ」
翔鶴は優しく笑い、しかし目は鋭い。
金剛が拳を握る。
「Burning…!敵艦隊、来るなら来いネー!」
「金剛姉さま、熱くなるのはいいけど突っ込みすぎないで」
榛名が即座に釘を刺す。
「榛名は大丈夫です!」
霧島はいつも通り冷静に、通信機を確認していた。
その後ろで、吹雪が唇を噛む。
“いつも通り”
そう言い聞かせたい。
でも、今日は違う。
今日は――
鎮守府の中に“待機者”がいる。
その存在が、いつもより心臓の鼓動を大きくする。
⸻
海上。
艦隊が陣形を整え、迎撃線を張る。
「敵影、視認!距離、縮まっています!」
神通の声が風に乗る。
「赤城、艦載機発艦準備!」
「了解。加賀さん、行けますね?」
「問題ない」
赤城と加賀の航空隊が空へ上がる。
その瞬間、空気が変わった。
深海棲艦の砲撃。
海面が弾け、白い柱が立つ。
「回避!」
長門の声が響く。
「全艦、散開!砲撃戦に移行!」
金剛が笑った。
「Yeah!来たネー!」
その笑いは勇ましい。
だが、恐怖を押し潰すための笑いでもある。
摩耶が歯を見せる。
「対空はこっちの領域だっつーの。……来いよ」
高雄が短く息を吐き、妙高が通信を整える。
駆逐艦隊は前へ。
吹雪と潮、時雨、霞が隊列を保つ。
「吹雪、焦らないで。いつも通り」
潮が言う。
「うん……分かってる」
言いながら、吹雪の視線は一瞬だけ呉の方向へ飛ぶ。
“まだ、呼ばれていない”
それが何故か、安心と不安を同時に連れてくる。
⸻
戦闘は、序盤は優勢だった。
赤城と加賀の航空隊が敵前衛を削り、
長門の主砲が海を裂く。
「命中確認!」
「次弾装填!撃て!」
榛名と霧島が回避行動と火力のバランスを保つ。
金剛は勢い任せに見えるが、絶妙に前へ出すぎない。
――いつも通り。
いつも通り勝てる。
そう思いかけた時。
「……敵、後方に新たな影!」
神通の声がわずかに硬くなる。
「増援だ……!」
大淀からの通信が重なる。
『増援確認。数、追加で二十以上。旗艦級反応増。迎撃線、圧迫されます!』
海図上で、敵が“厚くなる”。
白瀬提督の指が机を叩いた。
「……想定より多い」
長門は言葉を削る。
「退ける。だが、時間がかかる」
作戦室に、沈黙が落ちる。
“時間がかかる”
それは被害が増える可能性を意味する。
白瀬提督は工廠の方向を見ないようにした。
見れば、考えてしまうからだ。
だが、考えずにいられない。
⸻
海上――
敵の増援が、圧となって押し寄せる。
「ちっ……数が多い!」
摩耶が舌打ちする。
瑞鶴の声が飛ぶ。
「赤城さん!こっち、航空隊の迎撃が追いつかない!」
「了解、隊列を再編します!」
赤城は冷静だ。
だが、冷静さは“余裕”とは違う。
加賀が短く言った。
「……こちらも手数が足りない」
その瞬間、吹雪の艦隊に砲撃が迫る。
「吹雪!」
時雨が叫び、潮が反射的に舵を切る。
海面が爆ぜた。
波が吹雪の頬を叩く。
――怖い。
それでも、動く。
動ける。
だが、脳裏に浮かぶ。
工廠のあの無表情。
短い返事。
“呼ばれたら”。
“呼ばれる”ということは、何を意味するのか。
恐怖が別の形で背中を這う。
⸻
作戦室で、大淀が報告を続ける。
「艦隊は持ちこたえています。ですが、損耗は増加傾向。弾薬消費、想定より早いです」
白瀬提督は顎に手を当てた。
「……被害は」
「軽微です。ただし、このまま押し切られると――」
言い切らなかった。
言う必要がないからだ。
白瀬提督は長門を見る。
長門は黙っている。
だが、その沈黙は“覚悟”を含んでいた。
「……呼ぶか?」
白瀬提督の声は低い。
長門は即答しない。
その代わり、短く言った。
「呼べば、勝てる」
「……」
「だが、勝ち方が変わる」
それが全てだった。
勝てる。
でも、勝ち方が変わる。
それはつまり、
鎮守府が“艦娘だけの戦”ではなくなるということ。
選択が、取り返しのつかない線を跨ぐ。
白瀬提督は目を閉じる。
そして、息を吐いた。
「……まだだ。もう一段、耐えさせる」
大淀が頷く。
「了解。現場へ伝達します」
長門は何も言わない。
だが、その目だけが言っていた。
――“まだ”は永遠ではない。
⸻
工廠。
海から響く砲声が、床を震わせる。
明石が小さく肩をすくめた。
「……音、近いね」
夕張が通信機を握り直す。
「戦線、押されてる……」
ハヤトは黙っている。
だが、ほんの少しだけ首が動いた。
海の方向。
風の向き。
砲声の間隔。
“測っている”目。
明石が唾を飲む。
「ねえ、ハヤトさん。もし呼ばれたら……何するの?」
「……退路を作る」
夕張が目を見開いた。
「退路?」
「……燃える。焼く。道を開ける」
短い。
具体的。
感情がない。
それが余計に怖かった。
“守る”ではない。
“救う”ではない。
“道を開ける”。
生き残らせるための、最短の答え。
夕張は言葉を探す。
「それって……相手を、全部……」
「……必要分だけ」
明石が小さく息を吐いた。
「最低限、ってやつ?」
「……そう」
ハヤトは言い切り、そこで口を閉じた。
“最低限”
その言葉が、何故か一番重い。
⸻
戦線は保たれていた。
だが、艦娘達の息は確実に荒くなる。
「……弾薬、残量注意!」
霧島が冷静に告げる。
「榛名、回避行動――!」
榛名が返す。
「榛名は大丈夫です!……でも、数が……!」
瑞鶴の声が跳ねる。
「くっ……!ほんと、しつこい!」
翔鶴が諭すように言う。
「瑞鶴、熱くならないで。今は持久戦よ」
加賀が淡々と告げる。
「敵は持久戦を仕掛けている。こちらの消耗を待っている」
赤城は短く笑った。
「……なら、消耗する前に削り切るだけです」
その声が、かすかに震えていたことに、誰も触れない。
⸻
作戦室。
大淀が報告する。
「前線、維持。ただし、敵旗艦級が前に出ました。突破の意思あり」
白瀬提督は目を閉じたまま、数秒黙った。
そして目を開く。
「……工廠へ」
長門が一瞬、目を細める。
「呼ぶのか」
白瀬提督は答えない。
答えられない。
大淀が息を呑む。
白瀬提督は言う。
「“準備”だけだ。出さない。まだ出さない」
その言葉は、誰のためのものか分からなかった。
艦娘のためか。
鎮守府のためか。
それとも、自分自身のためか。
⸻
工廠。
通信機が鳴る。
明石が取る。
「はい、工廠!……えっ、提督?……了解!」
受話器を置いた明石が、ハヤトを見る。
「提督が……準備しておいて、って」
夕張が息を止める。
ハヤトは、頷いた。
「……了解」
それだけ。
簡易艤装が手渡される。
装着作業が始まる。
金属音。
留め具の締まる音。
工具の短い衝突音。
その間、ハヤトは一度も海から目を逸らさなかった。
明石が言う。
「……もし出るなら、葵さんのところ……」
「……分かってる」
短い。
夕張が小さく言った。
「……怖い?」
ハヤトは一瞬だけ、夕張を見る。
「……怖いのは、お前達だ」
それだけ言って、また前を向いた。
明石と夕張は、何も返せなかった。
⸻
海から砲声が響く。
鎮守府の中で、誰もが同じことを思っていた。
――このまま終わらせたい。
――終わらなかったら、どうする。
そして、
工廠の扉が開く。
白瀬提督と長門が姿を現した。
ハヤトは立っていた。
簡易艤装は装着済み。
無表情。
白瀬提督は、言葉を選ぶように一度だけ息を吐き――
「ハヤトさん」
その名を呼んだ。
ハヤトは短く答えた。
「……命令か」
長門が、目を伏せる。
白瀬提督は、まだ言い切れない。
出せば、勝てる。
だが、勝ち方が変わる。
工廠の空気が、凍る。
そして――
遠くから、もう一段低い砲声が響いた。
前線が、崩れかけた音だ。
白瀬提督の喉が動く。
次の言葉が、鎮守府の未来を変える。