葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
鎮守府に戻った後も、
誰もすぐには口を開けなかった。
出撃帰りの甲板。
潮の匂いと、まだ熱の残る空気。
曙は手すりに掴まったまま、動けずにいた。
「……」
息は整っている。
怪我もない。
艤装も致命的な損傷はない。
それでも、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
⸻
「……曙」
満潮が、静かに声をかける。
「……なに」
「……無事、だよね」
確認するような声だった。
自分に言い聞かせるようでもあった。
「……うん」
曙はそう答えたが、
その声に自信はなかった。
無事。
確かに、結果だけ見ればそうだ。
でも――
⸻
「……ねえ、満潮」
「ん?」
「……あれさ……」
曙は言葉を探す。
「……怖かった?」
満潮は、一瞬だけ視線を逸らした。
「……怖かった」
即答だった。
「……正直、今までで一番」
曙は驚いた。
満潮が、そんなふうに言うのは珍しい。
「……私も」
小さく、曙は続ける。
「深海棲艦じゃなくて……」
言葉が、詰まる。
「……“あれ”が」
満潮は否定しなかった。
「……うん」
⸻
少し離れた場所で、
赤城と加賀は並んで立っていた。
赤城は空を見上げている。
いつもより、ずっと静かだった。
「……加賀」
「何?」
「……私は、間違っていたかもしれないわ」
加賀が、わずかに目を細める。
「何の話?」
「……ハヤトさん」
赤城は、はっきり名前を出した。
「……力の話じゃない。危険かどうかの話でもない」
一拍置いて、続ける。
「……“止まれるかどうか”の話」
加賀は黙って聞いている。
赤城は言葉を選びながら続けた。
「……あの状況で、彼は殲滅できた」
「……ええ」
「それでも、止めた」
「……そうね」
赤城は、ゆっくり振り返る。
「……あれは命令だったのかしら?」
加賀は即答しなかった。
少し考えてから、答える。
「……違うと思う」
「……どうして?」
「……彼自身の“線”」
赤城は、その言葉を反芻する。
「……線」
⸻
その時、
甲板の向こう側に、ハヤトの姿が見えた。
簡易艤装は外され、
いつもの黒いコートに戻っている。
葵はいない。
ただ、
一人で立って、海を見ていた。
赤城は、自然と歩き出していた。
⸻
「……ハヤトさん」
声をかけると、
彼はゆっくり振り向いた。
無表情。
だが、威圧はない。
「……何だ」
短い。
赤城は一瞬だけ迷い、
それでも、まっすぐ聞いた。
「……あの時、どうして攻撃を止めたの?」
沈黙。
風の音だけが流れる。
満潮と曙は、少し離れた場所で息を呑む。
加賀も、視線を向けた。
ハヤトは、赤城を見ている。
責められているとは思っていない。
問いを、問いとして受け取っている目だった。
「……役目は終わった」
それだけ。
赤城は眉をひそめる。
「……それだけ?」
「……それ以上は、必要なかった」
淡々とした声。
赤城は、思わず一歩踏み込む。
「……もし、あのまま続けていたら?」
「……全て消えていた」
即答だった。
ざわり、と空気が揺れる。
「……それは、私達にとって“安全”だったかもしれない」
赤城は続ける。
「……でも、あなたはやらなかった」
ハヤトは、少しだけ視線を落とした。
「……俺は、守ると決めたもの以外は、壊さない」
「……それが、“線”?」
赤城の問いに、
ハヤトは短く頷いた。
「……越えれば、戻れない」
その言葉は、重かった。
説明はない。
脅しでもない。
ただの事実として、置かれた。
⸻
赤城は、息を吸った。
「……怖いわ」
正直な言葉だった。
「……あなたは、とても怖い」
ハヤトは否定しない。
「……分かっている」
赤城は、それでも目を逸らさなかった。
「……でも」
一拍。
「……止まったあなたを見て、少しだけ……安心した」
その言葉に、
周囲の空気が、わずかに緩む。
ハヤトは、何も言わない。
ただ、ほんの僅か――
目を伏せた。
⸻
満潮が、ぽつりと呟く。
「……止まれる怪物、か」
曙は、それを聞いて苦笑する。
「……皮肉ね」
加賀は静かに言った。
「……だからこそ、余計に怖いのよ」
誰も、それを否定しなかった。
⸻
赤城は、最後に言った。
「……私達は、まだ選びきれてない」
「……それでいい」
ハヤトは答える。
「……選べ」
命令ではなかった。
強制でもなかった。
ただ、
待つという選択。
⸻
ハヤトは再び海へ視線を戻す。
赤城達は、その背中を見ていた。
救われた事実。
消えない恐怖。
そして――
それでも、目を逸らせなくなった存在。
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――選択の責任
通信室は静まり返っていた。
遮音処理された壁。
低く唸る機材音。
卓上に設置されたモニターが、ゆっくりと起動する。
白瀬提督は、背筋を伸ばしたまま敬礼した。
「呉鎮守府司令、白瀬。
本日の深海棲艦襲撃に関する報告を行います」
画面の向こうに映るのは、
日本海軍・司令長官。
「……始めてくれ」
声は落ち着いている。
だが、事前に届いている速報を考えれば、
この報告が“軽いものではない”ことは明らかだった。
⸻
「本日〇時〇分、
呉鎮守府近海において深海棲艦小規模艦隊を確認」
白瀬は、淡々と続ける。
「編成は重巡級を主軸に、軽巡・駆逐相当を含む混成。
明確な進軍意図を持ち、鎮守府正面海域へ侵攻」
司令長官は頷いた。
「迎撃は?」
「第一次迎撃として、
赤城、加賀を中心とした航空隊を展開。
曙、満潮、北上、大井を含む随伴艦がこれを支援」
「……だが包囲された、と」
「はい」
白瀬は一瞬、言葉を選ぶ。
「敵は意図的に戦線を引き延ばし、
航空隊の再編成タイミングを狙って包囲網を形成しました」
「……巧妙だな」
「ええ。
その時点で、当該艦娘6名は撤退困難な状況に陥りました」
⸻
司令長官は、しばし沈黙した後、問いを投げる。
「……そこで“彼”を動かしたのだな」
白瀬は、否定しない。
「はい」
一拍。
「ハヤトを、救出支援として投入しました」
室内の空気が、わずかに重くなる。
⸻
「理由を聞こう」
司令長官の声は、責めるものではない。
だが、甘くもない。
白瀬は、真っ直ぐ答えた。
「第一に、時間です」
「ほう」
「航空隊再編成には最低でも数分。
その間、包囲を維持された場合、
損耗、あるいは轟沈の可能性がありました」
「……通常戦力では間に合わなかった、と」
「はい」
白瀬は続ける。
「第二に、投入規模を最小限に抑える必要がありました」
「説明を」
「大規模戦力を追加投入すれば、
敵主力を刺激し、さらなる増援を呼ぶ恐れがあった」
司令長官は、ゆっくりと頷く。
「……つまり」
「一点突破による退路確保。
殲滅ではなく、“救出”を最優先とする判断です」
⸻
司令長官は、そこで一つ、核心を突く。
「……彼は、殲滅できたはずだな?」
白瀬は、はっきり答えた。
「はい」
「それでも?」
「……それでも、止まりました」
司令長官の眉が、わずかに動く。
「命令か?」
「いいえ」
白瀬は首を横に振る。
「現場判断です。
彼自身の」
⸻
「……危険だと思わなかったか?」
その問いは、重い。
白瀬は一度、息を吸った。
「正直に申し上げます」
「構わん」
「恐怖は、あります」
即答だった。
「彼は、明らかに通常の戦力ではありません。
制御を誤れば、被害は計り知れない」
「……だが動かした」
「はい」
白瀬は、視線を逸らさずに言う。
「なぜなら――
彼は、“線を越えなかった”」
司令長官は黙って聞いている。
「敵を消し飛ばす力がありながら、
彼は撤退路を焼き払い、制圧射撃に留めた」
「……救出を優先した、と」
「はい」
⸻
「……評価は?」
司令長官の問いに、白瀬は即答しなかった。
だが、やがて言葉を選び、告げる。
「危険な存在です」
一拍。
「しかし、
“ただの怪物”ではありません」
「理由を」
「彼は選びました」
白瀬の声に、迷いはなかった。
「殲滅ではなく、救出を。
勝利ではなく、帰還を」
司令長官は、静かに目を閉じる。
⸻
「……君は、責任を取る覚悟はあるか?」
「あります」
即答だった。
「今回の判断が誤りであれば、
全て私の責任です」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて司令長官は、低く言った。
「……記録は極秘扱いとする」
白瀬は、僅かに息を吐く。
「引き続き、観察を続けろ」
「了解しました」
「だが忘れるな」
司令長官の声が、少しだけ厳しくなる。
「“止まれる”という事実は、
同時に“越えた時の危険”も示している」
「……承知しております」
「線を越えさせるな」
「はい」
⸻
通信が切れる。
モニターが暗転する。
白瀬提督は、しばらくその場に立ったまま動かなかった。
守れた。
だが、何も終わっていない。
選んだ。
だが、答えはまだ出ていない。
それでも――
「……それでも、俺は同じ判断をするだろうな」
独り言のように呟き、
白瀬はゆっくりと席を立った。