葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
鎮守府防衛戦から一夜が明けた。
大きな損害は出なかった。
誰も欠けなかった。
それは事実だ。
だが、鎮守府の空気は、確実に変わっていた。
⸻
朝の廊下。
警備の交代時間。
いつもなら雑談が飛び交うはずの時間帯に、今日は微妙な間がある。
そこに――
ハヤトが立っていた。
いつも通り、無表情。
いつも通り、腕を組み、壁際に立つ姿。
変わっていない。
だが、周囲が変わっていた。
⸻
最初に足を止めたのは、駆逐艦だった。
「……」
曙が、少しだけ距離を取ったまま立ち止まる。
視線が合う。
ハヤトは何も言わない。
曙は一瞬、唇を噛み――
それでも、顔を上げた。
「……あの時」
声が少し震えている。
「赤城さん達、助けたの……あんたでしょ」
沈黙。
ハヤトは、ただ曙を見る。
「……」
「べ、別に感謝してるわけじゃないから!」
早口になる。
「でも……死ななかったのは事実だし……」
言葉が続かない。
「……その……」
一歩、踏み出す。
「……ありがと」
小さな声だった。
だが、はっきりと届く。
ハヤトは、少しだけ視線を伏せた。
「……任務だ」
短い返答。
それ以上は言わない。
曙は一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そう」
そう言って、足早に去っていく。
背中はまだ強張っていたが、
逃げるようではなかった。
⸻
その様子を、満潮が見ていた。
「……曙」
「なによ」
「ちゃんと言えたじゃない」
「……うるさい」
だが満潮は、ハヤトの方を見る。
「……あの時さ」
視線は外したまま。
「……包囲、焼き払ってくれたでしょ」
「……」
「正直、怖かった」
正直な声だった。
「でも……あれがなかったら、私達……」
言葉を切り、深呼吸。
「……助かった。ありがとう」
満潮は頭を下げた。
深くはない。
だが、逃げない姿勢だった。
ハヤトは、黙ったまま。
やがて、ほんのわずかに頷く。
「……生きて帰った。それでいい」
満潮は、目を見開いた。
「……それだけ?」
「それ以上はいらない」
満潮は一瞬、何か言いかけて――
結局、何も言わずに背を向けた。
だがその歩き方は、昨日より軽かった。
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少し離れた場所で、北上と大井が様子を見ていた。
「……北上さん」
「んー?」
「怖くないんですか」
北上は顎に指を当てる。
「怖いよ〜?」
即答だった。
「普通に」
大井は驚く。
「でもさ」
北上は続ける。
「怖いからって、見なかったことにするのも違うでしょ」
「……」
「止まったんだよ、あの人」
「……」
「止まれる人は、完全には壊れてない」
北上は、ふっと笑った。
「少なくとも、私はそう思うかな〜」
大井は少し考え――
ハヤトの方を見る。
目が合う。
心臓が跳ねる。
それでも、大井は一歩前に出た。
「……あの」
声が硬い。
「……北上さんを、守ってくれて……ありがとう」
ハヤトは首を横に振る。
「……任務の範囲だ」
「……それでも」
大井は深く頭を下げた。
北上は、その背中を軽く叩く。
「はいはい、行こ行こ」
二人は去っていく。
⸻
空母甲板では、赤城と加賀が並んでいた。
「……」
赤城は、ハヤトを遠くから見ていた。
「赤城」
「……はい」
「どう思いますか」
加賀の問いに、赤城は少し考える。
「……怖いです」
素直な答えだった。
「でも……」
視線を逸らさず続ける。
「……あの時、攻撃を止めた理由が、分かってしまった気がします」
「……」
「勝てたのに、勝たなかった」
赤城は静かに息を吐く。
「……それは、信頼とは違います」
「……」
「でも……無視できない事実です」
加賀は、わずかに頷いた。
「……私も、同意見です」
二人は、ハヤトの方へ歩く。
距離はまだある。
だが、止まらない。
赤城が口を開く。
「……あの時」
ハヤトは振り向く。
「撤退路を確保してくれて、ありがとうございました」
一瞬、空気が張る。
「……感謝しています」
赤城は、深く頭を下げた。
加賀も、続く。
「……同様です」
ハヤトは、静かに二人を見る。
「……判断しただけだ」
「それでもです」
赤城は顔を上げた。
「……ありがとうございました」
ハヤトは、わずかに目を伏せる。
「……無事で良かった」
それだけだった。
だが、その一言に、二人は確かな何かを感じ取った。
⸻
夕方。
食堂では、いつもより静かなざわめきがあった。
葵が配膳をしている。
艦娘達の視線は、時折ハヤトに向く。
恐怖。
警戒。
だが――感謝も、確かに混じっている。
「……声、増えたね」
潮が小声で吹雪に囁く。
「……うん」
吹雪は頷く。
「まだ、全員じゃない」
「……でも」
「選ぶ人は、増えてる」
吹雪の言葉に、潮は静かに頷いた。
⸻
ハヤトは、相変わらず多くを語らない。
立ち位置も変わらない。
態度も変わらない。
だが――
声をかける者が、増えていた。
距離を詰める者が、少しずつ増えていた。
誰も宣言しない。
誰も強制しない。
それでも、鎮守府は気づき始めていた。
恐怖と共に在る選択が、
確かに存在することを。
⸻
その様子を、白瀬提督は遠くから見ていた。
「……始まったな」
長門が隣に立つ。
「はい」
「答えは出ていない」
「ええ」
白瀬は、静かに言った。
「だが――選ぶ者が増えるということは、
それだけ“共に在る未来”を考え始めたということだ」
長門は腕を組み、前を見つめる。
「……恐怖が消えたわけではない」
「消える必要はありません」
白瀬は答える。
「恐怖を抱いたまま、それでも前に立つ」
「……それが、軍人だな」
「ええ」
二人は、何も言わずにその光景を見守った。
⸻
ハヤトは、今日も無表情のまま立っている。
だが――
彼の周囲は、確実に変わり始めていた。
それは歓待ではない。
許しでもない。
選択だった。
そしてその選択は、
静かに、しかし確実に、鎮守府に広がり始めていた。