葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
翌日、朝の空気はいつも通りだった。
朝日が差し込む廊下、足音、笑い声、いつもの鎮守府。
でも…廊下に設置された当番表を見た時…
ーいつも通り、ではなかったー
警備担当:長門、扶桑、山城、川内、神通、潮、吹雪
警備初日:ハヤト
そこに「ハヤト」と書かれた木札が掛けられていた。
その名前を見て、震えてしまう。
“人間を喰べる“
“怪物“
“喰種“
でも…昨日の食堂での光景を思い出す。
葵の前に立ち、恐怖と拒絶を自分に集める言動。
だがそれ以上に残っているのが…
ー葵を恐怖の対象にすることは否定するー
ー…それだけは、やめてくれー
あの言葉がずっと残ってる。
私達がハヤトさんに対して恐怖を抱くこと、理解出来ないと拒絶することは否定しない。
でも葵さんは恐怖の対象では無い、守る対象だと言い切った。
「…本当に、怪物なのかな…」
無意識に呟く。
直後、後ろから声をかけられてハッとする。
振り向くと潮が「おはよう吹雪ちゃん!」といつものように挨拶してきた。
そして当番表を見て、「あ…」と表情が曇る。
「今日から、だったね…吹雪ちゃん、大丈夫?」
「…正直、分からない。ただ、何もなければいいなって思ってる…」
「…そうだね。吹雪ちゃん、無理はしないでね。」
「うん、ありがとう。じゃあ、行ってくるね。」
そう言って集合場所に走って行った。
集合場所の鎮守府入口には既に他の面々が揃っていた。
そこにはハヤトの姿も。無表情で腕を組んで立ち、黒いコートの裾が風に少し靡いている。
相変わらずそこにいるだけで圧が違う。
他の面々も距離を空けて立っていた。自然とそうなってしまったんだと思った。
慌てて列に並ぶと長門が説明を始める。
「では本日の巡回ルートを伝える。鎮守府正門から壁沿いに進んで倉庫側へ、そこからグランド横の通路を通って海上側に異常がないか目視で確認。その後、ドッグ周辺とドッグ内を通り、外通路を通って食堂へ戻るルートだ。倉庫側はどうしても視界が悪い。監視カメラを設置しているが死角もある。要確認だ。何かあれば、即連絡するように。ハヤト殿は私と吹雪、神通の班だ。本日から宜しく頼む。2班のリーダーは山城、何かあれば連絡を頼む。では、始めよう。」
「……了解した」
短い返事。相変わらずだ。
そう思いながら巡回ルートへ向けて歩き出した。
2班は先程のルートを逆から回るルートだ。
私達1班はまず鎮守府正門へ、そこから壁沿いに歩く。
ルート通り、いつも通りだ。陽の光、爽やかな風、潮の匂い、どれもいつも通り。
「何も起きない。今は…でも…」そう思ってしまう。
倉庫側へ向かう途中、あることに気づいた。
長門と神通が前を、その後ろを吹雪とハヤトが歩いている。
足音が聞こえる。でも、隣を見る。
「………(嘘、どうして…)」
隣を歩くハヤトから聞こえるはずの足音が“聞こえない”
姿勢は背筋を伸ばし、腕を組んだまま無表情で歩いている。
なのに足音が全く聞こえない。
他にもいつもと違うことが起きていた。
倉庫正面は岸にぶつかる波の音、カモメの鳴き声、風の音がよく聞こえる。
でも、それらがいつになく鮮明に聞こえる。周囲が静まり返っていることに気づいた。
それら以外の音が消えたような、鳴りを潜めたような。
「……(なんだろう、この感じ…)」
「…正面は問題無し。吹雪とハヤト殿は倉庫内を、私と神通は裏側を見てくる。」
「は、はい!了解しました!」
ハヤトと2人で倉庫内に入り、積み上げられた箱を見上げる。
箱と箱の間の通路を2人で歩く。やはり足音は自分1人しかない。
前を歩くハヤトに声をかけようとした瞬間、吹雪は歩みを止めた。
そして、勢いよく通路の角、箱の奥側に視線を向ける。
箱の影が伸びている。その影の一部がやけに濃いような、少しだけ形を帯びているように見えた。
心臓の鼓動が早くなる、ゴクリと喉を鳴らし、息を浅く吐く。
少し足が震える。目が離せない。
「……………」
そこにスッとハヤトが半歩前に出る。
音も無く、いつに間にか前に出ていたことにも驚くが、ハヤトが前に立つと安心していた自分にも驚きだった。その間ハヤトは何も言わない。ただそこをジッと見ているだけ。
「………」
ハヤトは何も言わず踵を返して倉庫入口へ歩き始めた。
何もしていない。でも不思議なことに先程までの違和感は消えていた。
本当に何もしていない。半歩前に立っただけ。それで違和感は消えた。
吹雪はふう…と息を吐いてハヤトの後ろを歩く。
振り返る。そこにはもう何も感じなかった。
長門達と合流して再び巡回ルートを歩く。
やはり周辺の音が遠くに聞こえる。
波の音とカモメの鳴き声、海から吹く風の音、それらだけが異様に鮮明に聞こえる。
先の倉庫内の違和感を含めて、それ以外はいつも通りだった。
途中、洗濯場の近くを通った。
そこには鳳翔と間宮と一緒に洗濯物を干す葵がいた。
2人と何やら話しながら笑っている。無理はしていない。
昨日の表情を見ていたから心配だった。大丈夫…でも、本当はどうなんだろうと思った。
そこに他の艦娘が数人やってきて葵に声をかけていた。
表情は少し固い。話してるけど、離れていてもぎこちなさを感じる。
その間も葵は笑ったり、頷いたり…無理してる感じはしない。
そしてこちらに気づいて、微笑みながら手を振った。
隣を歩くハヤトも葵を見て、少しだけ頬を緩めていた。そして小さく頷く。
「……(ハヤトさん、やっぱり葵さんのことが大切なんだ。離れてても守ってる…)」
吹雪は思い切ってハヤトに声をかけようとした。
でも、かけれなかった。何を言えばいいのか、頭の中に言葉が思い浮かばなかった。
「天気、いいですね。」
「葵さん、手を振ってますね。」
「さっきの倉庫内の違和感、何だったんでしょうね?」
考えなくても沢山あるはずだ。そんな難しいことではない。
でも、出来なかった。結局、声をかけることを諦めてしまった。
その時ハヤトと目が合った。でも何も言わない。聞いてもこない。
ハヤトは再び前に視線を戻してしまった。
「……(私…何で、何も言わなかったんだろ…)」
胸の前で腕をギュッと握る。
ハヤトの背中は何も語らない。歩く歩幅も合わせない。待ってくれない。
離されないように吹雪は後を追うことしか出来なかった。
そして巡回を終えて2班と合流。
長門と扶桑が互いに報告し、そのまま休憩。
全員で食堂へ向かう。訓練や出撃終わりの艦娘達が集まり、いつもの喧騒が広がる。
葵もエプロンをつけて配膳の手伝いをしていた。
そこでも笑顔で、艦娘達に声をかけていた。
「あ、今日は焼き鯖定食なんですね。」
「うん、焼き鯖定食とハンバーグ定食だよ。どっちがいい?」
「えっと、じゃ、じゃあ…焼き鯖定食で。」
「あ、あたしはハンバーグ定食で!」
会話はぎこちない。固い。でも葵さんは笑顔だ。無理した感じは本当にしない。
ハヤトさんより、みんな葵さんに対してはコミュニケーションを取ろうとしてる。
私は列に並んで、そして順番が来た時に今日初めて葵さんと会話が出来た。
「吹雪ちゃん、巡回お疲れ様。どれにする?」
「…あ、えっと…」
何故だ。どうしてまともに話せないんだ。
葵さんは昨日のことがあってもこうして笑顔で声をかけてくれているのに。
自分は何故か上手く話せなかった。そんな時…
「無理しなくて、大丈夫だよ」
葵は微笑みながら言った。いや、言わせてしまった。
そんなつもりはなかった。微塵も。なのに、言わせてしまった。
「…あ、その…ハンバーグ定食で…」
「うん、ハンバーグ定食ね!温かい内に食べてね!」
そう言ってテキパキとトレーに乗せていき渡される。それを受け取って、いつもの席に座る。
潮もいつものように隣の席へ座る。他の駆逐艦娘達も次第に集まって、いつものように話す。
いつも通り、なのにいつも通りでない。
何も起きなかった。でも、何も起きなかったことにどこか安心出来てない自分もいる。
無意識にハヤトを探していた。
食堂の端、全体が見える場所に立っていた。
配膳を終えた葵がコーヒーを淹れてマグカップを2つ持ってハヤトの元へ。
そして1つを差し出しながらハヤトを見上げる。
「……やっぱり、笑ってる」
ハヤトはマグカップを受け取った時、葵にだけは柔らかい表情になった。
一口啜り、そして何やら2人で話している。
葵はハヤトの隣に立って話していたが、ハヤトは椅子を引いて葵を座らせる。
その自然な動きに、吹雪はこの2人の関係性を見た気がした。
「やはりこの2人は深い関係にある。どちらも互いを信用し、信頼しているんだ」と。
「あの2人、やっぱり仲良いよね。」
隣に座る潮が鯖の身を箸でほぐしながら同じように見ていた。
他の駆逐艦娘達も見ている。葵は席に座り、ハヤトはそのすぐ後ろで守るようにして立っている。
圧はない。殺気もない。ただそこに居るだけ。
「正直怖いけど…ただの怪物とは思えないんだよね。」
「うん…葵さんをああして守ってるとこを見るとね…」
「まだ100%信用した訳じゃないけど…でも昨日言ってたことを考えると信じてみてもいいのかなって。」
「いやでも…うーん、まだ今すぐ答えが出ないかな、私は…」
みんなも色々思うところはあるみたいだ。
悩んでる。ハヤトさんに、喰種という存在に。
どう判断すべきなのか。みんな今すぐ答えは出ていない。
そしてその事に対してハヤトさんは何もしない。
否定も、力づくでどうにかしようともしない。
どう判断するかを私達に委ねている。
葵さんは守る対象だという線引きをした上で。
自分自身を不利な状況にした上で。
「…とりあえず、ご飯食べちゃおっか。冷めちゃう。」
誰が言ったとはなく、みんな一斉に食事を再開した。
吹雪はチラッと2人の方を見る。
葵は焼き鯖定食を頬張って笑顔になっている。
ハヤトはいつの間にか葵の隣の席に座り、お茶を淹れて葵に渡している。やはりその表情はとても柔らかく、頬も緩んでいた。
その後、昼食を終えて再び巡回が始まった。
先程と同じルート、加えて鎮守府の塀に登って端から端までを歩く。
外側に不審な物は無いか?不審者はいないか?
そういったものを塀の上から双眼鏡も使って探す。
ハヤトはただ黙ったまま周囲を見つめる。
「吹雪、何か異常はあったか?」
隣に立つ長門が聞いてきた。
吹雪は首を横に振って「異常ありません」と告げる。
次に長門はハヤトに同じことを聞く。
神通の視線がハヤトに向けられる。
「……………」
何も言わない。ただ長門に視線を向けるだけ。
それでも…
「そうか…何かあったら教えてくれ。神通、そちらは?」
「いえ、こちらも問題ありません。」
長門はそれを聞いて頷き、次の巡回場所へ歩き出す。
その後ろを神通、ハヤトの順で歩き、吹雪は後ろをついて歩く。
結局その日は何もなかった。
普段もそんな何か問題がある訳では無い。
それに何も無いことは良い事だ。
でも、何も無いことに驚き、変に意識している自分もいる。
人を喰らう怪物が、何もしてこなかった。
なんなら倉庫内では守る動きをした。
それも良いことなのに、どこか信じきれてない。
「……(だめだ私…悪い方に考えてる…)」
そんな事を考えていると交代の艦娘達が集まってきた。
だが次第に足取りが重くなるのが分かる。
ハヤトだ。ここに立っているからだ。
そう思った瞬間、ハヤトは1歩後ろに下がる。
少し、交代に来た艦娘達の表情が落ち着くのを感じた。
長門は引き継ぎを行い、こちらを見て「解散だ。ご苦労だった。」と告げる。交代の艦娘達は夜間巡回へ向かい、今朝から共に巡回した面々は宿舎へと歩き出す。ハヤトも歩き出していた。
吹雪は小走りでハヤトの前に向かい、今日初めてまともにハヤトの顔を見た。無表情、何を考えてるのか分からない。
ただ視線が合うだけで自然と背筋が伸び、冷え汗が出てくる。
「……(何か言わなきゃ…お疲れ様でした、それぐらいは…)」
でもいざ言おうとすると喉がつかえて言葉が出ない。
ハヤトは何も言わず、ただこちらを見ている。
急かさない。
聞かない。
無視をしない。
ただ黙ったままだ。
そして吹雪は敬礼をする。
敬礼するその手は少し震えてはいたが、目は逸らさず真っ直ぐにハヤトの目を見て。
ハヤトは軍人ではない。人間でもない。喰種だ。
それでも、吹雪なりに今出来る精一杯のコミュニケーションだった。
ハヤトはそれに対して、少しだけ頭を下げた。
そしてそのまま宿舎へと向かう。
宿舎の入口には葵が立っており、こちらを見ていた。
ハヤトと何か話し、そしてこちらに頭を下げて2人は手を繋いで宿舎へと入っていく。
今日は、いつも通りだった。
いつも通りで、いつも通りではなかった。
でも何も起きなかった。
でも最後は少しだけ、ほんの少しだけ、吹雪は前に進めたのかもしれないと思った。
ー明日も、何も起きませんようにー
ー明日も、ほんの少しでも…前に進めますようにー
そう思いながら、自分も宿舎へと向かって歩き出した。