葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
昼下がりの鎮守府は、静かだった。
遠くで聞こえる波の音。
工廠から響く金属音。
それ以外は、驚くほど穏やか。
正門付近。
いつもの位置に、ハヤトは立っていた。
腕は組まず、背筋を伸ばし、視線は遠く。
誰にも声をかけず、誰にも近づかない。
それを、曙は廊下の陰から見ていた。
「……今日も、いるわね」
ぽつりと零した声に、
「当たり前でしょ。警備だもん」
隣で腕を組む満潮が答える。
「……分かってる」
分かっている。
それでも、視線を外せない。
怖いのか、と聞かれたら、分からない。
嫌なのか、と聞かれたら、それも違う。
「曙」
「なによ」
「まだ、決められない?」
満潮の声は、責めるでもなく、急かすでもなかった。
「……決める必要、ある?」
「さあね。でも、皆それぞれ考えてる」
曙は鼻で笑った。
「考えてるふり、でしょ」
満潮は否定しなかった。
⸻
その時だった。
ガシャン――。
食堂の方から、はっきりとした音が響いた。
「っ……!」
曙と満潮が同時に振り向く。
食堂の入口近く。
床に散らばる皿の破片。
その前で、立ち尽くす新人の駆逐艦娘。
「……あ」
その子の視線の先。
しゃがみ込んで、破片を見ている葵。
「大丈夫? 手、切ってない?」
優しい声。
だが――
「……っ、ご、ごめんなさい……!」
新人艦娘は一歩、後ずさった。
声が震えている。
曙は歯噛みした。
(……また、これ)
沈黙。
周囲の空気が、わずかに硬くなる。
誰も悪くない。
でも、誰も動けない。
⸻
「……ちょっと」
気づいた時には、曙は前に出ていた。
「え……?」
新人艦娘が戸惑った声を出す。
「割れただけでしょ。
怪我してなきゃ、別に大騒ぎすることじゃないわ」
自分の声が、思ったよりはっきりしていて、曙自身が驚く。
「で、手は?」
「……あ、はい。大丈夫です」
「じゃあいいじゃない」
そう言って、曙はしゃがみ込み、破片を拾い始めた。
「ちょ、曙! 素手で触らない!」
慌てて満潮も駆け寄る。
「分かってるわよ!」
「分かってない顔してる!」
「うるさい!」
言い合いながらも、二人で破片を集める。
周囲から、ひそひそと声が漏れる。
「……いいの? 近づいて」
「怖くないの……?」
「もし、何かあったら……」
曙は聞こえないふりをした。
⸻
その時、背後に気配を感じる。
振り返らなくても分かる。
ハヤトだ。
新人艦娘が息を呑む。
「……っ」
満潮も一瞬、言葉を失う。
ハヤトは近づかない。
視線を向けているだけ。
「……」
何も言わない。
それが、逆に重い。
曙は、深呼吸した。
(……見られてる)
それでも、手は止めなかった。
「はい、終わり」
破片をまとめ、立ち上がる。
「……ご、ごめんなさい……」
新人艦娘が俯く。
曙は一瞬、言葉に詰まった。
何を言えばいいのか、分からない。
だから、正直に言った。
「……無理しなくていいわよ」
「え……?」
「怖いなら、距離取っていい。
それを責めるつもりもないし」
新人艦娘は目を見開く。
「でもね」
曙は続けた。
「誰かが怪我しそうな時まで、
黙ってる必要はないでしょ」
⸻
沈黙。
葵が、静かに立ち上がる。
「……ありがとう、曙ちゃん」
曙は顔を逸らした。
「別に……」
「でも」
葵は優しく言った。
「踏み出してくれたこと、嬉しい」
「……踏み出してない」
即座に否定する。
「選んだわけじゃないし。
まだ、分かんないままだから」
葵は少しだけ首を傾げ、
「それでいいんだよ」
と、微笑んだ。
その一言で、胸の奥が少し緩む。
⸻
満潮が小さく笑う。
「曙さ」
「なによ」
「今の、完全に一歩だったよ」
「違う!」
即答する。
「勝手に体が動いただけ!」
「それを一歩って言うの」
「……うるさい」
だが、否定しきれない。
⸻
その時、ハヤトが動いた。
ほんの僅か、曙の方を見る。
そして――
小さく、頷いた。
それだけ。
言葉はない。
評価も、感謝もない。
でも、不思議と――
怖くなかった。
⸻
夕方。
食堂の前で、曙は葵とすれ違った。
「……さっきは」
「うん」
葵は頷く。
「ありがとう」
「……だから、選んでないって言ってるでしょ」
葵は、少し笑った。
「知ってる」
それが、逆に救いだった。
⸻
選べない者は、まだいる。
曙も、その一人だ。
でも。
放っておけなかった。
それだけで、十分だったのかもしれない。
⸻
正門の方を見る。
ハヤトは、いつもの位置に立っている。
変わらない姿。
変わらない沈黙。
それでも――
「……明日も、いるんでしょ」
小さく呟く。
答えはない。
でも、曙は初めて、
その沈黙が“拒絶”ではないと感じていた。