葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夕方の鎮守府は、やけに音が少ない。
波の音と、遠い工廠の金属音。
それから、食堂の換気扇が回る低い唸り。
床はもう乾いていて、皿の破片もない。
何事もなかったみたいに、いつもの匂いが戻っている。
――戻っている、はずなのに。
曙は食堂の前を通るたび、無意識に足を止めそうになる。
視線は入口の床。
そこに何もないことを確かめて、やっと歩ける。
(……何よ、これ)
自分の中だけが、まだ片付いていない。
「曙」
背後から声がして、曙は肩を跳ねさせた。
「……なに、満潮。脅かさないで」
「脅かしてない。曙が勝手にびくってしただけ」
「うるさい。勝手にびくってするの」
満潮は曙の横に並んで、歩幅を合わせた。
合わさってしまうのが、腹立たしいくらい自然だった。
「まだ、落ち着かない?」
「落ち着いてる」
「顔が落ち着いてない」
「顔の話やめて」
「じゃあ、目」
「目もやめて」
「じゃあ、息」
曙は立ち止まって満潮を睨んだ。
「……あんた、今日しつこい」
満潮は少しだけ目を細める。
「しつこいよ。だって曙、さっきのこと“なかったこと”にしそう」
「しない」
「する顔してる」
「してない!」
満潮はため息をついたふりをする。
「分かった。じゃあ質問する」
「やめて」
「答えなくてもいいやつ」
「……なに」
満潮が曙を見る。
「怖かった?」
曙の喉が、一瞬詰まった。
「……怖いっていうか」
「うん」
「……分かんない」
満潮は頷く。
「分かんないなら、まだ怖い」
「そういう決めつけやめて」
「決めつけじゃない。曙が“分かんない”って言う時は、大体そう」
曙は舌打ちした。
「……あんた、私のこと分かった気になるの、嫌い」
満潮は即答しない。
一拍置いてから、小さく言った。
「分かりたいんだよ」
曙は一瞬、言葉を失って、慌てて顔を逸らした。
「……気持ち悪い」
「ひど」
「褒めてないから」
「でも否定もしないじゃん」
「……うるさい」
⸻
廊下の角を曲がると、向こうから霞が歩いてきた。
腕を組んで、いつもより眉間が深い。
「……何よ、その顔」
曙が先に言うと、霞が即座に返した。
「あんたに言われたくない」
「私はいつもこんな顔よ」
「自慢するな」
満潮が横から口を挟む。
「霞、さっきの見てたでしょ」
霞が目を細くする。
「見てない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「見てた」
霞は舌打ちして、曙を見た。
「……ちょっとだけ」
曙の胸がまたざわつく。
「……なによ」
霞は言いにくそうに口を開く。
「あの……新人の子。ああいうの、また起きるのかなって」
「起きるでしょ」
曙はぶっきらぼうに返した。
「皿なんて割れる。誰だってやらかす」
霞が小さく頷く。
「そうじゃなくて……」
霞は言い淀んで、遠くを見る。
「……あの二人が来てから、空気が変わったじゃない」
曙は言葉を止めた。
満潮が代わりに言う。
「変わった。良くも悪くも」
霞が睨む。
「良い、って言い切れる?」
満潮は肩をすくめた。
「言い切れない」
霞は曙の方に視線を戻す。
「曙は?」
曙は即答できなかった。
それが悔しくて、曙は強い言葉で誤魔化した。
「……知らない。私は“選んでない”」
霞が小さく笑った。
「選んでない、ね」
曙が睨む。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってた」
「……少しだけ」
満潮が言った。
「霞も“決めきれてない”んでしょ」
霞はすぐ否定する。
「決める必要ない」
満潮が即座に返す。
「今日の曙みたいに、“決めてないのに動く”時がある」
曙が反射で叫ぶ。
「だから動いてない!」
霞がため息をつく。
「……じゃあさ。ここで喧嘩するより、談話室行かない?」
満潮が頷く。
「賛成」
曙は不満そうに言う。
「勝手に決めないで」
「曙も来るでしょ」
「……行くけど」
「ほら」
「……ほらじゃない!」
⸻
談話室は、夕方の光が窓から差し込んでいた。
潮が本を膝に置いて座っていて、初霜が紅茶を淹れている。
時雨は窓際で外を眺めていた。
曙たちが入ると、潮がぱっと顔を上げた。
「あ、曙ちゃん……!」
曙は身構える。
「……なに」
潮が慌てて首を振る。
「えっと……その……さっき、見てて……ごめんね」
曙は鼻を鳴らした。
「見てたんだ」
「うん……でも、悪い意味じゃなくて……」
霞がぼそっと言う。
「悪い意味じゃなくても、見られるのは嫌よね」
潮がしゅんとする。
「ご、ごめんなさい……」
満潮が言う。
「潮、謝らなくていい。今はそういう話してる」
時雨が振り向いて、柔らかく言った。
「そう。今は“まだ決めてない人たち”の話」
曙が眉を寄せる。
「なにそれ」
初霜が紅茶を置きながら、淡々と補足する。
「決める、とは“態度を固定する”という意味でしょう。
曖昧なままではいられない、と周囲が迫ってくる状況です」
曙が口を尖らせる。
「……迫ってくるの、ほんと嫌」
霞が頷く。
「分かる」
満潮が言う。
「じゃあ、まずこれ。
“何を決めろって迫られてるのか”を言葉にしよう」
時雨が少し笑う。
「満潮が司会みたい」
満潮が睨む。
「うるさい。やるならやる」
曙はため息をついた。
「勝手に始めないで」
「曙が止めないから始める」
「……止めても始めるくせに」
「そう」
初霜が小さく頷く。
「それは信頼です」
曙がすぐ突っ込む。
「違う!」
時雨が楽しそうに笑った。
「仲良いね」
「違う!」
満潮も同時に言う。
「違う!」
霞が呆れた顔で言った。
「息ぴったりじゃない」
曙は顔を赤くして怒鳴りそうになるのを堪えた。
「……話戻すわよ」
満潮が指を立てる。
「はい、曙が司会になった」
「なってない!」
⸻
潮が恐る恐る口を開いた。
「……私、怖いの」
全員の視線が潮に集まる。
潮は指先をぎゅっと握る。
「ハヤトさんも、葵さんも……怖いっていうか……」
曙が眉を寄せる。
「葵まで?」
潮が慌てて首を振る。
「ちがうの、葵さんは優しい。優しいのに……」
時雨が静かに促す。
「優しいのに、何?」
潮は目を伏せて言った。
「優しいのに……“近づき方”が分からない」
初霜が頷く。
「それは自然です。
彼らは鎮守府の“常識”の外側にいます」
霞がぼそっと言う。
「常識の外側、って言い方、柔らかくしすぎ」
満潮が言う。
「じゃあ霞はなんて言うの」
「……異物」
談話室が少し静かになった。
潮がびくっとする。
霞は続けた。
「悪口じゃない。
でも、鎮守府にいなかったものが急に来た。
しかも、強い。静か。何考えてるか分からない。
葵さんも優しいけど……優しいのに、あの人の横にいる」
曙は胸の奥がきゅっとなる。
(……分かる)
時雨が穏やかに言った。
「霞が言いたいのは、“怖さの種類が違う”ってことだね」
霞が肩をすくめる。
「そう。そういうこと」
満潮が言った。
「曙は? 何が怖い」
曙は即答できず、強めに返した。
「怖くない」
満潮が即座に返す。
「嘘」
曙が睨む。
「……嘘じゃない」
満潮は引かない。
「じゃあ、さっきなんで動いたの」
曙は言葉に詰まる。
時雨が助け舟を出すみたいに言った。
「怖いって言うと、“悪いこと”みたいになるのが嫌なんだよね」
曙の肩が少し下がった。
「……そう」
初霜が淡々と告げる。
「恐怖は悪ではありません。
ただの反応です。
問題は、その反応で人を傷つけるかどうかです」
潮が小さく頷く。
「……じゃあ、怖がってもいい?」
初霜は迷いなく頷いた。
「はい」
霞がぼそっと言う。
「初霜、今日どうしたの。急に優しい」
初霜は首を傾げる。
「優しいつもりはありません。必要なことを言っているだけです」
時雨が笑った。
「それが優しいんだよ」
初霜は視線を逸らした。
「……理解できません」
⸻
満潮が曙に向き直る。
「曙。今日の“皿のこと”でさ」
曙は眉を寄せる。
「またそれ」
「大事だから」
満潮は言葉を選びながら言った。
「曙が動いたことで、あの新人の子、少し息できたと思う」
曙は反射で言い返す。
「知らない」
「知ってるでしょ。見れば分かる」
曙は黙る。
潮が小さく言った。
「……曙ちゃんの声、はっきりしてた」
曙は顔を背ける。
「……勝手に出ただけ」
霞がぼそっと言う。
「それが一番怖いのよね。勝手に出ると、もう戻れない」
曙の胸がまたざわつく。
時雨が静かに続けた。
「“戻れない”って、何に?」
霞は言い淀む。
「……分かんない。
でも、“あっち側”に見られる」
満潮がうなずく。
「それ。今日の噂、もう回ってる」
曙が目を見開く。
「は?」
満潮は淡々と言う。
「“曙が葵さんと話してた”
“ハヤトさんが曙を見てた”
“曙、平気なんだ”って」
曙の胃がきゅっと縮む。
「……最悪」
潮が怯えたように言った。
「それ、怖い……」
時雨が肩をすくめる。
「噂は止められない。
でも“噂に乗るか”は選べる」
曙が苛立って言う。
「選べないって言ってるでしょ!」
初霜が落ち着いた声で言う。
「“選べない”という意思表示も、ひとつの選択です」
曙が言い返そうとして止まった。
(……言い返せない)
霞が小さく息を吐く。
「……だから、決めきれないのよ。
何しても“決めた”ことにされる」
⸻
ノックの音がして、談話室の扉が開いた。
葵が顔を出す。
「ここにいた」
全員の視線が葵に向く。
潮が少し背筋を伸ばし、霞が腕を組む。
曙は、反射で視線を逸らした。
葵は空気を読んだみたいに、柔らかく笑う。
「ごめん。邪魔だった?」
時雨が首を振る。
「ちょうどいい。本人が来た」
「本人って」
葵は苦笑しつつ、室内に入ってくる。
曙の方を見て、少しだけ表情を和らげた。
「曙ちゃん、さっきは……」
曙が先に言う。
「礼はいらない」
葵は一瞬驚いた顔をして、それから頷いた。
「うん。分かった」
その“分かった”が、押しつけじゃない。
曙は胸の奥で、少しだけ力が抜けた。
霞が葵に尋ねる。
「葵さん。
……私たちが怖がってるの、嫌ですか」
葵は少し考えてから言う。
「嫌じゃないよ」
潮が小さく息を飲む。
「……本当?」
葵は頷く。
「怖いって思うのは普通。
私だって最初、怖かった」
曙が思わず口を出す。
「葵が?」
葵は苦笑する。
「うん。
ハヤトの隣に立ってる私でも、怖かった」
時雨が静かに聞く。
「何が怖かった?」
葵は窓の外――正門の方を一瞬見てから言った。
「……近づくと、逃げ道が減る気がした」
曙の胸がきゅっとなる。
それは、曙が言葉にできなかった感覚だ。
満潮が言う。
「逃げ道、必要だよね」
葵は頷く。
「必要。
だから、無理に近づかなくていい。
でも、“誰かが傷つく場面”で黙る必要もない」
曙が小さく言う。
「……それ、さっき私が言った」
葵は微笑んだ。
「うん。だから、私は嬉しかった」
曙は反射で否定しそうになって、止めた。
否定すると、また逃げ道になる気がしたから。
霞がぼそっと言う。
「でも、ハヤトさんは何も言わない。
それが一番怖い」
葵は静かに答える。
「言わないのは、押しつけたくないからだと思う」
潮が不安げに言う。
「でも、見てる」
葵は頷く。
「見てる。
たぶん……鎮守府の空気が壊れないように」
曙が眉を寄せる。
「壊れないように?」
葵は少し真剣な声になった。
「うん。
強い人が入ると、周りが無理して“合わせよう”とするでしょ。
それで誰かが潰れる。
ハヤトはそれを、嫌がる」
時雨が小さく笑う。
「嫌がる、って感情がちゃんとあるんだね」
葵も笑う。
「あるよ。分かりにくいけど」
⸻
談話室を出るころには、外はもう暗くなりかけていた。
潮と初霜は夕食の手伝いへ向かい、時雨は廊下の窓を開けて風を入れた。
霞は最後まで腕を組んだまま、曙をちらっと見た。
「……今日のこと。
あんた、後悔してる?」
曙は即答できなかった。
満潮が言う。
「後悔してるなら、曙はもっと悪態ついてる」
曙が睨む。
「余計な分析するな」
霞が小さく笑って、先に歩き出した。
「じゃあ、まだ大丈夫ね」
「なにそれ」
「知らない」
⸻
廊下を抜け、正門が見える場所まで来ると、空気が変わった。
夜の冷えだけじゃない。
静けさの密度が違う。
ハヤトは、いつもの位置に立っていた。
背筋を伸ばし、視線は遠く。
誰にも近づかない。
誰にも声をかけない。
でも、そこにいる。
曙は立ち止まった。
「……行くの?」
満潮が小声で聞く。
曙は口を尖らせる。
「行かない」
「じゃあ見て帰る?」
「……見てない」
「見てる」
「うるさい」
満潮は肩をすくめる。
「話しかけないの?」
曙は一瞬迷った。
昼間の自分は、勝手に動いた。
今の自分は、勝手に動くのが怖い。
(……でも、目を逸らすな)
さっき葵が言っていた。
たぶん、ハヤトは押しつけたくない。
なら、こちらも押しつけられないまま、言えばいい。
曙は、小さく一歩だけ前に出た。
「……あんた」
声が思ったより小さくて、曙は自分に腹が立つ。
ハヤトが、すぐにこちらを見た。
表情は変わらない。
でも、視線は真っ直ぐだった。
「何だ」
短い返事。
曙は息を吸って、吐いて、ぶっきらぼうに言った。
「……ずっと立ってるの、やめなさいよ」
満潮が後ろで息を呑む気配。
ハヤトはすぐに返さない。
数秒の沈黙。
そして淡々と答える。
「必要だから立っている」
曙は眉を寄せる。
「必要って言えば、何でも許されると思ってる?」
ハヤトの視線が微かに細くなる。
怒りではなく、考える目。
「許されるとは思っていない」
曙は言葉に詰まった。
真面目に返されると、逃げられない。
満潮が小声で囁く。
「曙、落ち着いて」
「うるさい」
曙はハヤトに向き直って、強がるみたいに言う。
「倒れたら面倒。
こっちが面倒」
ハヤトは少しだけ間を置いて言った。
「面倒が嫌いか」
「嫌い」
即答。
ハヤトは、ほんの僅かに頷いた。
「なら、倒れない」
「そういう問題じゃない!」
曙が声を強めると、満潮が肩を揺らして笑いを堪えている。
曙は後ろを振り向いて睨んだ。
「笑うな!」
「笑ってない!」
「笑ってる!」
ハヤトが短く言った。
「……今の声量は不要だ」
曙はカッとなって言い返す。
「いちいち口出さないで!」
ハヤトは淡々と、でも変わらない声で返した。
「口出しはしていない。
確認しているだけだ」
「何を!」
ハヤトは曙を見る。
「曙は、今日、目を逸らさなかった」
曙の胸が、きゅっと縮んだ。
「……それだけ」
「それだけで十分だ」
満潮が思わず言う。
「……ハヤト。曙、ほんとに頑張った」
曙が叫ぶ。
「言うなって!」
満潮も叫び返す。
「言う! だって頑張ったもん!」
曙が満潮を睨む。
「余計なこと言うな!」
「余計じゃない!」
ハヤトはそのやり取りを静かに見て、短く言った。
「その距離でいい」
曙が固まる。
「……距離?」
ハヤトは言う。
「踏み込まず、逃げず、嘘をつかない」
曙は喉が詰まった。
まるで、自分が欲しかった言葉を、代わりに言われたみたいだった。
曙は小さく言った。
「……じゃあ、まだ決めなくていいの?」
ハヤトは頷く。
「今日は、それでいい」
その“今日は”が、曙の胸を軽くした。
今日だけ。
明日、揺れてもいい。
そう言われた気がした。
曙は視線を逸らして、ぼそっと言う。
「……明日もいるんでしょ」
「いる」
短い返事。
変わらない姿勢。
満潮が小声で言う。
「曙、顔赤い」
「赤くない!」
「赤い」
「赤くないってば!」
ハヤトが淡々と告げる。
「……帰れ。冷える」
曙は思わず言い返す。
「命令しないで!」
「命令ではない。助言だ」
曙は悔しくて、でも少しだけ笑いそうになった。
(……ほんと、ずるい)
満潮が先に歩き出す。
「行くよ、曙」
曙は最後にもう一度、正門の影を見た。
ハヤトは遠くを見ている。
でも、曙は初めて、その沈黙が“拒絶”じゃないと確信に近い形で思えた。
「……明日も、いるんでしょ」
答えはもう聞かなくてもいい。
曙は背を向けて、歩き出した。