葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の鎮守府は、いつもより少しだけ騒がしかった。
理由ははっきりしていない。
だが、空気がざわついている。
廊下を歩く足音が多い。
声が小さい。
笑い声が途中で途切れる。
曙はそれを肌で感じながら歩いていた。
(……なによ)
すれ違う艦娘が、ほんの一瞬こちらを見る。
そして目を逸らす。
二人組が、会話を止める。
三人組が、声量を落とす。
(最悪)
曙は顔に出さないようにしながら、心の中で舌打ちした。
背後から声。
「曙」
「なに」
振り向かなくても分かる。満潮だ。
「広がってるね」
「何が」
「昨日の話」
「知らない」
「嘘」
「知らないって言ってる」
満潮は追いついて横に並ぶ。
「食堂のこと。正門のこと。両方」
曙は足を止めた。
「……正門のことまで?」
満潮は頷く。
「見てた人、結構いた」
「なんでよ」
「正門は見える場所だから」
「……最悪」
満潮は小さく笑った。
「でも悪い噂じゃない」
「噂に良いも悪いもある?」
「あるよ。
“曙が取り入ろうとしてる”じゃなくて
“曙が普通に話してた”になってる」
曙は眉を寄せた。
「どっちも嫌」
「曙らしい」
「褒めてない」
「褒めてる」
⸻
食堂に入ると、空気がまた変わった。
静かになる、まではいかない。
だが、密度が変わる。
潮が先に気づいて手を振った。
「曙ちゃん、満潮ちゃん、こっち」
曙は少しだけほっとした顔をしたのを、自分で隠した。
席につくと、霞と初霜、時雨もいる。
霞が言う。
「有名人」
「言うな」
「事実」
「やめて」
満潮が笑う。
「今、鎮守府で一番名前出てる」
曙が睨む。
「黙れ」
潮が慌てる。
「で、でもね、悪い感じじゃないよ」
「どうだか」
時雨が柔らかく言う。
「怖いって言ってた子が、
“曙さんが普通に話してた”って言ってた」
曙は一瞬黙った。
「……普通じゃない」
初霜が言う。
「普通でした」
「初霜まで言うな」
「事実です」
霞がぼそっと言う。
「これでまた距離が少し縮んだ」
曙が即座に否定する。
「縮んでない」
満潮が言う。
「縮んだよ」
「縮んでない!」
時雨が笑う。
「曙は“縮んだことにされる”のが嫌なんだよね」
曙は黙る。
図星だった。
⸻
その時、食堂の入口が少しざわついた。
葵が入ってきた。
空気がほんの少しだけ張る。
でも昨日ほどではない。
視線は集まる。
だが、露骨ではない。
(……違う)
昨日より、硬くない。
潮が小さく言った。
「……減ってる」
曙が聞き返す。
「なにが」
「怖がり方」
満潮がうなずく。
「うん。見方が変わってきてる」
霞が腕を組む。
「観察対象から、存在に変わった感じ」
曙が言う。
「言い方」
「正確」
⸻
葵がこちらに気づいて、軽く会釈する。
曙は一瞬迷ってから、同じように小さく返した。
満潮が小声で言う。
「昨日より自然」
「うるさい」
「事実」
葵はトレーを持って近づいてきた。
「一緒いい?」
時雨が笑う。
「どうぞ」
葵が座る。
少し間があってから言った。
「今日、少し空気違うね」
霞が即答する。
「原因あなたたち」
葵は苦笑した。
「やっぱり?」
曙がぼそっと言う。
「昨日よりマシ」
葵は曙を見る。
「うん。そう見える」
曙は目を逸らした。
「見えるだけ」
「それで十分だよ」
⸻
少しして、食堂の奥の扉が開いた。
白瀬提督が入ってくる。
会話が自然に止まる。
威圧ではない。
だが、場が整う。
提督は周囲を見渡してから、いつも通りの声で言った。
「おはよう」
「おはようございます」
声が揃う。
提督は食事を受け取りながら、自然に言う。
「昨日、少し騒がしかったな」
空気が一瞬止まる。
曙の背中が固くなる。
だが提督は続けた。
「皿は割れる。
人は慌てる。
それでいい」
誰も何も言わない。
提督は振り向かずに言った。
「ただし」
少し間。
「誰かが手を出したなら、
それは評価する」
曙の心臓が強く鳴った。
満潮が横で小さく笑う。
霞がぼそっと言う。
「完全に聞こえてたわね」
初霜が言う。
「当然です」
葵は何も言わない。
ただ、少しだけ微笑んでいた。
⸻
提督は席につかず、そのまま出入口へ戻る。
途中で一度だけ止まり、振り向かずに言った。
「噂より、目で見ろ」
それだけ言って出ていった。
沈黙。
そして、同時に息が抜けた。
時雨が言う。
「助けたね」
満潮がうなずく。
「完全に」
曙は小さく言った。
「……ずるい」
霞が聞き返す。
「何が」
「言い方」
葵が静かに言う。
「でも、ああいう人だから、ここは持ってる」
曙は否定しなかった。
⸻
食堂の外。
正門の方を見ると、今日もハヤトは立っている。
変わらない姿勢。
変わらない沈黙。
でも。
昨日と同じには見えなかった。
曙は小さく呟く。
「……噂より、目で見ろ、か」
満潮が横で言う。
「見る?」
曙は少しだけ考えて、
「……見るだけ」
そう答えた。
それで、十分だった。