葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の鎮守府は、よく晴れていた。
空が高く、海が静かで、
本来なら「いい日だ」と言っていいはずの天気。
――なのに。
門の方が、いつもより硬い。
曙は廊下の窓から正門の方向を見て、眉を寄せた。
(……なんか、やな感じ)
理由は説明できない。
ただ、空気が違う。
足音が揃いすぎている。
声が短い。
誰かが「いつも通り」を演じている。
背後から、満潮が来た。
「見てるね」
「見てない」
「見てる」
「……うるさい」
満潮は曙の横に立って、同じ方向を見る。
「来るよ」
曙が眉を上げた。
「何が」
満潮は目を細める。
「上の人。たぶん」
曙は鼻で笑う。
「上の人なんて、いつも来てるでしょ」
「“来る”の種類が違う」
曙は言い返そうとして、やめた。
満潮のこういう勘は、当たる。
「……何で分かるのよ」
「空気が硬い」
曙はぼそっと言った。
「……それ、私も思った」
満潮が少しだけ笑う。
「ほら」
「ほらじゃない」
⸻
食堂に入ると、いつもより静かだった。
ざわめきがないわけじゃない。
ただ、音が“壁”に吸われている感じ。
潮はすでに席についていて、箸が止まりがちだった。
初霜は紅茶を飲みながら、落ち着いて周囲を見ている。
時雨は窓際で外を眺めていた。
曙と満潮が座ると、潮が小声で言った。
「……ねえ、今日、なんか……」
曙が即答する。
「変」
満潮も頷く。
「変」
潮はほっとした顔をした。
「やっぱり? 私だけじゃないんだ……」
初霜が淡々と補足する。
「警戒の空気です」
曙が初霜を見る。
「初霜、断言するのね」
「必要な情報です」
時雨が笑う。
「初霜、今日は“説明役”だね」
「いつも通りです」
「いつもよりはっきり言ってる」
「聞かれているからです」
曙が眉を寄せた。
「誰に」
初霜は答えない。
答えないのに、みんな分かったような気がした。
“上”だ。
⸻
そこへ、葵が入ってきた。
空気が少し揺れる。
でも、昨日までの“固い揺れ”じゃない。
視線が集まって、
そして、すぐに散る。
(……みんな、慣れようとしてる)
曙はそれが少し、くすぐったい。
葵がこちらに会釈して、近づいてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
曙は昨日より自然に返してしまって、
自分で「しまった」と思う。
満潮が小声で言う。
「今の、普通だった」
「普通じゃない」
「普通」
潮が小さく言った。
「普通って、いいね」
曙は返せなかった。
葵は少し困ったように笑って、席に座る。
「今日、なんか静かだね」
時雨が窓の外を見たまま言う。
「静かなときほど、何か来る」
葵が瞬きをする。
「……何か?」
初霜が短く言った。
「監察」
曙がむっとする。
「なにそれ。急に嫌な単語出さないで」
初霜は平然としている。
「現実です」
⸻
食堂の入口が開いた。
白瀬提督が入ってくる。
いつも通りに「おはよう」と言って、皆が答える。
だが今日は、提督が座らなかった。
トレーも取らず、食堂の中央で止まる。
「……今日、視察が入る」
空気がさらに一段、硬くなる。
曙の背中がぞくっとした。
提督は淡々と言った。
「監察部ではない。参謀本部からの“視察”だ」
霞がどこかで小さく舌打ちした音がした。
提督は続ける。
「目的は“確認”だ」
曙は心の中で即座に思う。
(確認って言葉、嫌い)
“何を確認するのか”は、だいたい決まっている。
正しいかどうかじゃない。
“従っているかどうか”。
提督は視線を食堂全体に投げて、落ち着いた声で言った。
「余計なことは言わなくていい。
聞かれたことにだけ答えろ。
分からないことは分からないと言え」
少し間を置いて、
「そして、噂で動くな。
目で見て、判断しろ」
昨日と同じ言葉が、今日も落ちる。
それだけ言って、提督は食堂を出ていった。
沈黙。
潮が小さく呟いた。
「……こわい」
曙は反射で言う。
「怖がっていい」
自分の口から出て、曙は一瞬固まった。
満潮が横で言う。
「今の、すごい」
曙が睨む。
「何が」
「曙が誰かを安心させようとしてる」
曙は顔を赤くしそうになって、味噌汁を飲んだ。
「……たまたま」
「便利な言葉」
「うるさい」
⸻
午前。
鎮守府の正門が、目に見えて“正門”になった。
普段なら、通る人が通って、戻る人が戻って、
そこに立つ者は淡々としている。
今日は違う。
整列。点呼。
声が揃いすぎている。
長門が吹雪に低い声で言う。
「……過剰だな」
吹雪が小声で返す。
「こういう時は……いつも、こんな感じです」
「無駄だ」
「でも、上の人ってそういうの好きだから……」
長門は眉をひそめた。
「好き嫌いの話ではない。
戦力の運用は――」
言いかけて、長門は口を閉じた。
“運用”という言葉が、今日には合わない。
曙と満潮がそこへ来ると、霞が腕を組んで待っていた。
「……あんたたち、来た」
曙が眉を寄せる。
「なに、集合でもかかってるの?」
霞が短く言う。
「見といた方がいい」
満潮が頷く。
「私もそう思う」
曙が舌打ちする。
「……嫌な予感しかしない」
時雨が後ろからやって来て、楽しそうでもなく、真面目でもない顔で言った。
「嫌な予感って、だいたい当たるよね」
曙が睨む。
「やめて」
「やめない」
「なんでよ」
「予感を無かったことにすると、もっと嫌なことが来る」
曙は言い返せず、正門の方を見る。
そこに、ハヤトがいた。
いつも通りの位置。
いつも通りの姿勢。
でも今日は、周囲の“整いすぎた”空気のせいで、
ハヤトの静けさが逆に浮いて見えた。
(……変わらないのが、怖い)
その時、海側の道路から車列が入ってくるのが見えた。
黒塗りの車。
随伴の車。
護衛。
曙は小さく呟く。
「……来た」
満潮が低い声で言う。
「来たね」
霞がぼそっと言った。
「好きなやつだよ、ああいうの」
時雨が淡々と返す。
「好きというより、“必要だと思ってる”んだよ」
⸻
車列が止まり、制服姿の士官が降りてくる。
先頭の男は、年齢は四十前後。
背が高く、姿勢がいい。
表情は柔らかいのに、目が冷たい。
付き従う男が数名。
書類鞄。
視線が速い。
白瀬提督が正門前に出て、迎える。
「ようこそ、呉鎮守府へ」
相手は、儀礼的に笑った。
「参謀本部より参りました、久我宗一郎です」
名乗りが、妙に滑らかだ。
(こいつ、嫌なタイプ)
曙は直感でそう思った。
久我大佐は周囲を見渡し、提督に言う。
「本日は簡単な視察です。
ご協力願います」
提督は微笑む。
「当然です。
ただし、現場の運用を阻害しない範囲で」
久我の笑みが一瞬だけ薄くなる。
「もちろん。
我々も“目的”は同じですから」
(目的、ね)
曙は唇を噛んだ。
⸻
視察は、鎮守府の内部へ進む。
工廠、艦橋施設、資料室。
説明は淡々。質問は細かい。
久我は丁寧に見える。
だが、質問の端々に“測る”匂いがある。
「この鎮守府における、特異戦力の運用方針は?」
曙はその言葉に、心臓が鳴った。
“特異戦力”。
誰のことを言っているかは、明白だった。
提督は変わらない声で答える。
「運用方針というより、共存方針です」
久我が瞬きをする。
「……共存、ですか」
提督は頷く。
「戦力は数字ではありません。
人です。
人を壊せば、戦力も壊れます」
久我は笑みを崩さない。
「理想論ですね」
提督も笑みを崩さない。
「現場論です」
空気が、薄く火花を散らす。
曙はそれを廊下の曲がり角から見ていた。
満潮も、霞も、時雨も、吹雪も。
長門は遠くで腕を組んだまま、
視察の隊列を真っ直ぐ見ていた。
⸻
少しして、葵が廊下の向こうから現れた。
顔色はいつも通りに見える。
でも、歩幅が少し小さい。
曙は思わず声をかけた。
「……葵」
葵がこちらに気づいて、微笑む。
「どうしたの、曙ちゃん」
曙は言葉を探した。
「……大丈夫?」
葵は一瞬だけ目を伏せてから、頷く。
「大丈夫」
満潮が横から言う。
「大丈夫じゃない時の“大丈夫”だ」
葵が苦笑する。
「満潮ちゃん、鋭い」
曙が睨む。
「余計なこと言うな」
満潮が言い返す。
「余計じゃない。必要」
曙が言い返そうとした瞬間、
視察隊の隊列がこちらへ向かってきた。
久我の視線が、葵に止まる。
ほんの一瞬。
でも、曙はその“止まり方”が嫌だった。
値踏み。
確認。
記号化。
久我が笑みを浮かべる。
「君が……彼の“同伴者”か」
葵の表情が、わずかに硬くなる。
「同伴者というより、私は――」
提督が先に言葉を挟んだ。
「彼女は鎮守府の協力者です。
肩書きで呼ぶ必要はない」
久我は笑みを崩さない。
「協力者。
なるほど。
現場は言葉を柔らかくするのが上手い」
提督は淡々と返す。
「現場は人を守るのが仕事ですから」
久我の目が少し細くなる。
「守るべき対象は、優先順位があります」
提督は即答した。
「優先順位は現場が決めます」
空気が張る。
曙は無意識に拳を握った。
満潮も、霞も、息を止めている。
葵が小さく息を吸って、
穏やかに言った。
「……必要なら、私、席を外します」
提督は首を振る。
「外す必要はない」
久我が笑う。
「さすが提督。
強い」
その“強い”は褒め言葉の形をして、針が混じっていた。
⸻
視察は続く。
途中、間宮と鳳翔が茶菓子を出す場面があった。
久我は礼儀正しく受け取る。
だが、その後の言葉が嫌だった。
「艦娘諸君は、落ち着いている。
……教育が行き届いているようだ」
鳳翔が微笑む。
「ありがとうございます」
間宮も丁寧に頭を下げる。
久我の視線が、ふっと曙の方へ向いた。
「ただ、最近“空気が揺れた”と聞く」
曙の胸が鳴る。
提督が淡々と返す。
「揺れました。
揺れるのは生きている証拠です」
久我は楽しそうに言う。
「揺れは、折れる前兆でもある」
提督は笑わない。
「折らないために、私はここにいます」
短い沈黙。
久我は、その沈黙を楽しむように頷いた。
「よろしい。
では、最後に“本人”に挨拶を」
曙の背筋が凍る。
“本人”。
曙たちの視線が一斉に正門の方向へ向く。
⸻
正門。
ハヤトは、いつもの位置に立っていた。
視察隊が近づいても、姿勢は変わらない。
敬礼もしない。
礼儀を知らないわけではない。
ただ、こちらの“儀礼”に合わせる理由がない。
久我が、穏やかな声で言う。
「君が、ハヤトか」
ハヤトは短く答える。
「そうだ」
それだけ。
周囲の護衛が一瞬、ざわつく。
だが久我は気にしない。
「君の能力は興味深い。
この国の防衛において、非常に価値がある」
ハヤトは黙っている。
久我は続ける。
「だからこそ、適切な管理が必要だ。
無秩序は、味方をも傷つける」
曙は歯を噛んだ。
(管理、って言い方……)
提督が前に出る。
「彼は“管理対象”ではありません」
久我が笑みを浮かべる。
「提督、言葉の問題です」
提督は即答する。
「言葉は思想です」
久我は一瞬だけ目を細めた。
「……なるほど。
君は思想家だ」
提督は淡々と返す。
「現場監督です」
久我は肩をすくめ、ハヤトに向き直る。
「君は、どこに属する?」
ハヤトは短く答える。
「属さない」
久我の笑みが少しだけ消える。
「属さない、か。
それは困る」
ハヤトの瞳が、ほんの僅かに冷える。
曙はそれを見て、心臓が鳴った。
(……今、空気が変わった)
葵が、ほんの少しだけ前へ出た。
「……久我さん」
久我が葵を見る。
「何かな」
葵は穏やかな声で言った。
「ここは鎮守府です。
属するかどうかを問うなら、
まず“ここで呼吸できるか”を見てください」
久我は笑った。
「呼吸、ね。
君は詩人か」
葵は笑わない。
「人の話です」
久我は一瞬だけ黙り、
また笑みを作って頷いた。
「いいだろう。
本日の視察はここまで」
護衛が動き出す。
久我は最後に提督に言った。
「提督。
上は“報告”を待っている」
提督は短く頷く。
「必要な報告はする」
久我はさらに言った。
「不要な抵抗は、現場を壊す」
提督は静かに返す。
「不要な命令も、現場を壊す」
久我は笑って、車へ向かった。
⸻
車列が去った後。
鎮守府の空気は、戻ったようで戻っていなかった。
むしろ、誰かが気づいてしまった。
“これで終わりじゃない”。
曙が小さく呟いた。
「……嫌な感じ」
満潮が同意する。
「うん。
“挨拶”だった」
霞がぼそっと言う。
「挨拶だけで人を傷つけるの、才能よね」
時雨が笑わないまま言う。
「才能じゃない。
やり方を覚えた人だよ」
吹雪が小さく息を吐く。
「……また、来ますよね」
長門が低い声で言った。
「来る」
曙が長門を見る。
「……何で分かるのよ」
長門は短く答えた。
「目で見た」
提督の言葉を、そのまま使った。
曙は唇を噛む。
葵が小さく言った。
「……提督さん、盾になってくれた」
曙は反射で言う。
「盾にさせるなって言いたいけど……」
言い切れない。
満潮が曙の言葉の続きを拾う。
「でも、盾にしないと、今度は誰かが折れる」
曙は黙った。
初霜が淡々と結論を言う。
「次は、書面が来ます」
曙がぎょっとする。
「なんで分かるの」
初霜は落ち着いて答えた。
「視察は前置きです。
“記録”を作るための」
時雨が小さく頷く。
「証拠集め。
“現場が危ない”って言うための材料」
霞が舌打ちする。
「最悪」
曙は、正門の方を見る。
ハヤトはいつもの位置に立っている。
変わらない姿勢。
変わらない沈黙。
でも、曙は気づいてしまった。
今日の沈黙は、
昨日までの沈黙と同じ形をしているのに、
違う重さが混じっている。
(……守る沈黙)
誰かを守るために、言葉を飲み込んでいる沈黙。
葵がハヤトの方を見て、小さく息を吐いた。
「……今日は、静かに終わってよかった」
曙はそれを聞いて、胸の奥が冷えた。
“今日は”。
曙は昨日と同じように思った。
(“今日は”って言葉、嫌い)
満潮が曙の耳元で囁く。
「曙、顔が怖い」
「怖くない」
「怖い」
「うるさい!」
でも、否定しきれなかった。
⸻
その夜。
食堂の明かりが少し落ち着いた頃、
白瀬提督は間宮と鳳翔の前で小さく言った。
「……上は、動く」
間宮が不安そうに聞く。
「どの程度、でしょうか」
提督は答えを濁さない。
「手続きを盾にする。
それが一番厄介だ」
鳳翔が静かに言う。
「手続きは、正しい顔をしますから」
提督は頷く。
「だから私は、“人”の顔を守る」
間宮が小さく言った。
「提督……」
提督は短く笑った。
「大丈夫だ。
盾は、まだ折れない」
⸻
廊下の窓から、曙は正門の影を見た。
ハヤトは、今日も立っている。
曙は、小さく呟く。
「……噂より、目で見ろ」
目で見た。
そして、分かってしまった。
次の波は、
“外”から来る。
曙は、まだ決めていない。
でも、目を逸らさない。
それだけでいいと、ハヤトが言った。
提督も、同じことを言った。
――なら。
曙は小さく息を吸って、吐いた。
「……折れるなよ」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。
でも、その夜の沈黙は、
昨日より少しだけ“拒絶”から遠かった。