※この作品はR-18です。

葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー   作:戌威

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第35話 揺さぶりは、静かにくる

 

朝の鎮守府は、いつも通りに始まった。

 

いつも通りに点呼があり、

いつも通りに食堂の湯気が上がり、

いつも通りに工廠の金属音が遠くで鳴る。

 

――“いつも通り”の顔をして。

 

曙は味噌汁をひと口飲んで、喉の奥に残る熱で気づいた。

 

(……嘘くさい)

 

空気は落ち着いているように見えて、

誰もが“変なことを言わないように”している。

 

それは落ち着きじゃない。

緊張の別名だ。

 

隣で満潮が箸を止め、ぼそっと言った。

 

「始まった」

 

曙は睨む。

 

「何が」

 

満潮はあごで示した。

 

視線の先。

食堂の入口に、見慣れない艦娘が立っていた。

制服の整い方が違う。

動きに余計がない。

目が、速い。

 

初霜が紅茶を置いて、小声で言った。

 

「……聞き取り担当です」

 

曙は眉を寄せる。

 

「聞き取り?」

 

潮がびくっとして、声をひそめた。

 

「え、なにそれ……」

 

時雨が肩をすくめる。

 

「“視察の報告”を固めるためのやつ。

現場が不安定って言うには、証言が要るからね」

 

曙の胃がきゅっと縮む。

 

(……最悪)

 

満潮が言った。

 

「書面の前に、空気を作る」

 

曙がぼそっと言う。

 

「……空気を作るって、汚い」

 

霞がどこからか混ざって、低い声で言った。

 

「汚いんじゃない。上手いのよ。ああいう連中」

 

曙は言い返したいのに、言葉が出なかった。

 

“上手い”のが一番嫌だった。

 

⸻

 

担当らしい艦娘が、食堂を見渡した。

視線が次々と席をなぞる。

 

そして、潮のところで止まる。

 

潮が目を伏せた。

 

(……やめて)

 

曙の胸がざわつく。

昨日までなら、曙も目を逸らしていたかもしれない。

 

でも今日は、逸らさなかった。

 

満潮が曙の耳元で囁く。

 

「曙、顔がやばい」

 

「うるさい」

 

「やばい」

 

「やばくない」

 

「やばい」

 

「……うるさい!」

 

その言い合いのせいで、潮が少しだけ息を吐けた。

潮は曙を見て、ほんの少し口角を上げた。

 

曙は慌てて目を逸らす。

 

(……見返すな)

 

照れるから。

 

⸻

 

聞き取り担当は、潮に近づき、丁寧に頭を下げた。

 

「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」

 

潮が固まる。

 

「……えっと……」

 

初霜が静かに言った。

 

「潮。分からないことは分からないでいい。

聞かれたことだけ答えればいい」

 

潮は小さく頷く。

 

「……はい」

 

聞き取り担当はにこやかに言う。

 

「最近、鎮守府内で不安を感じたことはありますか」

 

潮の指が震えた。

 

曙は思わず口を挟みそうになって、

満潮が曙の袖を掴んで止めた。

 

「……待て」

 

「なんで」

 

「潮が答える」

 

曙は唇を噛む。

 

潮は小さく息を吸って、言った。

 

「……不安は、あります」

 

聞き取り担当は頷く。

 

「それは、何が原因でしょう」

 

潮の視線が揺れる。

言葉が喉で詰まる。

 

曙の胸が痛む。

 

(……言えないよね)

 

言った瞬間、何かが決まってしまう。

 

潮はかすれた声で言った。

 

「……最近、空気が……変わったので」

 

担当は、優しい顔で言う。

 

「空気が変わった。

具体的には、どのように?」

 

潮がさらに黙る。

 

ここで、時雨が穏やかに割って入った。

 

「すみません。

“空気が変わった”って言うのは、悪い意味とは限らないんですよね」

 

担当が時雨を見る。

 

「……あなたは?」

 

「時雨です」

 

時雨は笑わずに続ける。

 

「変化はあります。

でもそれは、外から何かが来たからというより、

私たちが“どう扱うか”を迷ってるからです」

 

担当は頷きながらも、言葉を選ぶ。

 

「迷いは、不安定さにつながります」

 

時雨は即答する。

 

「不安定さは、学習にもつながります」

 

担当が一瞬だけ目を細めた。

でも笑顔は崩さない。

 

「……なるほど。

では、あなたは現状を問題と考えませんか?」

 

時雨は首を振る。

 

「問題だと思うなら、もう壊れてます。

壊れてないなら、問題ではなく“過程”です」

 

初霜が淡々と補足する。

 

「必要な過程です」

 

担当は笑みを保ったまま、潮に視線を戻す。

 

「……あなたは、どう思いますか」

 

潮は一度目を閉じて、言った。

 

「……怖い、って思うことはあります。

でも、怖いからって……誰かを悪く言いたくないです」

 

曙は息を止めた。

 

(……潮、言えた)

 

担当は頷く。

 

「ありがとうございます。

では、最後に。

鎮守府の指揮に不安はありますか?」

 

その瞬間、空気が凍った。

 

潮が目を見開く。

 

(……そう来る)

 

質問が、潮の問題じゃなくなった。

 

“提督の問題”にされる。

 

曙が立ち上がりかけた瞬間、

長門の低い声が食堂に落ちた。

 

「その質問は、意図が悪い」

 

全員の視線が長門に集まる。

 

担当は笑みを崩さず言う。

 

「意図、ですか?」

 

長門は堂々と続けた。

 

「不安の原因を探るふりをして、責任の所在を固定しようとしている。

それは調査ではなく誘導だ」

 

担当が一瞬黙る。

 

吹雪が慌てたように小声で言った。

 

「長門さん……!」

 

長門は吹雪を見ずに続けた。

 

「指揮に不安があるかどうかは、

作戦結果と艦娘の状態で判断すべきだ。

感情を引き出して“記録”にするのは、正しい顔をした暴力だ」

 

食堂が静まり返る。

 

担当はやっと笑みを少し薄くして言った。

 

「……貴重なご意見です。

しかし、感情も現場の重要な指標です」

 

長門が即答する。

 

「感情は指標だ。

だが、刃にするな」

 

短い沈黙。

 

担当は丁寧に頭を下げた。

 

「承知しました。

本日の聞き取りは、ここまでとします」

 

担当は去っていった。

 

潮が震える息を吐く。

 

「……こわかった……」

 

曙は思わず言った。

 

「……よく言った」

 

潮が曙を見て、目を丸くする。

 

曙は慌てて付け足した。

 

「私じゃなくて、潮が」

 

満潮が横で言う。

 

「曙、今の言い方、優しい」

 

「うるさい!」

 

初霜が淡々と言った。

 

「長門さんも、よく言いました」

 

長門は腕を組んだまま、低く言う。

 

「当然だ」

 

吹雪が小さく息を吐く。

 

「……私、心臓が口から出るかと思いました」

 

時雨が静かに言う。

 

「でも、言葉にされた。

“揺さぶり”に気づいたってことだ」

 

霞が舌打ちする。

 

「気づいたのに、止められないのが腹立つ」

 

曙は歯を噛んだ。

 

「……止められないなら、折れないだけ」

 

満潮が曙を見る。

 

「それ、昨日までの曙じゃない」

 

曙は顔をしかめる。

 

「昨日までの曙って何よ」

 

「目を逸らす曙」

 

曙は言い返せず、味噌汁を飲んだ。

 

熱かった。

 

⸻

 

昼前。

 

工廠から少し嫌な報告が上がった。

 

間宮が廊下で提督に言う声が聞こえた。

 

「提督、補給品の一部が遅延です」

 

提督は落ち着いて聞き返す。

 

「理由は」

 

「手続き上の確認が必要だそうで……」

 

提督は短く息を吐いた。

 

「……手続き、か」

 

鳳翔が静かに言う。

 

「遅延は、現場の心を削ります」

 

提督は頷いた。

 

「狙い通りだな」

 

その言葉が、曙の背中を冷たくした。

 

(……狙い通り?)

 

“壊しに来てる”。

 

曙は思わず満潮を見た。

 

満潮も同じ顔をしていた。

 

「……ねえ」

 

曙が小声で言う。

 

「これってさ」

 

満潮が頷く。

 

「うん。

書面が来る前に、“鎮守府が不安定”って形を作ってる」

 

曙は唇を噛む。

 

「最低」

 

満潮は短く言った。

 

「でも、提督は気づいてる」

 

曙がぼそっと言う。

 

「気づいてても、止められるの?」

 

満潮は即答しない。

 

代わりに言った。

 

「止めるんじゃなくて、折れない。

折れなければ“形”にならない」

 

曙は拳を握る。

 

「……折れない、ね」

 

その時、葵が廊下の向こうから来た。

歩く速度が、いつもより少し速い。

 

曙が呼ぶ。

 

「葵」

 

葵は足を止めて微笑む。

 

「どうしたの?」

 

曙は言葉を探して、結局ぶっきらぼうに言った。

 

「……今日、変なのが来てた」

 

葵は一瞬だけ目を伏せる。

 

「うん。見た」

 

満潮が言う。

 

「聞き取り。物資遅延。

たぶん、これからも」

 

葵は頷く。

 

「たぶんね」

 

曙が思わず言う。

 

「……怖い?」

 

葵は少しだけ笑った。

 

「怖いよ」

 

曙は胸がきゅっとなる。

 

葵は続ける。

 

「でも、怖いって言える方が、まだ大丈夫」

 

曙は小さく息を吐いた。

 

「……じゃあ、まだ大丈夫か」

 

満潮が横で言った。

 

「曙、今の、完全に“味方の言い方”」

 

曙が睨む。

 

「やめろ」

 

「褒めてる」

 

「褒めるな」

 

葵は二人を見て、小さく笑った。

 

「……二人がそうやって話してるの、助かる」

 

曙が顔を逸らす。

 

「別に、助けてない」

 

葵は穏やかに言った。

 

「助けてるよ。

“普通に言い合える”って、空気を壊さないから」

 

曙は返せなかった。

 

⸻

 

夕方。

 

正門の方が、また少し硬い。

 

ハヤトはいつも通り立っている。

けれど今日は、曙は分かってしまう。

 

視線の動きが少ない。

無駄がない。

“警戒”が静かに濃い。

 

曙がぽつりと言った。

 

「……あいつ、気づいてる」

 

満潮が頷く。

 

「うん。たぶん全部」

 

霞が合流して、ぼそっと言う。

 

「だったら、何とかしてよ」

 

曙が言い返す。

 

「何とかって何よ」

 

霞は苛立った顔で言う。

 

「“上の連中”に、噛みついて追い返すとか」

 

満潮が即座に否定する。

 

「それやったら、向こうの思う壺。

“危険”の証拠ができる」

 

霞が舌打ちした。

 

「……最悪」

 

時雨が静かに言った。

 

「最悪なのは、“反応させようとしてる”こと」

 

長門が低い声で言う。

 

「反応しなければいい」

 

吹雪が小さく言う。

 

「でも……反応しないって、難しいです」

 

曙はぼそっと言った。

 

「……そう。難しい」

 

葵が少し遅れて合流し、正門の方を見た。

 

「……今日は、話しかけない方がいいかも」

 

曙が眉を寄せる。

 

「なんで」

 

葵は小さく息を吐く。

 

「今は、外に向いてる。

私たちに向ける余裕が、少ない」

 

曙は納得したくないのに、納得してしまった。

 

(……余裕)

 

余裕が削られているのは、鎮守府全体だ。

 

⸻

 

夜。

 

食堂の明かりが落ち着き、

間宮と鳳翔が片付けを終えた頃、

白瀬提督がひとりで工廠に寄った。

 

そこにいたのは明石と夕張だった。

 

「提督さん、どうしたの? こんな時間に」

 

「顔が硬いよ、提督。何かあった?」

 

提督は短く言った。

 

「……先に手を打っておきたい」

 

明石が首を傾げる。

 

「手? 何の?」

 

提督は一拍置いて答えた。

 

「“備え”だ。

上がどう動いても、現場が崩れないように」

 

夕張が目を細める。

 

「具体的に言ってくれないと、作れないよ?」

 

提督は言った。

 

「ハヤトの行動範囲が制限される可能性がある」

 

明石が眉を上げる。

 

「制限? それは困るね」

 

夕張がすぐに理解した顔になる。

 

「……もし彼が動けないなら、

私たちが彼を“守れる形”を増やす必要がある」

 

提督は頷いた。

 

「そういうことだ」

 

明石がにやっとする。

 

「じゃあ、簡易装備……いける?」

 

夕張が腕を組む。

 

「いけるけど、条件がある。

彼の身体特性に合わせるなら、素材と設計の情報が必要」

 

提督は短く言った。

 

「葵と相談してくれ。

彼女なら、彼の“無理のない形”を知っている」

 

明石が小さく頷いた。

 

「了解。

こっそりやる? それとも正式に?」

 

提督は少しだけ笑った。

 

「正式にやると止められる。

だから、まずは形にする」

 

夕張が目を細める。

 

「つまり……来るんだね、“書面”」

 

提督は否定しなかった。

 

「……来る」

 

明石がため息をついてから、笑った。

 

「じゃあ、作ろう。

“壊されないための道具”」

 

提督は深く頷いた。

 

「頼む」

 

⸻

 

その夜、曙は部屋で天井を見ていた。

 

今日一日で分かったことがある。

 

“揺さぶり”は、殴ってこない。

優しい顔で質問する。

手続きで遅らせる。

言葉で切る。

 

そして、人を疲れさせる。

 

曙は小さく息を吐いた。

 

(……折れるな)

 

提督に言ったのか、

自分に言ったのか、

それとも、誰かに言ったのか。

 

答えは分からない。

 

ただ、明日も波の音は鳴る。

工廠の金属音も鳴る。

食堂の湯気も上がる。

 

そして、たぶん――

 

“書面”が来る。

 

曙は目を閉じた。

 

怖い。

でも、目は逸らさない。

 

それだけでいいと、昨日言われたから。

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