葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の鎮守府は、いつも通りに始まった。
いつも通りに点呼があり、
いつも通りに食堂の湯気が上がり、
いつも通りに工廠の金属音が遠くで鳴る。
――“いつも通り”の顔をして。
曙は味噌汁をひと口飲んで、喉の奥に残る熱で気づいた。
(……嘘くさい)
空気は落ち着いているように見えて、
誰もが“変なことを言わないように”している。
それは落ち着きじゃない。
緊張の別名だ。
隣で満潮が箸を止め、ぼそっと言った。
「始まった」
曙は睨む。
「何が」
満潮はあごで示した。
視線の先。
食堂の入口に、見慣れない艦娘が立っていた。
制服の整い方が違う。
動きに余計がない。
目が、速い。
初霜が紅茶を置いて、小声で言った。
「……聞き取り担当です」
曙は眉を寄せる。
「聞き取り?」
潮がびくっとして、声をひそめた。
「え、なにそれ……」
時雨が肩をすくめる。
「“視察の報告”を固めるためのやつ。
現場が不安定って言うには、証言が要るからね」
曙の胃がきゅっと縮む。
(……最悪)
満潮が言った。
「書面の前に、空気を作る」
曙がぼそっと言う。
「……空気を作るって、汚い」
霞がどこからか混ざって、低い声で言った。
「汚いんじゃない。上手いのよ。ああいう連中」
曙は言い返したいのに、言葉が出なかった。
“上手い”のが一番嫌だった。
⸻
担当らしい艦娘が、食堂を見渡した。
視線が次々と席をなぞる。
そして、潮のところで止まる。
潮が目を伏せた。
(……やめて)
曙の胸がざわつく。
昨日までなら、曙も目を逸らしていたかもしれない。
でも今日は、逸らさなかった。
満潮が曙の耳元で囁く。
「曙、顔がやばい」
「うるさい」
「やばい」
「やばくない」
「やばい」
「……うるさい!」
その言い合いのせいで、潮が少しだけ息を吐けた。
潮は曙を見て、ほんの少し口角を上げた。
曙は慌てて目を逸らす。
(……見返すな)
照れるから。
⸻
聞き取り担当は、潮に近づき、丁寧に頭を下げた。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
潮が固まる。
「……えっと……」
初霜が静かに言った。
「潮。分からないことは分からないでいい。
聞かれたことだけ答えればいい」
潮は小さく頷く。
「……はい」
聞き取り担当はにこやかに言う。
「最近、鎮守府内で不安を感じたことはありますか」
潮の指が震えた。
曙は思わず口を挟みそうになって、
満潮が曙の袖を掴んで止めた。
「……待て」
「なんで」
「潮が答える」
曙は唇を噛む。
潮は小さく息を吸って、言った。
「……不安は、あります」
聞き取り担当は頷く。
「それは、何が原因でしょう」
潮の視線が揺れる。
言葉が喉で詰まる。
曙の胸が痛む。
(……言えないよね)
言った瞬間、何かが決まってしまう。
潮はかすれた声で言った。
「……最近、空気が……変わったので」
担当は、優しい顔で言う。
「空気が変わった。
具体的には、どのように?」
潮がさらに黙る。
ここで、時雨が穏やかに割って入った。
「すみません。
“空気が変わった”って言うのは、悪い意味とは限らないんですよね」
担当が時雨を見る。
「……あなたは?」
「時雨です」
時雨は笑わずに続ける。
「変化はあります。
でもそれは、外から何かが来たからというより、
私たちが“どう扱うか”を迷ってるからです」
担当は頷きながらも、言葉を選ぶ。
「迷いは、不安定さにつながります」
時雨は即答する。
「不安定さは、学習にもつながります」
担当が一瞬だけ目を細めた。
でも笑顔は崩さない。
「……なるほど。
では、あなたは現状を問題と考えませんか?」
時雨は首を振る。
「問題だと思うなら、もう壊れてます。
壊れてないなら、問題ではなく“過程”です」
初霜が淡々と補足する。
「必要な過程です」
担当は笑みを保ったまま、潮に視線を戻す。
「……あなたは、どう思いますか」
潮は一度目を閉じて、言った。
「……怖い、って思うことはあります。
でも、怖いからって……誰かを悪く言いたくないです」
曙は息を止めた。
(……潮、言えた)
担当は頷く。
「ありがとうございます。
では、最後に。
鎮守府の指揮に不安はありますか?」
その瞬間、空気が凍った。
潮が目を見開く。
(……そう来る)
質問が、潮の問題じゃなくなった。
“提督の問題”にされる。
曙が立ち上がりかけた瞬間、
長門の低い声が食堂に落ちた。
「その質問は、意図が悪い」
全員の視線が長門に集まる。
担当は笑みを崩さず言う。
「意図、ですか?」
長門は堂々と続けた。
「不安の原因を探るふりをして、責任の所在を固定しようとしている。
それは調査ではなく誘導だ」
担当が一瞬黙る。
吹雪が慌てたように小声で言った。
「長門さん……!」
長門は吹雪を見ずに続けた。
「指揮に不安があるかどうかは、
作戦結果と艦娘の状態で判断すべきだ。
感情を引き出して“記録”にするのは、正しい顔をした暴力だ」
食堂が静まり返る。
担当はやっと笑みを少し薄くして言った。
「……貴重なご意見です。
しかし、感情も現場の重要な指標です」
長門が即答する。
「感情は指標だ。
だが、刃にするな」
短い沈黙。
担当は丁寧に頭を下げた。
「承知しました。
本日の聞き取りは、ここまでとします」
担当は去っていった。
潮が震える息を吐く。
「……こわかった……」
曙は思わず言った。
「……よく言った」
潮が曙を見て、目を丸くする。
曙は慌てて付け足した。
「私じゃなくて、潮が」
満潮が横で言う。
「曙、今の言い方、優しい」
「うるさい!」
初霜が淡々と言った。
「長門さんも、よく言いました」
長門は腕を組んだまま、低く言う。
「当然だ」
吹雪が小さく息を吐く。
「……私、心臓が口から出るかと思いました」
時雨が静かに言う。
「でも、言葉にされた。
“揺さぶり”に気づいたってことだ」
霞が舌打ちする。
「気づいたのに、止められないのが腹立つ」
曙は歯を噛んだ。
「……止められないなら、折れないだけ」
満潮が曙を見る。
「それ、昨日までの曙じゃない」
曙は顔をしかめる。
「昨日までの曙って何よ」
「目を逸らす曙」
曙は言い返せず、味噌汁を飲んだ。
熱かった。
⸻
昼前。
工廠から少し嫌な報告が上がった。
間宮が廊下で提督に言う声が聞こえた。
「提督、補給品の一部が遅延です」
提督は落ち着いて聞き返す。
「理由は」
「手続き上の確認が必要だそうで……」
提督は短く息を吐いた。
「……手続き、か」
鳳翔が静かに言う。
「遅延は、現場の心を削ります」
提督は頷いた。
「狙い通りだな」
その言葉が、曙の背中を冷たくした。
(……狙い通り?)
“壊しに来てる”。
曙は思わず満潮を見た。
満潮も同じ顔をしていた。
「……ねえ」
曙が小声で言う。
「これってさ」
満潮が頷く。
「うん。
書面が来る前に、“鎮守府が不安定”って形を作ってる」
曙は唇を噛む。
「最低」
満潮は短く言った。
「でも、提督は気づいてる」
曙がぼそっと言う。
「気づいてても、止められるの?」
満潮は即答しない。
代わりに言った。
「止めるんじゃなくて、折れない。
折れなければ“形”にならない」
曙は拳を握る。
「……折れない、ね」
その時、葵が廊下の向こうから来た。
歩く速度が、いつもより少し速い。
曙が呼ぶ。
「葵」
葵は足を止めて微笑む。
「どうしたの?」
曙は言葉を探して、結局ぶっきらぼうに言った。
「……今日、変なのが来てた」
葵は一瞬だけ目を伏せる。
「うん。見た」
満潮が言う。
「聞き取り。物資遅延。
たぶん、これからも」
葵は頷く。
「たぶんね」
曙が思わず言う。
「……怖い?」
葵は少しだけ笑った。
「怖いよ」
曙は胸がきゅっとなる。
葵は続ける。
「でも、怖いって言える方が、まだ大丈夫」
曙は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、まだ大丈夫か」
満潮が横で言った。
「曙、今の、完全に“味方の言い方”」
曙が睨む。
「やめろ」
「褒めてる」
「褒めるな」
葵は二人を見て、小さく笑った。
「……二人がそうやって話してるの、助かる」
曙が顔を逸らす。
「別に、助けてない」
葵は穏やかに言った。
「助けてるよ。
“普通に言い合える”って、空気を壊さないから」
曙は返せなかった。
⸻
夕方。
正門の方が、また少し硬い。
ハヤトはいつも通り立っている。
けれど今日は、曙は分かってしまう。
視線の動きが少ない。
無駄がない。
“警戒”が静かに濃い。
曙がぽつりと言った。
「……あいつ、気づいてる」
満潮が頷く。
「うん。たぶん全部」
霞が合流して、ぼそっと言う。
「だったら、何とかしてよ」
曙が言い返す。
「何とかって何よ」
霞は苛立った顔で言う。
「“上の連中”に、噛みついて追い返すとか」
満潮が即座に否定する。
「それやったら、向こうの思う壺。
“危険”の証拠ができる」
霞が舌打ちした。
「……最悪」
時雨が静かに言った。
「最悪なのは、“反応させようとしてる”こと」
長門が低い声で言う。
「反応しなければいい」
吹雪が小さく言う。
「でも……反応しないって、難しいです」
曙はぼそっと言った。
「……そう。難しい」
葵が少し遅れて合流し、正門の方を見た。
「……今日は、話しかけない方がいいかも」
曙が眉を寄せる。
「なんで」
葵は小さく息を吐く。
「今は、外に向いてる。
私たちに向ける余裕が、少ない」
曙は納得したくないのに、納得してしまった。
(……余裕)
余裕が削られているのは、鎮守府全体だ。
⸻
夜。
食堂の明かりが落ち着き、
間宮と鳳翔が片付けを終えた頃、
白瀬提督がひとりで工廠に寄った。
そこにいたのは明石と夕張だった。
「提督さん、どうしたの? こんな時間に」
「顔が硬いよ、提督。何かあった?」
提督は短く言った。
「……先に手を打っておきたい」
明石が首を傾げる。
「手? 何の?」
提督は一拍置いて答えた。
「“備え”だ。
上がどう動いても、現場が崩れないように」
夕張が目を細める。
「具体的に言ってくれないと、作れないよ?」
提督は言った。
「ハヤトの行動範囲が制限される可能性がある」
明石が眉を上げる。
「制限? それは困るね」
夕張がすぐに理解した顔になる。
「……もし彼が動けないなら、
私たちが彼を“守れる形”を増やす必要がある」
提督は頷いた。
「そういうことだ」
明石がにやっとする。
「じゃあ、簡易装備……いける?」
夕張が腕を組む。
「いけるけど、条件がある。
彼の身体特性に合わせるなら、素材と設計の情報が必要」
提督は短く言った。
「葵と相談してくれ。
彼女なら、彼の“無理のない形”を知っている」
明石が小さく頷いた。
「了解。
こっそりやる? それとも正式に?」
提督は少しだけ笑った。
「正式にやると止められる。
だから、まずは形にする」
夕張が目を細める。
「つまり……来るんだね、“書面”」
提督は否定しなかった。
「……来る」
明石がため息をついてから、笑った。
「じゃあ、作ろう。
“壊されないための道具”」
提督は深く頷いた。
「頼む」
⸻
その夜、曙は部屋で天井を見ていた。
今日一日で分かったことがある。
“揺さぶり”は、殴ってこない。
優しい顔で質問する。
手続きで遅らせる。
言葉で切る。
そして、人を疲れさせる。
曙は小さく息を吐いた。
(……折れるな)
提督に言ったのか、
自分に言ったのか、
それとも、誰かに言ったのか。
答えは分からない。
ただ、明日も波の音は鳴る。
工廠の金属音も鳴る。
食堂の湯気も上がる。
そして、たぶん――
“書面”が来る。
曙は目を閉じた。
怖い。
でも、目は逸らさない。
それだけでいいと、昨日言われたから。