葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝の海は静かだった。
静かすぎるのが、かえって不安を連れてくる。
鎮守府の廊下を、伝令役の艦娘が走る。
走り方が、いつもより“急ぎ”を隠していない。
「白瀬提督に、至急の書面です!」
その声が聞こえた瞬間、曙の背中がぞくっとした。
(……来た)
満潮が曙の横で小さく言った。
「来たね」
曙は返せずに、舌打ちだけした。
霞が腕を組んだまま、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「やっと本性出した」
時雨は笑わない。
「本性というより、予定通り」
初霜が淡々と付け足した。
「前置きが終わっただけです」
曙が初霜を睨む。
「言い方」
「事実です」
言い合っているうちに、伝令役の足音は提督室の前で止まった。
扉がノックされ、すぐに開く。
「失礼します!」
一礼、書面を差し出す。
厚みのある封筒。角が揃いすぎている。
白瀬提督の声が、落ち着いたまま返る。
「受領する」
扉が閉まる。
その瞬間、廊下の空気が一段だけ重くなった。
⸻
食堂では、いつもの湯気が上がっていた。
だが、箸の音が少ない。
誰も大声で笑わない。
噂は回っていた。
“書面が来た”。
誰が言い始めたのか分からない。
でも、こういうのは広がるのが早い。
曙は味噌汁を飲みながら、無意識に入口を見ていた。
満潮が小声で言う。
「曙、入口見すぎ」
「見てない」
「見てる」
「……うるさい」
潮が不安そうに言った。
「命令書、かな……」
初霜が頷く。
「可能性が高いです」
吹雪が箸を持つ手を止めた。
「……命令書って、拒否できないんですか」
長門が低い声で答える。
「拒否はできる。
だが、拒否は“対立”として扱われる」
霞が鼻で笑う。
「対立上等って言いたいけど、そう言った瞬間に“証拠”になるのよね」
時雨が静かに言う。
「そう。反応を取るための紙だよ」
曙は唇を噛んだ。
(紙一枚で、人を動かす)
嫌な世界だ。
そこへ葵が入ってきた。
いつも通り穏やかに見える。
でも、目の奥が少しだけ硬い。
曙が、反射で呼んだ。
「……葵」
葵は曙を見て、微笑む。
「おはよう」
曙は小さく返す。
「……おはよう」
満潮がぼそっと言った。
「今の、普通」
曙が睨む。
「黙れ」
葵は席に座る前に、少しだけ周囲を見渡した。
「……来たんだね」
誰も聞き返さなかった。
“何が”か、みんな分かっている。
葵は小さく息を吐いた。
「提督さん、呼ばれるかも」
曙の胸がきゅっと縮む。
「……何で分かるの」
葵は視線を落とす。
「こういう紙は、必ず“確認”が付くから」
⸻
午前、提督室。
白瀬提督は封筒を開け、書面を机の上に置いた。
紙質が良い。印字が鮮明。
文字が、やけに整っている。
読めば読むほど、温度が下がる。
書面の題はこうだった。
「特異戦力の管理及び移管に関する命令」
提督は息を吐いた。
吐いた息が、紙に落ちない。
扉がノックされる。
「入れ」
入ってきたのは間宮と鳳翔だった。
二人とも、表情が揺れていない。
揺れていないのに、目が心配している。
間宮が小声で言う。
「……来たんですね」
提督は頷く。
「来た」
鳳翔が静かに尋ねる。
「内容は……」
提督は紙の一部を指で押さえ、淡々と読み上げた。
読み上げる声が穏やかなのが、逆に怖い。
「――呉鎮守府所属の特異戦力『ハヤト』を、参謀本部直轄運用下に置く。
当該戦力の移管手続きを、〇日〇時までに完了せよ」
間宮の指が震えた。
「直轄……」
提督は続けた。
「――移管完了までの間、当該戦力の行動を制限する。
単独行動禁止。武装状態での移動禁止。警備配置は解除。
必要な場合は参謀本部派遣要員の立会いのもとで実施」
鳳翔の眉がわずかに動く。
「警備配置解除……」
提督は紙をめくる。
「――同伴者『葵』は、当該戦力の管理上の補助対象とみなし、移管までの間は行動記録を提出。
必要に応じて、参謀本部派遣要員が事情聴取を行う」
間宮が息を飲む。
「事情聴取……」
提督は紙を机に置いた。
「丁寧な言葉で、鎮守府の“日常”を解体しに来ている」
鳳翔が静かに言う。
「……拒否されますか」
提督はすぐ答えなかった。
答えなかったが、迷っている沈黙ではない。
「拒否すれば、次は“執行”になる」
間宮が苦しそうに言う。
「執行……」
提督は目を上げた。
「向こうの狙いは、正義の顔をした武力だ」
鳳翔の声が低くなる。
「なら、こちらは……」
提督は短く言った。
「こちらは“現場の正しさ”で守る。
“命令違反”にされない形で、守る」
間宮が言う。
「そんなこと、できるんですか……?」
提督は穏やかに笑った。
「できるようにする。
そのために、明石と夕張に話を通した」
鳳翔が頷く。
「備えですね」
「備えだ。
そして、言葉の盾だ」
提督は紙を指で叩いた。
「この紙は、こちらが怒って暴れた瞬間に勝つ。
だから、怒り方を選ぶ」
⸻
一方、廊下。
曙たちは提督室の前に集まっていた。
集まっているのに、誰も「集まった」とは言わない。
吹雪が小声で言う。
「……みんな、堂々としすぎです……」
霞が即答する。
「堂々としてない。開き直ってるだけ」
満潮がぼそっと言う。
「吹雪、声小さい」
「だって……聞こえたら……」
時雨が穏やかに言う。
「聞こえてもいいんだよ。
聞こえたら聞こえたで、“何もしてない”って言えばいい」
曙が睨む。
「その“何もしてない”が一番疲れるのよ」
長門が腕を組んだまま言った。
「疲れるのは、逃げ道を探すからだ」
曙が反射で返す。
「逃げ道いるでしょ!」
長門は即答。
「いる。だが、逃げ道に住むな」
曙は言い返せず、舌打ちだけした。
その時、扉が開いた。
白瀬提督が出てくる。
全員、反射的に姿勢を正しそうになって、
それを必死で誤魔化す。
提督は一瞬だけ全員を見渡し、穏やかに言った。
「……話がある。長門、吹雪、曙、満潮、潮、初霜、時雨、霞。
それと、間宮さん、鳳翔さんも」
吹雪が小さく震えた。
「は、はい……!」
曙は心の中で叫んだ。
(やっぱり呼ばれた!)
満潮が耳元で囁く。
「曙、顔がすごい」
「黙れ」
⸻
会議室。
提督が全員を座らせ、紙を机の上に置いた。
その紙が、鎮守府の空気をさらに重くした。
提督は淡々と言う。
「正式命令が来た」
霞が腕を組む。
「……見れば分かる」
提督は続ける。
「内容は“移管”。
ハヤトを参謀本部直轄にする」
吹雪が息を呑む。
長門の目が細くなる。
曙は口を開いた。
「……ふざけてる」
言った瞬間、全員が曙を見た。
曙は気まずくなって言い足す。
「……ふざけてる、と思います」
満潮がぼそっと言った。
「丁寧に言い直した」
曙が睨む。
「黙れ!」
提督は曙を責めない。
ただ頷いた。
「ふざけている。
だが、紙は紙だ。破ると、向こうが喜ぶ」
潮が小さく言う。
「……じゃあ、どうするんですか」
提督は静かに答えた。
「まず、鎮守府としての回答を作る。
拒否ではなく、“条件の提示”だ」
初霜が即座に理解する。
「命令の枠内で、現場裁量を最大化する」
「そうだ」
時雨が言う。
「条件って、例えば?」
提督は紙を指で押さえる。
「移管期限の延期。
“現場安定化のため”という理由で、段階的移管にする」
霞が鼻で笑う。
「向こうが飲む?」
提督は淡々と言う。
「飲ませる。
向こうが飲むように、“正しい形”を作る」
鳳翔が静かに言った。
「言葉の戦い、ですね」
「そうだ」
提督は全員を見渡す。
「そして、もうひとつ。
この期間、絶対に“証拠”を作るな」
曙が眉を寄せる。
「証拠?」
提督は目を細める。
「『鎮守府が制御できていない』という証拠だ。
喧嘩、暴力、無断行動、口答え。
全部、向こうの餌になる」
長門が低く言う。
「……口答えは、私の得意分野だが」
吹雪が慌てる。
「長門さん……!」
提督が少しだけ笑った。
「長門の口答えは、論理だから問題ない。
問題なのは“感情で殴る”口答えだ」
曙がむっとした。
「私、殴らないし」
満潮が即答。
「言葉で殴る」
「黙れ!」
時雨がくすっと笑う。
「でも、曙の“殴り”は味方を起こすから、悪くない」
曙は顔を赤くしそうになって、机を指で叩いた。
「……話戻して!」
提督は頷く。
「戻そう。
問題は“移管される本人”だ」
その瞬間、会議室が静まり返った。
葵とハヤトの顔が、全員の頭に浮かぶ。
潮が小さく言う。
「……葵さんは、知ってるんですか」
提督は首を振った。
「まだ伝えていない。
私が伝える。
伝え方を間違えると、鎮守府が壊れる」
曙の喉が詰まった。
(壊れる)
提督は、はっきり言った。
この紙は、壊しに来ている。
⸻
会議後、廊下。
曙は歩きながら、つい口を滑らせた。
「……連れていく気なんだ」
満潮が頷く。
「そう見える」
霞が低い声で言う。
「連れていくっていうか、“取り上げる”」
吹雪が震える声で言う。
「取り上げる……そんな……」
長門が言った。
「戦力と見れば、そうなる」
曙は歯を噛む。
「……人だって言ってるのに」
時雨が静かに言う。
「だから提督が盾になる。
でも、盾が折れないためには、後ろの私たちが崩れないこと」
初霜が淡々と続ける。
「一致団結、ではありません。
“普段通り”です。
普段通りができれば、崩れません」
曙は小さく息を吐いた。
「……普段通りって、一番難しい」
満潮がぼそっと言った。
「だから、曙がいる」
曙が睨む。
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
曙は言い返せず、廊下の窓から正門を見た。
ハヤトは、今日も立っている。
変わらない姿。
変わらない沈黙。
でも、曙には分かる。
今日の沈黙は、昨日より重い。
“外”の匂いを嗅いでいる沈黙だ。
(……気づいてる)
葵は、どこにいる。
今、この紙のことを知らない。
その事実が、曙の胸を冷やした。
⸻
夕方、提督室。
葵が呼ばれ、扉の前に立っていた。
ノックの音が小さく響く。
「入っていい?」
「どうぞ」
葵が入ると、提督は立ち上がり、机の上の紙を隠しもしなかった。
隠すと余計に壊れる。
葵は紙を見て、表情がわずかに硬くなる。
「……来たんですね」
提督は頷いた。
「来た」
葵は一度息を吸って、落ち着いた声で言う。
「内容は?」
提督は淡々と答える。
「移管命令。
そして、君への事情聴取と行動記録提出も含まれる」
葵の指先が震えた。
それでも声は崩さない。
「……ハヤトは」
提督は少しだけ間を置いた。
「今はまだ、知らない。
だが、必ず知る。
だから、先に君に伝えた」
葵は小さく笑ってしまった。
「……順番が優しいですね」
提督は穏やかに言う。
「君は、鎮守府の空気を壊さない。
だから、君から壊れないようにしたい」
葵は目を伏せた。
「私、壊れません」
提督は即答する。
「壊れる人ほど、そう言う」
葵は苦笑して、言い返せなかった。
提督は言った。
「君に頼みたい。
ハヤトに伝える前に、君の言葉を整理してほしい」
葵は頷く。
「……分かりました」
提督は紙を指で押さえ、静かに言う。
「これは紙だ。
紙は人を動かす。
だが、人が紙に食われてはいけない」
葵は小さく頷いた。
「……はい」
⸻
夜。
曙は自室で天井を見ていた。
眠れないのは、久しぶりじゃない。
でも今日は、眠れない理由が“紙”なのが腹立たしい。
(紙一枚で)
隣の部屋から、誰かの笑い声が聞こえた。
小さくて、すぐ消える。
(……普段通り)
難しい。
でも、それが盾になるなら。
曙は小さく呟いた。
「……折れるな」
誰に向けた言葉か分からない。
でも、きっと必要な言葉だった。
窓の外。
正門の方角は暗い。
そこに立つ影は、きっと今日も動かない。
そして――
この紙が、明日から“現実”になる。