葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
その日の朝、呉鎮守府の空はよく晴れていた。
空が晴れている日は、決まって嫌なことが起きる。
――曙の中では、そういうジンクスができつつあった。
食堂の湯気はいつも通り。
間宮の手際も、鳳翔の落ち着きも変わらない。
でも、誰かが“時間”を気にしている。
箸の動きが早い。
会話が短い。
笑い声が、すぐ止まる。
曙は味噌汁を飲んで、机にカップを置いた。
「……もう来てる」
満潮が箸を止める。
「何が」
「空気」
満潮は曙の顔を見て、少しだけ笑った。
「曙が言うと説得力ある」
「褒めてないでしょ、それ」
「褒めてる」
「やめて」
⸻
入口が開き、白瀬提督が入ってきた。
いつも通り「おはよう」。
いつも通り返事が揃う。
でも今日は、提督の足が止まる場所が違う。
食堂の中央でなく、
壁際――伝令が来た時にすぐ出られる位置。
それだけで分かる。
(……朝から、ずっと来てる)
提督は短く言った。
「食事のあと、主要メンバーは会議室へ」
長門が即答する。
「了解」
加賀が静かに頷く。
翔鶴も。
赤城も。
瑞鶴は眉を寄せたが、何も言わない。
曙は箸を握り直した。
“主要メンバー”。
その括りに、自分が入っているのがまだ落ち着かない。
でも、逃げ道に住むわけにはいかない。
満潮がぼそっと言う。
「曙、顔が固い」
「固くない」
「固い」
「……うるさい」
⸻
会議室には、昨日より多くの中枢が揃っていた。
戦艦:長門、陸奥。
空母:赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴。
駆逐:曙、満潮、吹雪、時雨、霞、初霜、潮。
支援:間宮、鳳翔。
工廠:明石、夕張。
そして白瀬提督。
提督は机の上に二枚の紙を置いた。
一枚は昨日の命令書の写し。
もう一枚は、追加通達。
紙の角が揃いすぎている。
提督は淡々と読み上げた。
「移管期限の前倒し。
そして、行動制限の強化」
曙の心臓が鳴る。
「――当該戦力『ハヤト』は、即時、鎮守府内の警備配置を解除。
沿岸哨戒など鎮守府外に出る任務は、参謀本部派遣要員の立会いがない限り禁止」
瑞鶴が思わず机を叩きそうになって、ギリギリで止めた。
「……は?」
加賀が静かに言う。
「外に出さない。中に縛る」
長門が低く言った。
「鎮守府の盾を外す命令だ。愚かだ」
吹雪が小さく震える。
「警備を解除したら……正門が……」
曙は口を開く。
「……誰が決めるのよ。現場の警備を」
提督は曙を見る。責めない目。
「だから、こちらが“別の理由”を立てる」
時雨が聞く。
「別の理由?」
提督は淡々と言った。
「沿岸哨戒は継続する。
名目は“通常訓練”だ」
霞が目を細くする。
「でも命令で禁止って言ってるじゃない」
提督は紙の文言を指で押さえる。
「禁止条件は“立会いがない限り”だ。
つまり、立会いを用意すればいい」
部屋が静まる。
瑞鶴が目を見開く。
「まさか……上の立会いを受け入れるの?」
提督は首を振った。
「受け入れない。
“こちらの立会い”を立会いにする」
初霜が即座に理解する。
「派遣要員、ではなく“鎮守府の立会い”を用意して、運用を継続する」
提督が頷く。
「そう。
あくまで命令の趣旨は“事故防止”だと向こうは言う。
なら、事故防止の立会いは鎮守府側でも成立する」
加賀が静かに言う。
「言葉の戦いですね」
「そうだ」
明石が手を挙げた。
「じゃあ、その立会いの“安全具”が必要だよね?
昨日の簡易装備、ここで効く!」
夕張が補足する。
「“安全保持ハーネス”と“簡易装甲プレート”、試作はもう渡せる」
曙が思わず言った。
「……早い」
夕張が小さく笑う。
「工廠は、こういう時だけ速い」
明石が胸を張る。
「こういう時こそ速い!」
陸奥がふっと笑った。
「頼もしいわね」
⸻
提督は次の紙を指で叩く。
「そしてもう一つ。
参謀本部から“監察補助要員”が入る」
潮が小さく息を呑む。
「また……」
翔鶴が穏やかに言った。
「落ち着いて。入るのは“入る”。でも、空気は渡さない」
瑞鶴が不満げに言う。
「空気って渡すものじゃないでしょ」
加賀が静かに返す。
「渡すものだ。
喋り方、立ち位置、視線、沈黙。
全部“空気”として奪われる」
瑞鶴は口を閉じた。
納得したくない顔で、納得してしまった顔。
曙は小さく息を吐く。
(……中枢って、こういう時に崩れないんだ)
提督が言った。
「今日から数日、鎮守府は“試される”」
長門が低く言う。
「試されるのは向こうだ」
提督が頷く。
「そうだ。だが、こちらは折れない。
折れないために、役割を決める」
提督は視線を巡らせた。
「長門、正門の指揮。吹雪、現場連絡の統制。
赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴――空母組は“空気の支え”として、各部署に配置」
赤城が微笑む。
「了解です。空気は任せてください」
加賀が静かに頷く。
「余計な噂は切ります」
翔鶴が柔らかく言う。
「皆が呼吸できるように整えます」
瑞鶴が腕を組む。
「……やるしかないか」
陸奥が笑って言う。
「やるのよ。やるしかないんじゃなくて」
瑞鶴が少しだけ笑った。
「はいはい」
提督が続ける。
「明石、夕張。装備は“安全補助具”として登録できる形に整えてくれ。
書類は鳳翔さんと間宮さんに相談して」
鳳翔が頷く。
「承知しました。言葉を整えます」
間宮も頷く。
「食堂側の動線も変えますね。
余計な接触が起きないように」
曙がぼそっと言う。
「食堂まで戦場……」
時雨が優しく言った。
「戦場じゃない。守る場所だよ」
曙は返せずに、目を逸らした。
⸻
会議が終わる直前、提督が一拍置いた。
「最後に、一番大事なこと」
全員が提督を見る。
「ハヤトは、今、沿岸哨戒に出ている」
曙の心臓が跳ねた。
「……え?」
満潮が小声で言う。
「今朝、出た。立会い付きで」
提督が頷く。
「鎮守府外での任務を禁止される前に、必要なデータを取る。
そして、鎮守府の“普段”を守るために、彼を外に出した」
瑞鶴が眉を寄せる。
「……外に出すの、逆に危なくない?」
加賀が静かに言う。
「不在の時間ができる」
翔鶴が続ける。
「空気の穴になります」
曙の胸がきゅっと縮む。
(……不在)
その言葉が、嫌な未来を連れてくる。
提督は淡々と言った。
「だから、穴を埋める。
今日から数日、正門は“鎮守府の正門”で守る」
長門が頷いた。
「任せろ」
吹雪が小さく言う。
「私、頑張ります」
曙はぼそっと言った。
「……頑張るって言うな。折れる」
吹雪が目を丸くする。
「えっ……」
曙は慌てて言い直した。
「……頑張るのはいいけど、無理するな」
吹雪が少し笑った。
「……はい」
満潮が曙の耳元で囁く。
「曙、優しい」
「黙れ!」
⸻
工廠。
夕張は試作品を机に並べていた。
明石は留め具を調整しながら、珍しく真面目な顔。
「これ、いつ渡す?」
明石の問いに、夕張は答える。
「今日。
ハヤトが戻ったら、葵さん経由で」
明石が頷く。
「葵さんが“選べる”って言う形でね」
夕張が小さく息を吐いた。
「選べるって言葉、ほんと便利」
明石が笑う。
「便利じゃないよ。大事なんだよ」
夕張は一瞬黙ってから、頷いた。
「……うん。大事」
そこへ赤城と加賀が入ってきた。
赤城は穏やかに言う。
「明石さん、夕張さん。
装備の“見た目”も大事です。
空母の感覚としては、恐怖を煽らない色と形が必要」
明石がすぐ頷く。
「了解! 目立たない、怖くない、でも強い!」
加賀が冷静に補足する。
「“強い”は内側に。外からは“安全”に見えること」
夕張がペンを走らせる。
「了解。外は安全、内は耐える」
赤城が微笑む。
「それが“現場の工夫”ですね」
⸻
昼過ぎ。
聞き取り担当がまた現れた。
今度は食堂ではなく、廊下の曲がり角で待っていた。
狙いは明確だった。
葵。
葵が通りかかると、担当が丁寧に頭を下げる。
「葵さん。少しよろしいでしょうか」
葵は立ち止まる。
逃げない。
でも、一歩分だけ距離を取る。
「……内容によります」
担当は優しい声で言う。
「移管に関して、あなたの理解度を確認したいのです」
葵の目が一瞬だけ硬くなる。
「理解度、ですか」
「はい。あなたは当該戦力の“補助対象”ですから」
その言葉に、曙が廊下の陰で拳を握った。
(……補助対象って何よ)
満潮が曙の袖を掴む。
「出るな」
「でも――」
「今出たら“証拠”になる」
曙は唇を噛む。
それでも、目は逸らさない。
葵は静かに言った。
「私は“補助対象”ではありません。
鎮守府の協力者です」
担当は笑みを崩さない。
「言い方の問題です」
葵は首を振る。
「言葉は思想です」
その返しに、担当の目が一瞬だけ細くなった。
(……提督の言い方)
葵は続ける。
「私は、提督の指示に従います。
それ以上の確認は、提督を通してください」
担当は穏やかに頷いた。
「承知しました。
では“簡単な確認”だけ」
葵の返答を待たず、質問が落ちる。
「あなたは、ハヤトを制御できますか?」
空気が止まった。
曙の胃がきゅっと縮む。
満潮が小さく息を呑む。
葵はすぐ答えなかった。
でも、その沈黙は迷いではなく、怒りを飲み込む沈黙だった。
葵は静かに言った。
「制御、という言葉は不適切です」
担当が笑う。
「では、管理」
葵は一歩も引かない。
「管理も不適切です。
彼は人です」
担当は小さく息を吐いたふりをして、首を傾げる。
「人は、人を傷つけます。
だから管理が必要なのです」
その瞬間、廊下の奥から低い声が落ちた。
「必要なのは、あなたの言葉の管理だ」
長門が立っていた。
腕を組み、真っ直ぐに担当を見る。
担当が驚いたように笑みを作る。
「戦艦長門。失礼しました。
私は――」
長門が遮る。
「名乗りは要らん。質問の意図が見えた」
担当は穏やかに言う。
「意図とは?」
長門は淡々と言う。
「“制御できない”と言わせて記録に残す。
それがあなたの仕事だ」
担当は笑みを崩さず、しかし声の温度だけ下げた。
「戦艦長門。あなたは少々、過敏です」
長門は即答する。
「過敏で結構だ。
過敏な現場は、壊れない」
担当は一瞬黙り、丁寧に頭を下げた。
「承知しました。
本日の確認はここまで」
担当が去る。
葵が小さく息を吐く。
「……ありがとう」
長門は短く返す。
「礼は要らん。鎮守府の話だ」
曙はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(……鎮守府の話)
⸻
夕方。
沿岸哨戒の通信が入る。
「こちら哨戒班。異常なし。帰投する」
聞き慣れない声――立会い担当の士官の声も混ざっている。
提督は通信機に短く返す。
「了解。気をつけて戻れ」
通信が切れる。
その直後、別の通信が入った。
短い。冷たい。
「参謀本部より通達。
本日中に移管準備の進捗報告を提出せよ」
提督は声の調子を変えずに返す。
「受領した。提出する」
通信が切れる。
沈黙。
間宮が小さく言った。
「……詰めてきますね」
鳳翔が静かに頷く。
「期限を縮めれば、人は焦ります」
提督は短く言った。
「焦らせるのが目的だ」
曙は遠くからそのやり取りを見て、胃が痛くなった。
(……焦らせて、反応させて、証拠にする)
それが、彼らの手口。
⸻
夜。
ハヤトが帰投する頃、正門はいつもより“正門”だった。
長門が指揮を取り、吹雪が連絡を回し、空母組が各所の空気を整え、工廠は灯りを落とさない。
そして葵は、正門の影に立っていた。
曙は少し離れた場所から見て、満潮に小声で言った。
「……葵、待ってる」
満潮が頷く。
「うん。伝えるつもりだね、装備のことも、命令のことも」
曙は唇を噛む。
「……伝えたら、どうなる」
満潮は即答しない。
代わりに言った。
「どうなるか分からないから、備えたんでしょ」
曙は返せなかった。
遠くに、哨戒艇の灯りが見える。
海面に揺れる小さな光。
その光が近づくほど、曙の胸が重くなる。
(……帰ってくる)
帰ってくる。
でも、帰ってきた瞬間から――
“現実”が始まる。
曙は小さく呟いた。
「……空、晴れすぎ」
満潮が曙の横で、同じように小さく言った。
「うん。嫌なほど」
正門の影で、葵が一度だけ空を見上げた。
そして、ゆっくり息を吐く。
その吐息が、見えない波になって鎮守府に広がる。
――折れないための、呼吸。