葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
海から戻る灯りは、静かだった。
哨戒艇の小さな灯が、夜の海面を揺らし、
それが近づくほど、鎮守府の空気が重くなる。
正門は“正門”になっている。
長門が指揮を取り、吹雪が連絡を回し、
赤城と加賀が場の温度を落ち着かせ、
翔鶴と瑞鶴が人の視線の流れを整える。
誰も声を荒げない。
でも誰も、油断していない。
曙は正門の少し内側で、拳をほどいたり握ったりしていた。
(……落ち着け)
落ち着けと言うほど落ち着かなくなるのが腹立つ。
隣で満潮が小さく言った。
「曙、手」
「何」
「手がうるさい」
「うるさくない」
「うるさい」
曙は手を背中に回して隠した。
「……あんた、見すぎ」
満潮は肩をすくめる。
「曙が分かりやすいから」
「……黙れ」
満潮は黙らない。
「でも、今の“黙れ”は前より優しい」
「黙れって言ってんの!」
そのやり取りの端で、吹雪が小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます。なんか落ち着きます」
曙が吹雪を睨む。
「落ち着くな!」
吹雪が慌てる。
「えっ、あっ……すみません!」
長門が低い声で言った。
「静かに。帰投する」
その一言で、空気が締まった。
⸻
哨戒艇が接岸する。
足音が板を叩く。
ロープが張る。
短い号令。
そして、ハヤトが降りてきた。
いつも通りの動き。
無駄がない。
目線は遠い。
……だが、違う。
曙は分かってしまった。
(機嫌が悪いとかじゃない)
機嫌の問題じゃない。
“外の匂い”を持って帰ってきた目だ。
葵が、正門の影から一歩出た。
「……おかえり」
葵の声は落ち着いている。
落ち着かせるために落ち着いている。
ハヤトは一瞬だけ足を止め、短く言う。
「戻った」
それだけ。
でも、その“それだけ”がいつもより硬い。
葵は息を吸って、言った。
「話がある。……今、少しだけ」
ハヤトの目が、葵の後ろ――長門、吹雪、空母組、駆逐艦たちへ流れる。
状況を一瞬で読む目。
「ここで?」
葵は首を振った。
「ここじゃない。提督室……じゃなくて」
視線を工廠方向へ投げる。
「工廠がいい」
ハヤトが小さく頷いた。
「分かった」
曙の胸が少しだけ緩む。
(……今は、まだ大丈夫)
満潮が小声で言った。
「今の“分かった”は、葵に合わせた」
曙が睨む。
「実況すんな」
「必要」
「必要じゃない!」
⸻
工廠。
灯りは落ちていなかった。
明石が工具箱を抱えたまま、入口で待っている。
「おかえり!……じゃなくて、おかえりなさい!」
夕張が横で肘を突く。
「明石さん、テンション」
「だって!緊張するでしょ!」
「緊張するから静かにして」
二人のやり取りを見て、赤城が小さく微笑んだ。
「工廠は、いつも通りですね」
加賀が淡々と補足する。
「いつも通りに見せるのが、上手い」
翔鶴が頷く。
「それが今は助かります」
瑞鶴が腕を組む。
「助かるけど、胃は痛い」
陸奥が柔らかく笑う。
「胃は後で温めましょう」
曙は内心、空母と戦艦がこうやって“場”を作っていることに、妙に救われていた。
(……中枢って、こういうことか)
⸻
葵がハヤトに向き直る。
「命令書が来た」
ハヤトの目が僅かに細くなる。
「移管?」
葵は頷く。
「うん。期限前倒し。行動制限強化。監察補助要員が入ってる」
ハヤトは短く息を吐く。
「……手続きの顔をしたやつだ」
葵は言葉を選びながら続けた。
「提督さんは、盾になってる。
でも盾が折れないために、“反応しない”ことが必要になる」
ハヤトの声が低くなる。
「反応しない?」
葵は首を振る。
「反応しない、じゃない。
“反応の仕方を選ぶ”」
ハヤトは何も言わない。
だが、その沈黙は聞いている沈黙だった。
夕張が一歩前に出た。
「だから、これ」
机の上に置かれた、黒いベルト。薄い装甲プレート。小さな識別具。
明石が言う。
「正式名称は“安全補助具”! 内部では……まあ、うん」
曙がぼそっと言った。
「言うな」
明石が口を閉じて、にへっと笑う。
「……はい」
夕張が説明する。
「縛るものじゃない。支えるもの。
“無理をしないための道具”」
ハヤトはベルトに視線を落とす。
「……俺に?」
葵が頷く。
「選べるって話。
付けろ、じゃない。
ただ、あると……私が少し安心できる」
その言い方が上手かった。
“管理”じゃない。
“安心”。
赤城が静かに言った。
「私たちも、少し安心できます」
加賀も続ける。
「あなたが壊れないことが、鎮守府の安定です」
瑞鶴がむっとしながらも言う。
「壊れるの、なし。ほんとなし」
翔鶴が柔らかく微笑む。
「…あなたが壊れたら、葵さんが壊れます」
その言葉に、葵の指先が僅かに震えた。
曙は思わず口を挟む。
「……言い方!」
翔鶴は曙に穏やかに謝る。
「ごめんなさい。でも、事実でもあります」
曙は言い返せなかった。
(……事実って強い)
ハヤトは少しだけ目を閉じ、短く言った。
「……分かった。
“必要な時に使う”。それでいいか」
葵が小さく笑った。
「うん。それでいい」
明石が嬉しそうに言う。
「じゃあ試着!……じゃなくて、確認!」
夕張が即座に突っ込む。
「明石さん、言い直しの方向が同じ」
曙がぼそっと言った。
「工廠、平和かよ」
満潮が小声で返す。
「今はその平和が盾」
曙は返せず、ただ頷きかけてしまって、慌てて顔を逸らした。
⸻
その時。
工廠の外、遠くから聞こえた。
車の音。
一台じゃない。
複数。
止まる。
ドアが開く音。
空気が、一瞬で硬くなる。
加賀の目が鋭くなる。
「……来た」
瑞鶴が低い声で言う。
「早すぎない?」
長門が即答する。
「“期限”を詰める時は、こうだ」
吹雪が通信機を握りしめる。
「正門から連絡です。外部車両、入門要請」
白瀬提督の声が、通信から落ちてきた。
「入門は許可する。だが、武装の持ち込みは制限する。
正門で止めろ。私は今向かう」
通信が切れる。
曙の背中が冷たくなる。
(……制圧の前段)
ここまでは“紙”。
ここからは“人”。
葵がハヤトを見る。
「……お願い。今は、絶対に先に出ないで」
ハヤトの瞳が静かに濃くなる。
「分かってる」
その“分かってる”が、さっきより硬い。
⸻
正門。
車列は、もう門の外に揃っていた。
前面に立つのは、見慣れた顔――久我宗一郎。
その横に、新しい男がいた。
白髪混じり、落ち着いた目。
背中がまっすぐで、笑い方が薄い。
久我が丁寧な声で言う。
「本日は参謀本部命令の執行補助として参りました。
こちら、榊原忠継少将です」
榊原少将は、形式的な笑みを浮かべる。
「呉鎮守府、白瀬提督。
手続きを進めよう」
白瀬提督が正門前に出て、落ち着いた声で言う。
「少将。ここは現場だ。
手続きは手続きとして受けるが、現場の秩序は守る」
榊原は笑みを崩さない。
「秩序を守るための手続きだ」
久我が軽く言葉を添える。
「本日は“確認”だけです。提督。ご協力を」
提督は目を細める。
「“確認”なら、書面で足りる」
榊原が淡々と返す。
「書面は紙だ。
紙は人が動かして初めて効力を持つ」
その言葉に、曙の胃がきゅっと縮んだ。
(……言葉が上手い)
上手い言葉は、刃になる。
⸻
榊原が後ろの隊列を目で示す。
制服の士官。
憲兵に近い装備の者。
そして“派遣要員”の腕章を付けた男たち。
武装は控えめに見せている。
でも、手は空いていない。
提督が言う。
「武装の持ち込みは禁止だ。ここは鎮守府だ」
久我が笑う。
「自衛の範囲です」
長門が低い声で言った。
「自衛の範囲で人を脅すのか」
久我は長門を見て、笑みを作る。
「戦艦長門。相変わらずですね」
長門は返す。
「相変わらず“嫌な”」
吹雪が慌てて長門を見る。
「長門さん……!」
長門は吹雪にだけ小さく言う。
「落ち着け。今は言葉だ」
吹雪は頷くが、指先が震えていた。
赤城が一歩前に出て、声を柔らかくする。
「本日は“確認”とのこと。
でしたら、こちらも“確認”させてください。
あなた方は鎮守府の空気を乱さないと約束できますか」
久我が一瞬だけ目を細くする。
「空母赤城。空気とは曖昧ですね」
加賀が淡々と刺す。
「曖昧だから、壊しやすい。
あなた方はそれを狙っている」
瑞鶴が我慢して低い声で言う。
「……今すぐ殴りたい」
翔鶴が瑞鶴の肘を軽くつつく。
「瑞鶴、声」
「分かってる…!」
空母組が“空気”を持ちこたえる。
曙はその背中を見て、胸の奥が熱くなった。
(……折れない)
折れないって、こういうことだ。
⸻
提督が言う。
「確認内容は?」
榊原が淡々と答える。
「移管準備の進捗。
当該戦力の所在確認。
そして同伴者――葵の事情聴取」
その瞬間、工廠側から来た葵の影が、曙の視界に入った。
葵は走っていない。
走れば“焦り”を見せる。
だから、歩いている。
でも、その歩幅は小さい。
葵が提督の横に立つ。
「……私です」
榊原が葵を見る。
その目が、“人”を見る目ではない。
久我が言う。
「葵さん。手続きです。
少し、こちらへ」
葵は提督を見る。
提督は首を振った。
「事情聴取は提督室で。
鎮守府の規定に従え」
榊原が穏やかに言った。
「規定は命令に従属する」
提督が即答する。
「現場の安全は命令より上だ」
榊原の笑みが薄くなる。
「……提督。あなたは“抵抗”を選ぶのか」
提督は淡々と言う。
「抵抗ではない。現場管理だ」
久我が軽く息を吐く。
「なら、こちらも現場管理として“保全”する」
“保全”。
嫌な言葉だ。
柔らかい皮を被った硬い言葉。
⸻
次の瞬間だった。
派遣要員の一人が、葵に一歩近づいた。
「では、こちらへ」
葵が反射で一歩引く。
「……触らないでください」
その声は穏やかだ。
穏やかなのに、震えていた。
曙の喉が熱くなる。
(……やめろ)
久我が笑う。
「拒否されると困ります」
葵が言う。
「拒否ではありません。
場所を選びたいだけです」
榊原が淡々と言った。
「場所は我々が選ぶ」
提督が一歩前に出る。
「この鎮守府で、それは通らない」
榊原の目が冷える。
「通す」
その一言で、空気が刺さる。
そして――派遣要員の手が、葵の腕に伸びた。
葵が息を呑む。
曙が一歩踏み出しかけ、満潮が腕を掴む。
「出るな!」
「でも!」
「今出たら、葵が“抵抗した”記録になる!」
曙の拳が震える。
(……くそ)
葵は抵抗しない。
抵抗したら、記録になる。
だから、目だけで拒絶した。
その目を見て、派遣要員が薄く笑った。
「……なるほど」
その笑いが、曙の中の何かを削った。
赤城の声が柔らかく、しかし鋭く入る。
「その手は、不要です」
加賀が淡々と言う。
「事情聴取なら歩けます。
拘束は“必要”ではありません」
榊原が言う。
「必要だ。抵抗の恐れがある」
長門が低く言った。
「抵抗の恐れを作っているのは、貴様らだ」
榊原が長門を見る。
「戦艦長門。感情を抑えろ」
長門は一切引かない。
「感情ではない。現場判断だ」
吹雪が震える声で言った。
「……お願いです。ここでは……」
久我が吹雪を見て、にこやかに言う。
「吹雪さん。あなたは関係ない」
その“関係ない”が、鎮守府の空気を削る。
曙は歯を噛んだ。
(関係ある)
昨日から、もう関係ある。
⸻
その時、工廠側の影が動いた。
ハヤトが、正門の内側――まだ距離のある場所で立っていた。
いつ戻ったのか、曙は気づかなかった。
気づかなかったのに、分かる。
空気が変わった。
ハヤトは前に出ない。
出ないのに、圧だけが増す。
目が――赫眼に近い色へ沈み始めている。
葵が、掴まれたまま叫ぶように言った。
「来ちゃダメ……!」
その声が、空気を裂く。
久我が、その声の方向を見て笑った。
「……あちらにいるのが“当該戦力”か」
榊原が淡々と言う。
「所在確認、完了だな」
提督が即座に言う。
「見るな。呼ぶな。煽るな」
榊原は薄く笑った。
「煽っているのは、誰だ?」
提督は答えない。
答えない代わりに、前に立つ。
盾になる。
しかし盾の向こうで、葵の腕は掴まれたままだ。
曙の視界が揺れる。
(……やめろ)
やめろ。
やめろ。
でも、ここで暴れたら、向こうの勝ちだ。
――それでも。
葵の目が、ほんの一瞬だけ曙を見た。
“助けて”ではない。
“動くな”でもない。
ただ――“見ていて”。
曙は、その目を逸らさなかった。
⸻
榊原が淡々と命じる。
「葵を連行する。
提督、妨害は命令違反として記録する」
久我が笑みを浮かべる。
「提督。あなたが守りたい“現場”は、今、試されている」
提督の声は静かだった。
「試されているのは、あなた方の品位だ」
榊原の目が冷える。
「品位など、戦果に比べれば些細だ」
その言葉が落ちた瞬間、
曙は確信した。
(……こいつら、壊しに来てる)
そして――
ハヤトの方から、低い音がした。
音なのか、空気なのか、分からない。
ただ、地面が少しだけ“重く”なる。
曙は喉の奥が冷えるのを感じた。
(……やばい)
葵が声を絞る。
「お願い……戻ってきて……」
その声は、祈りみたいだった。
そして次の瞬間――
門の内側で、
“何か”が動き出す気配がした。