葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
昨日、ハヤト殿が鎮守府警備担当として参加した。
特に問題は起きなかった。
いつも通りではあった。だが、いつも通りのようでいつも通りではなかったとも言える。
しかし、何も起きないのは良いことだ。
今日は警備担当2日目だ。
そろそろ時間だ。いつも通り、待機場所へ向かうとしよう。
朝の点呼は、いつもと同じ時刻、同じ場所で行われた。
整列した艦娘達の顔ぶれも、鎮守府の空気も、変わらない。
だが、私だけは分かっていた。
――変わった。
視線を前に向けたまま、私は当番表の並びを思い出していた。
本日警備担当。
その名簿の中に、昨日から一つだけ異質な名前が混じっている。
ハヤト。
喰種。
人間を喰らう存在。
そして、今はこの呉鎮守府で“保護対象”として扱われている男。
規律を乱す者はいない。
だが、空気は確実に張りつめている。
恐怖。
警戒。
拒絶。
そして、僅かな――戸惑い。
それらが混ざり合った沈黙が、整列した場を支配していた。
私は一歩前に出る。
「本日の巡回ルートを伝える」
声は、いつも通り。
意識的に感情を排した、指揮官としての声だ。
「正門から外周、倉庫区域、ドッグ周辺を重点的に確認する。異常があれば即時報告。独断行動は禁止だ」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉を切る。
「――ハヤト殿は、私の判断に従って行動してもらう」
ざわめきは起きない。
だが、何人かの艦娘の肩が僅かに強張るのが見えた。
私は横に立つその男へ視線を向ける。
黒い外套。
無表情。
腕を組み、微動だにせず立っている。
圧は……ない。
少なくとも、意図的なものは。
だが「そこにいる」という事実だけで、周囲に影響を与える存在だ。
「……了解した」
低く、短い返答。
それ以上の言葉はない。
私は頷き、巡回開始を告げた。
⸻
外周を歩きながら、私は意識を研ぎ澄ませていた。
足音。
風の流れ。
波の音。
遠くの艦載機の発着音。
どれも異常はない。
だが、私は気づいていた。
一つだけ、存在しない音がある。
ハヤトの足音だ。
隣を歩いているはずなのに、何も聞こえない。
地面を踏みしめている感触すら感じ取れない。
だが視線を向ければ、確かにそこにいる。
忍者でも、暗殺者でもない。
ただ“そういう存在”なのだと理解するしかなかった。
倉庫区域に近づくにつれ、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。
理由は分からない。
だが、経験が告げている。
――ここは、注意すべきだ。
私は神通と視線を交わし、無言で合図を送る。
倉庫正面と裏手に分かれ、確認を行う。
「……問題ありません」
神通の報告。
私は倉庫の内部へ目を向ける。
吹雪とハヤトが中を確認している。
……いや。
正確には、吹雪が確認し、ハヤトは“立っている”だけだ。
だが、その立ち位置。
吹雪の半歩前。
箱の影が濃く落ちる方向。
無意識ではない。
狙っている。
私は一瞬、喉の奥が乾くのを感じた。
何も起きていない。
だが、起きなかった理由が、そこにある気がした。
数秒後、ハヤトは何事もなかったかのように踵を返した。
吹雪の表情が、僅かに緩む。
……そうか。
あれは、警戒だった。
攻撃ではない。
威圧でもない。
ただ、“これ以上近づくな”という線を引いたのだ。
それを理解できる者にだけ、伝わる形で。
私はそれ以上、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
⸻
巡回を続けながら、私は考えていた。
もし、あの場で何かが起きていたら。
もし侵入者がいたら。
ハヤトは、どうしただろうか。
殺したか?
拘束したか?
それとも――逃がしたか?
分からない。
だが、一つだけ確信できることがある。
彼は、衝動で動かない。
それは、怪物としては致命的な欠点だ。
そして、人としては――希望でもある。
洗濯場の前を通ると、葵の姿が見えた。
鳳翔、間宮と共に洗濯物を干しながら、艦娘達と会話をしている。
ぎこちない。
だが、拒絶ではない。
葵は笑っている。
無理をしているようには、見えない。
……いや。
正確には、「無理をしているかどうか」を、悟らせない強さがある。
ハヤトが一瞬だけ足を止め、葵を見る。
その表情は、明らかに柔らかい。
そして再び、前を向く。
私は、その一連の動きを見逃さなかった。
あの男の行動基準は、常に一つだ。
葵。
それだけ。
だからこそ、分かりやすい。
だからこそ、危うい。
だが――守る対象が明確である者は、制御不能にはなりにくい。
それもまた、事実だ。
⸻
昼食時。
私は食堂全体を見渡せる位置に立ち、状況を観察していた。
艦娘達は、まだ距離を測っている。
声をかける者もいる。
視線を逸らす者もいる。
だが、誰も騒がない。
誰も排除しようとしない。
それは、昨日の出来事が影響している。
――線が引かれたからだ。
葵を恐れるな。
拒絶するな。
それ以外は、自由。
あの言葉は、命令ではない。
だが、十分すぎるほど重い。
ハヤトは食堂の端に立っている。
背中を壁につけ、全体を見渡す位置。
護衛。
いや、警戒だ。
葵がコーヒーを持って行く。
ハヤトは無言で受け取り、椅子を引く。
座らせる。
それだけ。
それ以上の接触はない。
だが、誰よりも近い距離にいる。
私は思う。
――これは、信頼だ。
言葉にしない、絶対的な信頼。
そして、責任。
⸻
午後の巡回でも、何も起きなかった。
外壁。
ドッグ。
正門。
異常なし。
報告は淡々と行われ、引き継ぎも滞りなく進む。
交代の艦娘達が近づいた瞬間、ハヤトは一歩下がった。
無言で。
圧を下げるための、明確な判断。
私はそれを見て、胸の奥で静かに評価を更新する。
――理解している。
自分が、どう見られているか。
どう振る舞えば、軋轢を減らせるか。
そして、今は“踏み込むべきではない”ということも。
巡回終了後、私は解散を告げた。
艦娘達はそれぞれ宿舎へ戻っていく。
ハヤトも、その流れに乗ろうとした。
その時、吹雪が前に出た。
一瞬の逡巡。
そして、敬礼。
震えている。
だが、目は逸らさない。
ハヤトは、ほんの僅かに頭を下げた。
それだけ。
だが、それで十分だった。
私は、その光景を見届けた。
⸻
夜。
執務室で報告書をまとめながら、私は今日一日を振り返る。
何も起きなかった。
だが、それは「安全」ではない。
嵐の前の静けさでもない。
これは――選択の積み重ねだ。
恐れ、拒絶し、距離を取ることもできた。
だが、誰もそうしなかった。
ハヤトも、艦娘達も。
互いに、踏み込まなかった。
それが、今の最善だと判断したからだ。
私はペンを置き、深く息を吐く。
明日も、何も起きないだろう。
だが、確実に――何かは近づいている。
それが敵か。
人か。
あるいは、判断を迫る出来事か。
分からない。
だが、覚悟はしておく。
指揮官として。
この鎮守府を預かる者として。
そして――
この“異物”を、仲間にする可能性を捨てない者として。
私は静かに灯りを落とした。