葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
正門の空気は、止まっていた。
風が吹いているはずなのに、
旗が揺れないように見える。
音があるのに、音が遠い。
葵の腕は掴まれたままだった。
力任せではない。
逃がさないための“仕事の手”。
だから余計に冷たい。
曙の歯が軋む。
(……離せ)
声にしたら終わる。
分かっている。
分かっているのに、体が前に出そうになる。
満潮が腕を握る。
「動くな」
「でも――」
「今は葵が持たせてる」
その言葉が刺さる。
葵は暴れていない。
叫んでいない。
ただ、拒絶の目で見ている。
それが、逆に残酷だった。
⸻
榊原が淡々と言う。
「同行願おう」
葵ははっきり言った。
「提督室でなら」
「却下だ」
久我が笑う。
「あなたは“対象”だ。選択権はない」
その言葉に、空母組の空気が冷える。
赤城が静かに言う。
「言葉が粗いですね」
加賀が続ける。
「対象ではなく、人です」
久我は肩をすくめる。
「人も対象になる」
瑞鶴が一歩出そうになり、翔鶴が腕を掴む。
「瑞鶴」
「……分かってる」
声が低い。
抑えている声だ。
⸻
提督が言う。
「腕を離せ」
榊原が即答する。
「拒否する」
「現場責任者命令だ」
「上位命令がある」
言葉がぶつかる。
刃ではなく、規定で。
長門が低く言った。
「紙で人を押さえつけるな」
榊原が視線だけ向ける。
「戦艦長門。あなたは感情的だ」
長門は一歩も引かない。
「違う。私は現場だ」
その一言が、鎮守府側の背骨になる。
⸻
その時だった。
派遣要員の一人が、葵の顎に手をかけた。
強くではない。
持ち上げるように。
「……顔を見せろ」
品定めする目。
値踏みする目。
人ではなく、“資産”を見る目。
曙の視界が赤くなる。
「――っ」
声が出かける。
満潮が強く引く。
「曙!」
「でも!!」
「ここで叫んだら葵が終わる!」
その言葉が、喉を締めた。
葵は顔を背ける。
「……触らないで」
声は震えている。
でも折れていない。
派遣要員が薄く笑う。
「従順じゃないな」
久我が愉快そうに言う。
「記録しておけ。“抵抗傾向あり”だ」
提督の声が落ちる。
「……その手を離せ」
低い。
今までで一番低い。
榊原が答える。
「必要な接触だ」
⸻
その瞬間だった。
空気が沈んだ。
本当に、沈んだ。
音が下に落ちる感覚。
曙の耳が詰まる。
誰かが息を呑む音が遠い。
満潮が震えた声で言う。
「……来た」
正門の内側。
距離はまだある。
でも、全員が分かった。
ハヤト。
立っているだけなのに、
“重さ”が増している。
目が――もう隠れていない。
赫眼。
濃い、血のような赤。
吹雪がかすれた声で言った。
「……あの時の……」
長門が低く続ける。
「違う」
吹雪が見上げる。
長門の声が落ちる。
「桁が違う」
⸻
ハヤトは歩いていない。
動いていない。
なのに距離が縮んだように感じる。
圧だけが先に来る。
榊原が初めて眉を動かした。
「……あれが」
久我が笑みを作る。
「対象です」
ハヤトの視線は、榊原も久我も見ていない。
葵だけを見ている。
掴まれている腕。
顎に触れている手。
笑っている口元。
全部、見ている。
葵が叫ぶ。
「来ちゃダメ!!」
その声は悲鳴だった。
命令じゃない。
祈り。
「お願い……戻ってきて……!」
その言葉が、杭になる。
ギリギリの杭。
⸻
派遣要員が言う。
「ほら。反応している」
顎にかけた手を、わざとゆっくり滑らせる。
見せつけるように。
「人前だろうが関係ない」
久我が薄く笑う。
「教育が必要だな」
その瞬間。
ハヤトの呼吸が止まった。
止まって――
次の瞬間。
咆哮。
それは声じゃなかった。
地面が鳴った。
空気が割れた。
建物の窓が震えた。
曙は耳を押さえた。
「っっ!!」
吹雪がしゃがみ込む。
「なにこれ……!」
瑞鶴が歯を食いしばる。
「圧……!?」
加賀の声が低い。
「違う。密度だ」
赤城が言う。
「空気が、重くなっている」
長門が目を細める。
「解放した」
⸻
ハヤトの背中側の空間が歪む。
熱ではない。
光でもない。
“存在圧”。
空間が押し広げられている。
足元の砂利が浮く。
金属音が軋む。
工廠の方で、警報が一瞬だけ鳴って止まる。
夕張の声が遠くで響く。
「計測不能!!」
明石が叫ぶ。
「そんなのある!?」
⸻
榊原が初めて声を強めた。
「拘束しろ!!」
だが誰も動けない。
体が動かない。
怖いからじゃない。
重い。
空気が重すぎる。
派遣要員の手が、葵の腕から外れた。
力が抜けたように。
葵がよろめく。
「……っ」
その瞬間、ハヤトが一歩前に出た。
一歩だけ。
それだけで距離が半分になった気がした。
⸻
空が鳴った。
雷じゃない。
空間の音。
上を見た者から、言葉を失う。
黒い渦。
雲が巻き込まれている。
回転している。
中心が暗い。
赤い光が瞬く。
曙が震えた声で言う。
「……なに、あれ」
時雨が答える。
「呼応してる」
「何に」
時雨はハヤトを見る。
「彼に」
⸻
渦から、何かが落ちてくる。
無数。
黒い塊。
流星みたいに。
海へ落ちる。
水柱が上がる。
次の瞬間――
立つ。
人の形。
歪んだ輪郭。
そして、目が開く。
赫眼。
赤。
無数の赤。
吹雪が震える。
「敵……!?」
長門が即答する。
「違う」
「あれは……」
「同類だ」
⸻
榊原が叫ぶ。
「戦闘配置!!」
誰も整えられない。
整う前に、空気が押しつぶす。
久我の笑みが消えた。
「……制御できていないじゃないか」
提督が低く言う。
「違う」
久我を見る。
「壊したのは、貴様らだ」
⸻
葵が、声を振り絞る。
「ハヤト!!」
ハヤトの動きが止まる。
完全停止。
赫眼の奥に、意識が戻る。
葵が叫ぶ。
「お願い!!戻って!!」
「全部壊さなくていい!!」
「ここは!!私たちの場所だから!!」
沈黙が一瞬落ちる。
黒い影たちも止まる。
海面で揺れる。
待っている。
王を。
⸻
曙は涙が出そうになるのを必死で止めた。
(……止まれ)
止まって。
全部壊れたら、終わる。
でも――
葵の腕の痕。
値踏みする目。
笑い。
その記憶が、空気に残っている。
消えない。
ハヤトの口が開いた。
声ではない。
もう一度、咆哮。
今度は、進撃の号令だった。
黒い赫眼の影たちが、一斉に動いた。
鎮守府へ向かって。
ハヤトを先頭に。
⸻
長門が低く言う。
「……戦争になるぞ」
提督が答える。
「もう、始まっている」
曙は震える声で呟いた。
「……誰が止めるの」
時雨が小さく言う。
「止めるんじゃない」
「導く」
視線は葵へ向く。
葵だけが、杭になっている。
折れない杭。