葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
黒い渦は、まだ空に開いたままだった。
回転は弱まっている。
だが消えない。
海面に立つ赫眼の影たちも動かない。
追わない。
散らない。
騒がない。
ただ――待っている。
曙が小さく言った。
「……止まってる」
満潮が答える。
「うん」
「さっきまでと違う」
吹雪が恐る恐る言う。
「戦闘、終わった……?」
長門が首を振る。
「違う」
「終えたんだ」
⸻
正門前。
地面には武器が散らばり、
制圧部隊の撤退跡が生々しく残っている。
だが追撃はなかった。
一歩も。
瑞鶴が信じられない顔で言う。
「普通、あそこまでやったら追うでしょ……」
加賀が静かに答える。
「普通ではない」
赤城が続ける。
「目的が違います」
翔鶴が小さく頷く。
「排除ではなく、線引きです」
曙が眉を寄せる。
「線引き?」
長門が言う。
「ここまで来るな、の線だ」
⸻
ハヤトはまだ立っている。
正門の中心で。
赫眼は消えていない。
だが、暴走の圧は引いている。
代わりにあるのは――
王の静けさ。
提督が低く言う。
「……戻ったな」
鳳翔が小さく息を吐く。
「はい」
間宮が胸を押さえる。
「今、やっと呼吸できました……」
⸻
葵が一歩、前に出た。
影たちが反応する。
一斉に視線が動く。
武器ではない。
目だ。
曙が息を呑む。
「……見てる」
時雨が言う。
「対象としてじゃない」
「何として」
「中心として」
⸻
葵は震えている。
でも歩く。
ハヤトのところまで行く。
距離、二歩。
「……もういい」
小さな声。
でも届く声。
「ここまででいい」
ハヤトは答えない。
だが、呼吸が変わる。
肩の力が落ちる。
その瞬間だった。
⸻
海側の影たちが動いた。
一斉に。
構え直したのではない。
膝をついた。
ざ、と同時に。
水面に。
岸に。
瓦礫の上に。
片膝。
頭がわずかに下がる。
瑞鶴が声を失う。
「……え」
吹雪が震える。
「なんで……」
長門が低く言う。
「……忠誠の姿勢だ」
加賀が続ける。
「明確に」
⸻
ハヤトの後ろに立っていた四つの影も、
同じように膝をつく。
動きが揃いすぎている。
訓練ではない。
習性のような動き。
ハヤトの隣にいた影だけが、
半歩遅れて膝をついた。
対等だった距離が、そこで初めて“下がる”。
曙の声がかすれる。
「……命令された?」
時雨が首を振る。
「違う」
「じゃあ何」
「帰ってきたんだ」
⸻
葵の前に立っていた二つの影は、
最後まで立っていた。
盾の位置のまま。
葵を守る形のまま。
葵がそっと言う。
「……ありがとう」
その言葉にだけ反応した。
ほんのわずか、頭が下がる。
それだけ。
名前はない。
返事もない。
でも通じている。
⸻
提督がはっきり言った。
「全艦、攻撃禁止」
吹雪が反射で復唱する。
「全艦、攻撃禁止!」
瑞鶴が驚く。
「提督!?」
提督は目を逸らさない。
「見ただろ」
「はい……」
「敵対行動は、誰に向いていた」
加賀が答える。
「制圧部隊のみです」
「鎮守府には?」
赤城が言う。
「一切ありません」
提督は頷く。
「なら撃たない」
曙が小さく言う。
「……シンプル」
長門が答える。
「現場判断はそれでいい」
⸻
黒い渦がゆっくり縮み始める。
回転が落ちる。
吸い込まれるように閉じていく。
影たちの輪郭も、少しずつ薄くなる。
瑞鶴が言う。
「消える……?」
時雨が答える。
「戻るんだ」
「どこに」
「分からない」
⸻
一体だけ。
あの大きな影が、
顔を上げてハヤトを見る。
燃えるような赫眼。
声にならない音が空気に震えた。
言葉ではない。
だが意味は伝わる。
「在る」
それだけ。
次の瞬間、輪郭が崩れる。
黒い粒になって消える。
他の影たちも続く。
膝をついた姿勢のまま、
静かに消えていく。
撤退ではない。
帰還。
⸻
最後まで残ったのは、
ハヤトの隣にいた影だった。
数秒。
沈黙。
そして、ゆっくりと姿を消した。
ハヤトだけを残して。
⸻
空は元に戻る。
黒い渦は消えた。
風が動く。
音が戻る。
瑞鶴がへたり込む。
「……生きてる?」
翔鶴が笑う。
「ええ」
「全員」
吹雪が小さく言う。
「何だったんでしょう……」
提督が答える。
「分からん」
長門が続ける。
「だが」
「ハヤトと葵に関係する存在だ」
加賀が静かに言う。
「それだけで十分です」
⸻
曙がハヤトを見る。
「……あんた、何者よ」
ハヤトは答えない。
葵が代わりに言う。
「味方」
短い。
でも、迷いがない。
曙は鼻で笑った。
「雑」
満潮が言う。
「でも合ってる」
⸻
提督が最後に言った。
「報告書にはこう書く」
全員が見る。
「――分類不能」
「だが、敵ではない」
その一文が、後の歴史になる。