葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜の鎮守府は、昼とは別の生き物みたいだ。
灯りの落ちた廊下、遠くで揺れる海面、風が運ぶ潮の匂い。
昼間の笑い声や食堂の喧騒は、全部、厚い扉の向こうにしまい込まれている。
吹雪は懐中電灯を握り直し、息を整えた。
「……夜間警備、開始」
声に出してみる。
自分の声が、思った以上に乾いて聞こえる。
(大丈夫。いつも通り。いつも通り……)
そう言い聞かせて歩くのに、今日だけは“いつも通り”という言葉が足元で崩れていく気がした。
当番表に掛かった木札の名前。
警備初日から、今日で数日。
その存在は、鎮守府の夜に“影”を落としている。
——正体不明の何か。
——人間ではないかもしれない。
——けれど、葵さんの隣でだけ、柔らかい顔をする。
吹雪は唇を噛んだ。
考えるほど、言葉が矛盾する。
倉庫区画へ向かう通路に差しかかり、風が一段冷たくなった。
壁沿いの影が濃く伸びている。
監視カメラはある。でも死角もある。
白瀬提督も長門も、そこだけは「要確認」と言い続けていた。
(……何もない。何もない、はず)
そう思った瞬間、背中がぞくりとした。
理由のない悪寒。
“見られている”でもない。“聞かれている”でもない。
ただ、何かが空気に混じったみたいな、薄い違和感。
吹雪は足を止めた。
「……」
懐中電灯の光を、倉庫の扉へ向ける。
扉は閉まっている。鍵もかかっている……はずだった。
(……え?)
鍵穴の位置に小さな傷。
古い傷ではない。金属が新しく削れた痕。
吹雪は喉が詰まる感覚を覚えた。
「——誰か、いるの?」
自分の声が震えたのが分かる。
気のせいだ、と言ってしまいたい。
でも、これを見過ごしたら、警備の意味がない。
吹雪は扉に手を添え、ゆっくり押した。
きい、と嫌な音がした。
暗い。
箱が積まれた影の向こうは、光が届かない。
懐中電灯の光が、柱やロープや資材の輪郭を切り取っていく。
その時。
「——来るな!」
男の声が、倉庫の奥から弾けた。
吹雪は反射で構えた。
「だ、誰ですか!ここは立ち入り禁止区域です!身分を名乗ってください!」
懐中電灯の光が、人影を捉える。
一人ではない。三人、いや四人。
軍人ではない。制服ではない。
しかし視線は鋭く、手は硬く握られている。武器は見えないのに、何かを握っているみたいだった。
「……艦娘だな」
低い声。
吹雪の肩が跳ねる。
「そうだ。やっぱりここだ……!」
「隠してやがった!兵器を!化け物を!」
吹雪は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
けれど次の言葉が、胸を刺した。
「お前らが艦娘なんてものを使うから、戦争になったんだ!」
「深海棲艦を刺激したのは人間だ!お前らだ!」
息が止まりそうになった。
「……違います」
声が細くなった。
否定したいのに、言葉がうまく形にならない。
男は嗤う。
「違う?じゃあ、なんで海は燃えてる?」
「なんで誰かが沈んで、誰かが帰ってこない?」
「なんで、こんなにも終わらない?」
吹雪は、拳を握りしめた。
“帰ってこない”——その言葉が、刺さった。
「私たちだって……望んで……」
言いかけて、詰まる。
望んでない、と言いたい。
でも、戦うためにここにいるのも事実だ。
守るためだとしても、“戦う存在”であることは変わらない。
男たちは勢いづく。
「兵器だろ!人の姿をした兵器!」
「心があるなら、血が流れるなら、なんで命令で動く!?」
「人権?ふざけるな!そんなものに人権を与えたら、今度は人間の方が踏みにじられる!」
吹雪の奥歯が、ぎり、と鳴った。
「私たちは……兵器じゃありません」
その一言は、祈りみたいだった。
「同じ心がある。怖いし、痛いし、苦しい。泣きたい日もある。死ぬのが怖い。仲間が傷つくのが怖い。——それでも、ここにいるんです」
男の一人が吐き捨てる。
「それが兵器じゃないって証拠になるのか?」
別の男が続けた。
「泣く兵器、痛がる兵器、苦しむ兵器。なら、余計に悪質だ」
「人間だと思わせて使う。人間だと思わせて捨てる。軍に都合がいいだけじゃないか!」
吹雪の胸が、締め付けられる。
(……違う)
違う。違うのに。
“うまく言い返せない”ことが、自分の弱さを突きつける。
男たちの目が、ぎらつく。
「見ろよ。ここに何がある?」
「資材?弾薬?補給品?それとも……兵器の部品か?」
「俺たちは見届けに来たんだ。国に、海軍に、騙されてるんじゃないかってな」
吹雪は一歩前に出た。
「ここは鎮守府の施設です。勝手に入ることは許されません。今すぐ出てください。抵抗するなら、拘束します」
男が笑う。
「拘束?お前が?その細い腕で?」
「お前らの正体なんて知ってるぞ。人間じゃないんだろう?」
吹雪の喉がひゅっと鳴った。
「……人間です」
言い切る。
それが、今の自分の唯一の武器だった。
男たちは一瞬だけ黙った。
次の瞬間、誰かが奥を指差した。
「……おい」
吹雪も、反射で振り向いた。
——そこに、いた。
黒いコート。
長い影。
無表情。
いつから。どこから。
足音も、気配も、何もなかった。
ただ、暗い倉庫の中で“そこだけ温度が違う”みたいに存在していた。
男たちが、一斉に息を呑む。
「……何だ、あれ」
「誰だ……?」
吹雪の心臓が跳ねた。
同時に、喉の奥に冷たいものが流れ込んでくる。
(来てしまった)
来てほしかった。
でも、来てしまった。
吹雪自身が、その矛盾に気づいてしまうのが怖かった。
ハヤトは、こちらを見ない。
男たちだけを見る。
「立ち入り禁止区域だ」
声は低い。感情がない。
怒りでも威圧でもない。
ただ、石を置くみたいに言葉を置く。
「出ていけ」
男の一人が、わずかに後ずさる。
「……おい、ふざけんな」
「誰だよ……こいつ、さっきまで……」
別の男が、吹雪へ視線を戻す。
そして、震えるように言った。
「……お前ら、こんなのを飼ってるのか?」
飼う、という言葉が、吹雪の胸を刺した。
「違います!」
思わず叫んだ。
「ここにいるのは——」
言いかけた瞬間、男がかぶせるように叫ぶ。
「近づくな!」
「動くな!目を合わせるな!」
まるで、何かの“掟”を知っているかのように。
男たちの瞳は、恐怖で揺れていた。
吹雪への敵意が、ハヤトへ向いた瞬間、明らかに質が変わる。
憎しみではなく、“理解できないもの”への本能的な拒絶。
「……何なんだ、こいつ」
「人間……じゃないだろ……」
ハヤトは、動かない。
動かないのに、男たちだけが勝手に崩れていく。
「……俺たちは、ただ真実を——」
言い終わらない。
ハヤトが、ほんの少しだけ首を傾けた。
その一瞬で、男が息を止めた。
「っ……!」
男が喉を押さえる。
何も触れられていない。
何もされていない。
なのに、“されるはずだった”という恐怖だけで、体が固まっている。
吹雪は、自分の指先が冷えていくのを感じた。
(何もしてない……のに)
それが、余計に怖い。
男たちが後ろへ下がる。
逃げようとする。
その瞬間。
——別の場所に、ハヤトが“いる”。
吹雪は目を疑った。
(移動した?)
違う。
そう思う前に、もうそこにいた。
逃げ道の手前。出口の近く。
影が重なる場所。
男が、声にならない声を出した。
「……ひっ」
一人が転び、尻もちをつく。
他の男が引きずろうとするが、腕が震えて掴めない。
「やめろ、やめろ、やめろ……!」
恐怖の言葉だけが、倉庫に落ちていく。
吹雪は喉が痛くなるのを感じた。
助けるべきは誰なのか。
守るべきは何なのか。
その時、遠くから足音が駆けてくる。
「吹雪!状況を報告しろ!」
長門と神通だった。
長門の声は、雷みたいに倉庫を貫いた。
吹雪は息を吸い、吐き、言葉を繋いだ。
「侵入者です!四名!倉庫に潜伏していました!」
長門は即座に命令を出す。
「拘束する!抵抗するなら武力行使も辞さない!神通、後方を抑えろ!」
侵入者たちは抵抗しなかった。
いや、抵抗できなかった。
拘束されながら、男が涙声で吐き捨てる。
「……こんなものを……」
「こんなものを、鎮守府に置くな……!」
「いつか……必ず、事故になる……!」
吹雪は唇を噛んだ。
言い返したいのに、言い返せない。
男が最後に見たのは、ハヤトだった。
その目は、怒りでも憎しみでもない。
ただの“無表情”だった。
なのに——
男は震えながら、視線を逸らした。
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。
侵入者が連行され、倉庫に静けさが戻る。
吹雪はやっと息を吐いた。
自分の肺が、ずっと縮こまっていたことに気づく。
「……ありがとうございました」
気づけば、ハヤトへ言っていた。
ハヤトは、吹雪を見る。
「任務だ」
それだけだった。
それが、突き放しているようで。
でも、変に距離を詰めない分、救われるようにも思えた。
吹雪は、もう一度言う。
「……それでも、助かりました」
ハヤトは頷かない。
礼もしない。
ただ——その場を離れない。
吹雪は思った。
(怖い。まだ怖い)
でも。
(あの人は、私たちに“何かを証明しよう”とはしない)
力で従わせることも、怯えさせて黙らせることもできるはずだ。
それができる雰囲気が、さっきの侵入者たちの反応で分かった。
なのに、そうしない。
ただ、必要なことだけをして、戻る。
それは、ある意味で——
“こちらに選ばせている”態度にも見えた。
巡回が終わり、廊下に戻る。
夜の風が、頬を撫でる。
長門が低い声で言った。
「……吹雪。よく対応した。怪我はないな?」
「はい……大丈夫です」
神通も頷く。
「侵入者の目的は、恐らく情報。もしくは……恐怖の扇動」
長門の眉がわずかに寄る。
「どちらにせよ、鎮守府内に“反対派”が入り込む余地があるということだ。——次からは、もっと慎重に警戒する」
吹雪は、足元を見た。
自分の影が長く伸びている。
ふと、思い出す。
拘束される直前。
侵入者がハヤトを見て、震えた瞬間。
あれは何だったのか。
人間が、理解できないものに遭遇したときに出す、純粋な恐怖。
憎しみや怒りより先に出る、拒絶。
そして、その恐怖が、吹雪自身の胸にもまだ残っていること。
(私は……どうする)
怖い。分からない。
でも、目を逸らすのも違う気がした。
吹雪は、歩く速度を落とし、背中の方を見た。
廊下の灯りの外側。
影が濃くなる場所に、ハヤトが立っていた。
誰かを見送るように。
誰かを守るように。
そこに、葵さんはいない。
それでも、立っている。
吹雪は胸の前で指を握りしめ、迷った末に小さく敬礼した。
ハヤトは、少しだけ頭を下げる。
それだけ。
言葉はない。
でも、それが今の吹雪にとって、精一杯の“選択”だった。
——怖いままでも、ここに立つ。
——分からないままでも、見続ける。
——拒絶するのではなく、判断するために。
吹雪は背筋を伸ばして歩き出す。
夜はまだ長い。
きっと明日も迷う。
それでも。
今日、自分は一つ選んだ。