葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
朝は、いつも通りに始まった。
それが一番不自然だった。
昨日の爆発。
未遂の破裂。
切断された配線。
それでも朝は来る。
それでも配膳の音は鳴る。
それでも味噌汁の湯気は上がる。
時雨は湯のみを持ったまま、湯気の揺れを見ていた。
(来たね)
紙はもう燃やした。
灰も流した。
証拠はない。
でも内容は消えない。
整備区画裏通路。単独で。
満潮が向かいでパンをかじる。
「眠そう」
「起きてるよ」
「目が夜」
「夜だったからね」
曙が横から言う。
「何かあった?」
一瞬だけ迷う。
でも決めている。
ここで嘘は使わない。
「後で言う」
曙はそれ以上聞かなかった。
そういう関係だ。
⸻
提督室。
紙の内容はすでに共有されていた。
時雨が差し出したのは“再現文”。
燃やしたあとで書き起こした。
白瀬はそれを三回読んだ。
長門が腕を組んでいる。
加賀は無言で壁のモニターを見ている。
「罠だな」
白瀬が言う。
長門が答える。
「誘い出しだ」
加賀が続ける。
「あるいは確認」
「何の」
「こちらの警戒度です」
白瀬は紙を机に置いた。
「乗る」
長門の口元がわずかに上がる。
「だろうな」
⸻
「単独で行かせる」
白瀬が言う。
「だが単独にはしない」
加賀が小さく頷く。
「当然です」
長門が言う。
「配置は」
白瀬が端末を回す。
裏通路の立体図。
配管。
梁。
影。
死角。
「ここに俺」
「ここに長門」
「上に――」
ノックなしでドアが開いた。
炎慈だった。
「俺らも入れろ」
白瀬は眉を動かさない。
「聞いてたな」
「全部な」
炎慈は笑わない。
「王が関わってる匂いがする」
長門が言う。
「今回は王は出さない」
炎慈が即答する。
「分かってる」
「だから俺が出る」
⸻
時雨は整備区画へ向かう廊下を歩いていた。
足音を消す歩き方は、もう癖だ。
誰にも教わっていない。
生き残るために覚えた。
角を曲がる。
誰もいない。
でも空気は重い。
金属の匂いが濃い。
油の匂い。
熱の残り。
裏通路へ続くドアの前で止まる。
手をかける。
(視線)
ある。
見えないけど分かる。
見られている。
時雨はドアを開けた。
⸻
裏通路は細い。
配管が壁を這っている。
照明は半分しか点いていない。
影が多い。
足音が反響する。
わざと反響させる。
“来た”と知らせるために。
通路の奥。
人影が一つ。
整備員の制服。
帽子。
影で顔は見えない。
「来たね」
男の声だった。
穏やかすぎる。
時雨は距離を測る。
間合い。
逃げ道。
上の梁。
死角。
全部、計算する。
「呼んだのはあなた?」
「そう」
「目的は?」
「確認」
「何の」
「どこまで気づいてるか」
時雨は笑った。
少しだけ。
「全部」
沈黙。
男が少しだけ肩を揺らす。
「強いね」
⸻
次の瞬間。
空気が変わった。
通路の上。
配管の影。
そこに“いる”。
時雨は視線を向けない。
でも分かる。
炎慈だ。
気配が熱い。
怒りを抑えた熱だ。
⸻
男が言う。
「取引しよう」
時雨は言う。
「無理」
「即答だ」
「当然」
男はため息をついた。
「王を渡せば」
言い切る前に、
壁に音。
ゴン。
男の視線がずれる。
一瞬。
その一瞬で、時雨は動いた。
距離を詰める。
腕を取る。
ひねる。
床へ。
だが――
反応が速い。
訓練されている動き。
整備員の動きではない。
炎慈が降りる。
音もなく。
影のように。
男の喉元に手をかける。
「喋るな」
低い声。
熱い声。
男の呼吸が止まる。
⸻
通路の反対側から足音。
白瀬と長門。
無言で来る。
銃口は下げたまま。
だが迷いはない。
白瀬が言う。
「顔を見せろ」
帽子が落ちる。
誰も知らない顔だった。
それが逆に確信になる。
「内部の人間じゃない」
長門が言う。
「入り込んだ」
炎慈が笑う。
冷たい笑い。
「釣れたな」
⸻
男は笑った。
喉を押さえられたまま。
「一人だと思うなよ」
白瀬が答える。
「思ってない」
炎慈が言う。
「もう一人いる」
空気が凍る。
時雨が振り向く。
「誰」
炎慈がゆっくり言う。
「“近い”やつだ」
⸻
通路の空気が重く沈む。
疑いは、次の段階に入った。