葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
捕えた男は、ほとんど喋らなかった。
いや――喋れなかった。
口を閉じているのではない。
閉じるように訓練されている沈黙だった。
医療区画の奥、臨時拘束室。
白い壁。
金属椅子。
固定具。
男はそこに座らされている。
視線だけが動く。
値踏みする目だ。
白瀬提督は真正面に座っていた。
机を挟まない。
距離を取らない。
逃げ道を作らない座り方。
「名前」
沈黙。
「所属」
沈黙。
「誰に雇われた」
沈黙。
白瀬は表情を変えない。
長門が壁際に立っている。
腕を組み、微動だにしない。
炎慈は扉の横にもたれていた。
目だけが熱い。
「喋らねえタイプか」
男は炎慈を見る。
一瞬だけ。
恐怖ではない。
計算の目。
炎慈が笑う。
「その目、嫌いじゃねえ」
長門が低く言う。
「遊ぶな」
「遊んでねえ」
炎慈は男に近づく。
机に手を置く。
少し前傾する。
「お前、一人じゃないだろ」
沈黙。
「もう一人いる」
男の呼吸が一瞬だけ変わった。
白瀬は見逃さない。
「やはりな」
男は笑った。
初めて。
「当ててみろ」
炎慈が答える。
「当てる必要ねえ」
「見つける」
⸻
拠点の空気は、目に見えない形で変わっていた。
誰も言葉にはしない。
だが距離ができている。
食堂の席が少し離れる。
工具の受け渡しが慎重になる。
雑談が減る。
笑いが小さくなる。
曙はそれが嫌だった。
嫌悪ではない。
分断の匂いがする。
トレーを持ったまま、立ち止まる。
どこに座るか迷っている自分に気づく。
(最悪)
こんなことで迷う自分が嫌になる。
満潮が手を振る。
「ここ」
いつも通りの声。
それだけで少し救われる。
座る。
パンをちぎる。
食べる気はあまりない。
満潮が小声で言う。
「疑ってる?」
曙は即答しなかった。
「……疑いたくない」
満潮が言う。
「でも警戒はする」
「うん」
二人とも視線を上げない。
上げると、周囲を見てしまうから。
見てしまうと、考えてしまうから。
⸻
ハヤトは桟橋にいた。
海を見ている。
風は弱い。
波も穏やか。
だが空気は静かすぎる。
背後に足音。
炎慈だ。
「表は俺が見る」
ハヤトは振り向かない。
「分かってる」
炎慈が言う。
「裏は?」
一拍。
沈黙。
ハヤトが言う。
「出す」
「誰」
「暗部」
炎慈の口元が少しだけ上がる。
「適任がいるな」
「いる」
名前はまだ言わない。
呼び方で分かる。
⸻
格納庫の影。
照明の届かない梁の上。
そこに、最初からいた。
狂禍は音を立てない。
呼吸も薄い。
気配を置かない立ち方。
人が見落とす場所に立つのが習性だ。
ハヤトが視線だけ向ける。
狂禍は降りない。
動かない。
だが分かる。
聞いている。
「一人いる」
ハヤトが言う。
「近い」
狂禍の目が細くなる。
「排除?」
「まだ」
「泳がせる」
狂禍は短く笑った。
「一番面倒なやつだな」
炎慈が言う。
「得意だろ」
「まあな」
⸻
狂禍は降りない。
梁の上から消える。
音もなく。
誰も気づかない。
見張りの駆逐艦も。
整備班も。
通信員も。
視界から抜ける動きだった。
⸻
提督室。
白瀬が言う。
「動かしたな」
ハヤトが答える。
「ああ」
長門が言う。
「見つかる」
「見つける」
言葉の違いは大きい。
白瀬が低く言う。
「捕らえたい」
ハヤトが言う。
「死ぬかもな」
「それでもだ」
「分かってる」
⸻
夜。
拠点の灯りが落ちる。
だが一部は落ちない。
監視灯。
非常灯。
整備灯。
その隙間を、影が一つ滑る。
狂禍だった。
止まる。
見る。
聞く。
匂いを取る。
油の匂い。
金属。
汗。
――緊張。
一つだけ違う。
嘘の匂い。
狂禍は笑った。
小さく。
「いた」