葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜は、完全には眠っていなかった。
拠点の灯りは落とされているが、
安全灯だけが廊下を薄く照らしている。
白ではない。
わずかに青みがかった光。
影が濃くなる色だ。
空調の低い唸りが続いている。
一定で、感情がない音。
だからこそ――
そこに混ざる“別の音”は目立つ。
狂禍は梁の上にいた。
鉄骨に背を預けるでもなく、
足をかけるでもなく、
体重を“置かない”姿勢で。
筋肉で固定している。
呼吸は浅い。
胸はほとんど動かない。
下を見る。
通路。
交差点。
監視カメラの死角。
光と影の境目。
(いる)
視線ではなく、感覚で拾う。
恐怖の汗の匂いではない。
緊張でもない。
もっと平坦な匂い。
隠そうとしている匂い。
狂禍はゆっくりと手を開閉した。
関節の動きすら音を立てない。
⸻
下の通路を一人の整備員が歩いている。
歩幅が一定すぎる。
軍人でも整備員でもない歩き方。
靴音が均一。
迷いがない。
だが――視線だけが動いている。
角。
扉。
非常灯。
反射面。
(癖が出てる)
狂禍の口元がわずかに歪む。
“普通の人間”は見ない場所を見る。
訓練者の目だ。
⸻
整備員は自販機の前で止まった。
小銭を入れる。
ボタンを押す。
缶が落ちる音。
拾う。
開けない。
持ったまま。
飲まない。
(飲め)
狂禍は心の中で言う。
飲まない理由がある。
口を使いたくない時だ。
毒を警戒しているのではない。
いつでも喋れる状態を保っている。
⸻
整備員が振り向いた。
何もない方向へ。
でも、見る。
空間を確認する。
“いるかもしれない場所”を見る。
狂禍は動かない。
動けば負ける。
見つからなくても、
“気配を感じさせた時点で負け”だ。
静止。
筋肉が焼ける。
でも動かない。
⸻
整備員が歩き出す。
角を曲がる。
狂禍は三秒待つ。
一秒では早い。
二秒では癖が出る。
三秒で追う。
梁から落ちる。
着地音はゼロ。
膝で吸収しない。
足裏で吸収する。
影の中だけを移動する。
⸻
整備員は裏倉庫の扉を開けた。
入る。
鍵は使っていない。
つまり――
鍵を持っている。
狂禍は扉の上へ回る。
枠に指をかけ、
体を水平に保つ。
中を覗く。
整備員は端末を出している。
個人端末ではない。
規格が違う。
軍支給でもない。
外部機材。
小型送信。
(当たり)
⸻
通信は短い。
文字入力。
音声ではない。
痕跡を残さない方法。
狂禍は指の動きを読む。
速い。
慣れている。
文節で打っている。
定型文ではない。
現地判断文だ。
(現場担当)
つまり――
ただの伝令ではない。
判断権を持っている。
⸻
整備員が入力を止めた。
顔を上げる。
振り向く。
直感だ。
人間の本能。
背中に視線を感じた時の動き。
狂禍は動かない。
瞬きもしない。
整備員は数秒見て、
何もないと判断した。
その判断が――命取りになる。
⸻
送信が終わる。
端末が消える。
ポケットへ。
その瞬間。
床に影が一つ増えた。
整備員が気づいた時には、
もう遅い。
喉元に手。
声帯の位置を正確に押さえる。
「声出すな」
囁き。
だが冷たい。
整備員の全身が凍る。
力の入れ方が違う。
殺せる力の押さえ方だ。
⸻
「誰の回線だ」
小声。
息が首にかかる距離。
整備員は黙る。
圧が増す。
気道が半分閉じる。
「誰の」
三秒。
沈黙。
四秒。
狂禍は力を抜いた。
一瞬だけ。
整備員が息を吸う。
その一瞬に言わせる。
「……中央」
答えた。
狂禍は笑った。
「正解」
⸻
背後で足音。
炎慈だ。
音を立てて来る。
わざとだ。
「ビンゴか」
「当たり」
炎慈が整備員を見る。
「こいつか」
狂禍が答える。
「一人目」
炎慈の目が燃える。
「まだいるな」
「いる」
狂禍は言う。
「近い」
⸻
整備員は動けない。
逃げられない。
影に捕まっている。
暗部に。