葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜は、優しくない。
拠点の照明が落ちたあと、残る光は機械の光だけだ。
人を安心させる光ではない。
機能だけの光。
その光の下では、感情は薄く見える。
⸻
裏倉庫の空気は、湿っていた。
段ボールと金属と薬品の匂いが混ざっている。
閉じた空間特有の、逃げ場のない匂い。
白衣の女は壁際に座らされていた。
手首は拘束されている。
だが縛り方はきつくない。
逃げられない程度。
痛めつけない程度。
それが逆に怖い。
狂禍は少し離れた位置に立っていた。
寄らない。
触らない。
距離を置く。
それは慈悲ではない。
対象を“道具”として見る距離だ。
女は泣き続けていた。
嗚咽を抑えようとしている。
声を出さないようにしている。
だが肩が震えている。
「……ごめんなさい」
何度目か分からない謝罪。
誰に向けた言葉かも分からない謝罪。
狂禍は答えない。
炎慈が壁にもたれて腕を組んでいる。
「どうする」
短い問い。
感情の色はない。
確認だけだ。
狂禍は端末を指で回した。
白衣のポケットから抜いた通信端末。
軽い。
だが価値は重い。
「使う」
炎慈は眉を動かさない。
「餌か」
「餌だ」
女の肩が跳ねた。
言葉は理解できた。
意味も。
顔が青ざめる。
「……え」
声が漏れる。
狂禍は視線を向けない。
説明もしない。
道具に説明は不要だ。
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女は必死に言葉を絞る。
「ま、待って……」
「私は、全部言った」
「もう協力する」
「だから――」
狂禍が初めて視線を向けた。
冷たい目だった。
感情がないのではない。
切り離している目だった。
「だから何だ」
女が言葉に詰まる。
助けて欲しいのだ。
だが言えない。
言えば命乞いになる。
それが分かっているから言えない。
狂禍が言う。
「お前はもう“線”だ」
「人間じゃない」
「網の一本だ」
その言葉は刃だった。
女の顔から色が落ちる。
炎慈が小さく息を吐いた。
だが止めない。
止める理由がない。
⸻
「連絡を続けろ」
狂禍が言う。
「同じように」
「同じ時間に」
「同じ癖で」
女が首を振る。
「無理……」
「疑われる」
「怖い」
狂禍が一歩近づいた。
足音はほとんどない。
だが圧が変わる。
空気が沈む。
「怖い?」
女が震えながら頷く。
狂禍は言う。
「いいことを教えてやる」
声は静かだ。
だが残酷だ。
「お前はもう、どっちに転んでも死ぬ」
女の呼吸が止まる。
涙も止まる。
時間が止まったような顔になる。
狂禍は続ける。
「敵にとっては“漏れた駒”だ」
「こちらにとっては“使い切る駒”だ」
「生き残る道はない」
「あるのは――」
端末を女の前に落とす。
「役に立つかどうかだけだ」
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沈黙が落ちた。
重い沈黙。
女の中で何かが折れる音がした。
見えない音。
だが確かに折れた。
「……分かった」
声が変わった。
泣き声ではない。
諦めの声でもない。
受け入れた声だ。
狂禍は頷く。
それでいい。
感情は不要。
機能すればいい。
⸻
炎慈が言う。
「最後は」
狂禍が答える。
「切る」
女の目が揺れる。
だがもう何も言わない。
言っても変わらないと分かった顔だ。
それでいい。
喰種のやり方だ。
⸻
提督室。
報告はそのまま上がった。
隠さない。
ぼかさない。
白瀬は最後まで聞いた。
長門は黙っている。
加賀も表情を動かさない。
白瀬が言う。
「非情だな」
炎慈が答える。
「喰種だ」
それで終わる言葉だった。
価値観が違う。
優先順位が違う。
守る範囲が違う。
長門が言う。
「止めないのか」
白瀬は首を振った。
「止める理由がない」
「今回は向こうの領分だ」
それが共同戦線の現実だった。
⸻
ハヤトは桟橋にいた。
炎慈が報告する。
「餌にする」
ハヤトは一言だけ答える。
「そうか」
止めない。
迷わない。
理由は単純だ。
敵だからだ。
炎慈がわざと聞く。
「甘くないな」
ハヤトが言う。
「敵にはな」
それだけだ。
王の判断は、いつも短い。
⸻
音羽は葵の横でそれを聞いた。
全部ではない。
だが意図は分かった。
「……使うんだ」
小さく呟く。
葵が見る。
「誰を?」
音羽は答えない。
言う必要がない。
葵も、もう分かっている。
守られる側にいると、
守る側の冷たさも見えるようになる。
葵は目を閉じた。
そして言った。
「それでいい」
音羽がわずかに驚く。
葵は続ける。
「中途半端が一番危ない」
「やるなら、やり切る」
その言葉は、震えていなかった。
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狂禍は歩いていた。
裏通路の影を滑る。
端末はすでに複製が終わっている。
通信ログ。
接続タイミング。
癖。
次の枝が見える。
補給ラインだ。
狂禍の口元がゆっくり歪む。
「次だ」
目が笑っていない。
だが口元は笑っている。
それは狩人の笑みだった。
「一本ずつ折る」
静かに。
確実に。
容赦なく。