※この作品はR-18です。

葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー   作:戌威

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第58話 静かな狩り

 

夜の空気は、薄く塩を含んでいた。

 

潮の匂いはいつもと同じ。

波の音もいつもと同じ。

けれど拠点の“中”だけが、別の呼吸をしている。

 

誰もが口にしない。

誰もが笑って見せる。

それでも――分かっている。

 

今夜、何かが折れる。

 

それが“敵”の骨なのか、

“味方”の心なのか、

まだ確定していないだけだ。

 

⸻

 

白衣の女は、医療区画の端の小部屋に戻された。

 

戻された、と言っても自由ではない。

扉の外に気配が二つ。

息の音は聞こえない。

床の軋みもない。

 

守りではない。

 

見張りでもない。

 

**逃げられないようにするための“配置”**だ。

 

女は椅子に座り、膝の上で手を組んでいた。

指先が白い。

爪が食い込む。

 

泣きたくても泣けない。

 

泣いたところで何も変わらないと、

すでに理解してしまっている。

 

机の上に端末。

画面は暗いまま。

そこに映る自分の顔が一瞬見えて、女は視線を逸らした。

 

(私はもう、線)

 

狂禍の言葉が、脳の奥で反芻する。

人間じゃない。

網の一本。

 

胸の奥が冷える。

 

その時、端末が震えた。

 

無音。

バイブレーションも最小。

気づく者だけが気づく揺れ。

 

女の喉が鳴る。

 

画面に短い通知。

 

“状況確認”

 

たった四文字が、鉛のように重い。

 

女は深く息を吸おうとして、途中で止めた。

深呼吸は音になる。

音は弱さになる。

 

指が震える。

 

返信文を打つ。

 

(いつも通り、いつも通り)

 

“問題なし。予定通り”

 

送信。

 

送った瞬間、体が少し軽くなった。

 

——違う。

 

軽くなったのではない。

落ちたのだ。

 

次へ進むために。

 

次へ進ませるために。

 

⸻

 

裏通路の暗がり。

 

狂禍は、その送信を“匂い”で見ていた。

 

送信ボタンを押す瞬間、人間の呼吸は一拍止まる。

それが匂いになる。

汗の出方が変わる。

心拍が跳ねる。

 

狂禍は梁の上で口元だけを歪めた。

 

「動いた」

 

隣にいる部下が頷く。

 

「返ってきた?」

 

「返ってきた」

 

狂禍は続ける。

 

「ここから先は、こちらの時間だ」

 

彼は声を大きくしない。

大きな声は“人間のやり方”だ。

 

冥焔連は違う。

 

狩りは、静かに進む。

 

⸻

 

補給庫。

 

昼間の帳簿ズレが“事故”として処理された場所。

 

夜の補給庫は暗い。

だが暗いほど、影がよく動く。

 

龍牙が表の警戒線を担当していた。

 

正門。

倉庫。

連絡通路。

見張りの艦娘たち。

 

彼は立つだけで空気を締めた。

視線を向けるだけで、人の歩幅が変わる。

 

吹雪が小声で言った。

 

「……怖がらせ過ぎじゃ」

 

龍牙は言う。

 

「怖がらせるのが仕事だ」

 

満潮が頷く。

 

「今はそれでいい」

 

曙は目を細めた。

 

怖がらせるべき相手は誰だ?

 

味方か。

敵か。

それとも――

 

“自分自身”か。

 

⸻

 

補給庫の裏手、通気口の影。

 

そこに狂禍の部隊が一人、潜んでいた。

静止のまま、何分も何時間も動かない。

 

動かないことが仕事だ。

 

“人間”は動く。

怖くなると動く。

確かめたくなると動く。

その動きを拾う。

 

そして——拾った瞬間、折る。

 

⸻

 

端末が再び震えた。

 

白衣の女の端末だ。

 

“証拠は残っていないか”

 

女の喉が詰まる。

 

(証拠)

 

爆破ドローン。

切断配線。

部品抜き。

 

全部、誰かがやった。

 

それが“自分の責任”に見える。

自分が中心。

自分が線。

 

女は返す。

 

“残っていない。こちらは安全”

 

送信。

 

送信後、女は目を閉じた。

 

(嘘だ)

 

安全ではない。

 

だが嘘を送るのは、相手のためではない。

自分を生かすためでもない。

 

相手を動かすためだ。

 

狂禍の望むように。

 

⸻

 

そのころ、白瀬提督は提督室にいた。

 

灯りは落としていない。

机の上に地図。

ピン。

通信ログの時刻。

 

長門が背後に立っている。

加賀は窓際。

 

全員、疲れているはずなのに、

疲れが表に出ない。

 

白瀬が言う。

 

「餌が動いた」

 

長門が言う。

 

「相手も動く」

 

加賀が静かに言った。

 

「葵の周辺に寄せてくる」

 

その名前が出た瞬間、空気が少し硬くなる。

 

白瀬は目を細めた。

 

「音羽は?」

 

加賀が答える。

 

「離れません」

 

⸻

 

廊下。

 

葵の隣には音羽がいた。

 

半歩。

 

いつでも腕が届く距離。

 

葵は歩きながら言った。

 

「……私、餌?」

 

音羽は即答しない。

 

葵が続ける。

 

「使われてる?」

 

音羽は呼吸を一つ置いてから言う。

 

「あなたは餌じゃない」

 

「なら」

 

「餌にされるのは、あなたの“周り”」

 

葵は足を止めた。

 

「……守らないんだね」

 

音羽は、葵の目をまっすぐ見た。

 

「守る」

 

「でも」

 

「守り方が、優しくない」

 

葵の喉が鳴った。

 

「冥焔連は、優しくない」

 

音羽は頷いた。

 

「敵には」

 

その言葉は、冷たかった。

 

冷たいけれど嘘ではない。

 

⸻

 

夜半。

 

補給庫の裏扉が、ゆっくり開いた。

 

鍵の音はしない。

 

鍵を持っているか、

鍵を開ける癖を知っているか。

 

中に入ってきた人影は二つ。

 

一人は整備服。

もう一人は軍の制服ではない。

 

“外”の匂いがする。

 

海風と、乾いた土の匂い。

拠点の中にはない匂い。

 

狂禍は梁の上で目を細めた。

 

(来た)

 

やっと来た。

 

中心が動いたあと、枝が動く。

枝が動いたら、幹が震える。

 

幹を狙うなら、今だ。

 

⸻

 

整備服の男が囁く。

 

「ここでいいのか」

 

外の男が答える。

 

「医務が安全と言った」

 

「……医務?」

 

「中心だ」

 

整備服が舌打ちする。

 

「中心なんて言い方すんな」

 

外の男が笑う。

 

「使うものは使う」

 

その言葉が、狂禍の背骨をぞくりと撫でた。

 

同類の匂いだ。

 

同類だからこそ、殺す。

 

⸻

 

外の男が言う。

 

「王の錨の女に触れる手は用意できた」

 

整備服が言う。

 

「医務が誘導する」

 

「確実か?」

 

「確実にする」

 

外の男が小さく息を吐く。

 

「なら、次は王だ」

 

「対策装備も届く」

 

整備服が笑う。

 

「クインケみたいなもんじゃねえけどな」

 

外の男が言う。

 

「威力は要らん」

 

「拘束が一瞬でも入ればいい」

 

会話が冷たい。

 

人の命が紙みたいに扱われている。

 

狂禍は、そこで初めて笑った。

 

薄い笑み。

 

“狩りの笑み”。

 

⸻

 

合図。

 

梁の影が増える。

 

音羽ではない。

龍牙でもない。

艦娘でもない。

 

冥焔連の影が、倉庫の入口を塞いだ。

 

逃げ道が消える。

 

逃げ道が消えたことに、二人は気づかない。

 

気づくのは、体が反射で動こうとした時だ。

 

「……?」

 

外の男が顔を上げた。

 

遅い。

 

狂禍が、静かに降りた。

 

着地音はない。

 

「遅い」

 

狂禍の声は小さい。

 

だが、倉庫の空気が一瞬で凍る。

 

整備服が叫びかける。

 

「誰——」

 

声が出る前に、喉元が止まった。

 

狂禍の部下が、影のように首筋を押さえた。

 

殺さない。

声だけを止める。

 

痛みが走る位置。

 

外の男が反射で後ろへ跳んだ。

 

だが背後にはもういない。

 

いないのではない。

 

背後そのものが“壁”になっている。

 

狂禍が言う。

 

「網の中心、踏んだな」

 

外の男が歯を食いしばる。

 

「……くそ」

 

「誰だ、お前ら」

 

狂禍は答えない。

 

名乗りは不要だ。

 

必要なのは結果。

 

外の男が手を伸ばす。

 

ポケット。

 

小型端末。

 

通信。

 

救援要請。

 

——送れない。

 

電波が死んでいる。

 

龍牙が表で張った警戒線が、

“外”の通信をすでに切っている。

 

外の男の目が揺れた。

 

初めて揺れた。

 

「……内部が、裏切った?」

 

狂禍は薄く笑う。

 

「裏切り?」

 

「違う」

 

「狩られただけだ」

 

⸻

 

整備服の男が震える。

 

目が泳ぐ。

 

罪悪感ではない。

 

計算が崩れた顔だ。

 

外の男が吐き捨てる。

 

「医務が嘘をついたか」

 

狂禍が言う。

 

「嘘をついたのはお前らだ」

 

外の男が息を吐く。

 

「……交渉しよう」

 

狂禍が首を傾ける。

 

「交渉?」

 

「情報を渡す」

 

「王の情報も」

 

狂禍の笑みが消える。

 

「要らない」

 

即答だった。

 

冷えた即答。

 

外の男が声を荒げる。

 

「ふざけるな!生き残りたいんだよ!」

 

狂禍は淡々と言う。

 

「生き残りたいのは、敵も同じだ」

 

「だから狩る」

 

外の男が叫ぶ。

 

「俺はただ命令で!」

 

狂禍が言う。

 

「命令で殺しに来た」

 

「なら命令で死ね」

 

その言葉は容赦がなかった。

 

⸻

 

倉庫の外。

 

巡回の足音が近づく。

 

艦娘たちの足音。

 

吹雪、満潮、曙。

 

音に気づいた曙が、倉庫の扉を見た。

 

違和感。

 

影の匂い。

 

言葉にできない不自然。

 

「……中、誰かいる」

 

満潮が即座に身体を低くする。

 

吹雪が唾を飲む。

 

「行く?」

 

曙は一拍置いて答える。

 

「——待つ」

 

「え?」

 

「今は、待つ」

 

声が震えない。

 

その震えない声が、吹雪の背筋を冷やした。

 

曙は感じていた。

 

中にいるのは“味方”だ。

でも、その味方は――

 

優しくない味方だ。

 

⸻

 

提督室。

 

白瀬の元に短い報告が入る。

 

「補給枝、確保」

 

白瀬は目を閉じない。

 

淡々と聞く。

 

長門が言う。

 

「これで網の中心は」

 

白瀬が答える。

 

「まだ残る」

 

「だが、幹は露出する」

 

加賀が低く言った。

 

「敵は焦ります」

 

「焦れば動く」

 

「動けば潰せる」

 

白瀬は椅子から立った。

 

「次は、幹だ」

 

⸻

 

拘束室。

 

白衣の女の端末が、今度は短く震えた。

 

“予定変更。単独で確認に来い”

 

女の喉が鳴る。

 

(来る)

 

幹が動く。

 

中心を疑って、幹が自分で確認に来る。

 

女は、端末を握りしめた。

 

指が痛いほど強く。

 

涙が出そうになる。

 

でも泣かない。

 

泣いたところで救われない。

 

救われないと分かっているから。

 

女は返信を打つ。

 

“了解。場所は——”

 

送信。

 

送った瞬間、女の肩が落ちた。

 

もう終わりだと思った。

 

——違う。

 

終わりではない。

 

終わらされるのだ。

 

⸻

 

廊下の影。

 

狂禍がそこにいた。

 

気配だけで存在が分かる。

 

女は顔を上げる。

 

「……来るって」

 

声が震える。

 

「来る」

 

狂禍は短く答えた。

 

女が言う。

 

「私、終わり?」

 

狂禍は笑わない。

 

「終わりだ」

 

女の瞳が揺れる。

 

「お願い、せめて——」

 

狂禍が言った。

 

「せめて、役に立て」

 

その言葉は慈悲でも希望でもない。

ただの指示だった。

 

女の心が完全に折れた。

 

折れたまま、立ち上がった。

 

折れた心でも歩ける。

冥焔連はそれを知っている。

 

だから使う。

 

⸻

 

そして——

 

静かな夜の中で、

最後まで何も言わなかった王が、初めて口を開いた。

 

桟橋。

 

海の前。

 

ハヤトは動かない。

 

炎慈が隣で言う。

 

「幹が動く」

 

「狂禍が仕留める」

 

「俺らも動ける」

 

ハヤトは海を見たまま、ゆっくり言った。

 

「——違う」

 

炎慈が眉を動かす。

 

「何が」

 

ハヤトの声が低く落ちる。

 

「幹を“捕る”だけじゃ足りない」

 

「根を抜く」

 

沈黙。

 

炎慈が笑う。

 

「やっと指示か」

 

ハヤトは初めて、明確に言葉を選んだ。

 

短く、冷たく、決定的に。

 

「狂禍」

 

遠くに届く声ではない。

だが、影の中に確実に届く声。

 

「——網を全部折れ」

 

「餌ごと、残すな」

 

その指示は、優しさを一切含まない。

 

ただの結論。

 

ただの“王命”。

 

冥焔連の狩りは、ここから本番になる。

 

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