葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜の空気は、薄く塩を含んでいた。
潮の匂いはいつもと同じ。
波の音もいつもと同じ。
けれど拠点の“中”だけが、別の呼吸をしている。
誰もが口にしない。
誰もが笑って見せる。
それでも――分かっている。
今夜、何かが折れる。
それが“敵”の骨なのか、
“味方”の心なのか、
まだ確定していないだけだ。
⸻
白衣の女は、医療区画の端の小部屋に戻された。
戻された、と言っても自由ではない。
扉の外に気配が二つ。
息の音は聞こえない。
床の軋みもない。
守りではない。
見張りでもない。
**逃げられないようにするための“配置”**だ。
女は椅子に座り、膝の上で手を組んでいた。
指先が白い。
爪が食い込む。
泣きたくても泣けない。
泣いたところで何も変わらないと、
すでに理解してしまっている。
机の上に端末。
画面は暗いまま。
そこに映る自分の顔が一瞬見えて、女は視線を逸らした。
(私はもう、線)
狂禍の言葉が、脳の奥で反芻する。
人間じゃない。
網の一本。
胸の奥が冷える。
その時、端末が震えた。
無音。
バイブレーションも最小。
気づく者だけが気づく揺れ。
女の喉が鳴る。
画面に短い通知。
“状況確認”
たった四文字が、鉛のように重い。
女は深く息を吸おうとして、途中で止めた。
深呼吸は音になる。
音は弱さになる。
指が震える。
返信文を打つ。
(いつも通り、いつも通り)
“問題なし。予定通り”
送信。
送った瞬間、体が少し軽くなった。
——違う。
軽くなったのではない。
落ちたのだ。
次へ進むために。
次へ進ませるために。
⸻
裏通路の暗がり。
狂禍は、その送信を“匂い”で見ていた。
送信ボタンを押す瞬間、人間の呼吸は一拍止まる。
それが匂いになる。
汗の出方が変わる。
心拍が跳ねる。
狂禍は梁の上で口元だけを歪めた。
「動いた」
隣にいる部下が頷く。
「返ってきた?」
「返ってきた」
狂禍は続ける。
「ここから先は、こちらの時間だ」
彼は声を大きくしない。
大きな声は“人間のやり方”だ。
冥焔連は違う。
狩りは、静かに進む。
⸻
補給庫。
昼間の帳簿ズレが“事故”として処理された場所。
夜の補給庫は暗い。
だが暗いほど、影がよく動く。
龍牙が表の警戒線を担当していた。
正門。
倉庫。
連絡通路。
見張りの艦娘たち。
彼は立つだけで空気を締めた。
視線を向けるだけで、人の歩幅が変わる。
吹雪が小声で言った。
「……怖がらせ過ぎじゃ」
龍牙は言う。
「怖がらせるのが仕事だ」
満潮が頷く。
「今はそれでいい」
曙は目を細めた。
怖がらせるべき相手は誰だ?
味方か。
敵か。
それとも――
“自分自身”か。
⸻
補給庫の裏手、通気口の影。
そこに狂禍の部隊が一人、潜んでいた。
静止のまま、何分も何時間も動かない。
動かないことが仕事だ。
“人間”は動く。
怖くなると動く。
確かめたくなると動く。
その動きを拾う。
そして——拾った瞬間、折る。
⸻
端末が再び震えた。
白衣の女の端末だ。
“証拠は残っていないか”
女の喉が詰まる。
(証拠)
爆破ドローン。
切断配線。
部品抜き。
全部、誰かがやった。
それが“自分の責任”に見える。
自分が中心。
自分が線。
女は返す。
“残っていない。こちらは安全”
送信。
送信後、女は目を閉じた。
(嘘だ)
安全ではない。
だが嘘を送るのは、相手のためではない。
自分を生かすためでもない。
相手を動かすためだ。
狂禍の望むように。
⸻
そのころ、白瀬提督は提督室にいた。
灯りは落としていない。
机の上に地図。
ピン。
通信ログの時刻。
長門が背後に立っている。
加賀は窓際。
全員、疲れているはずなのに、
疲れが表に出ない。
白瀬が言う。
「餌が動いた」
長門が言う。
「相手も動く」
加賀が静かに言った。
「葵の周辺に寄せてくる」
その名前が出た瞬間、空気が少し硬くなる。
白瀬は目を細めた。
「音羽は?」
加賀が答える。
「離れません」
⸻
廊下。
葵の隣には音羽がいた。
半歩。
いつでも腕が届く距離。
葵は歩きながら言った。
「……私、餌?」
音羽は即答しない。
葵が続ける。
「使われてる?」
音羽は呼吸を一つ置いてから言う。
「あなたは餌じゃない」
「なら」
「餌にされるのは、あなたの“周り”」
葵は足を止めた。
「……守らないんだね」
音羽は、葵の目をまっすぐ見た。
「守る」
「でも」
「守り方が、優しくない」
葵の喉が鳴った。
「冥焔連は、優しくない」
音羽は頷いた。
「敵には」
その言葉は、冷たかった。
冷たいけれど嘘ではない。
⸻
夜半。
補給庫の裏扉が、ゆっくり開いた。
鍵の音はしない。
鍵を持っているか、
鍵を開ける癖を知っているか。
中に入ってきた人影は二つ。
一人は整備服。
もう一人は軍の制服ではない。
“外”の匂いがする。
海風と、乾いた土の匂い。
拠点の中にはない匂い。
狂禍は梁の上で目を細めた。
(来た)
やっと来た。
中心が動いたあと、枝が動く。
枝が動いたら、幹が震える。
幹を狙うなら、今だ。
⸻
整備服の男が囁く。
「ここでいいのか」
外の男が答える。
「医務が安全と言った」
「……医務?」
「中心だ」
整備服が舌打ちする。
「中心なんて言い方すんな」
外の男が笑う。
「使うものは使う」
その言葉が、狂禍の背骨をぞくりと撫でた。
同類の匂いだ。
同類だからこそ、殺す。
⸻
外の男が言う。
「王の錨の女に触れる手は用意できた」
整備服が言う。
「医務が誘導する」
「確実か?」
「確実にする」
外の男が小さく息を吐く。
「なら、次は王だ」
「対策装備も届く」
整備服が笑う。
「クインケみたいなもんじゃねえけどな」
外の男が言う。
「威力は要らん」
「拘束が一瞬でも入ればいい」
会話が冷たい。
人の命が紙みたいに扱われている。
狂禍は、そこで初めて笑った。
薄い笑み。
“狩りの笑み”。
⸻
合図。
梁の影が増える。
音羽ではない。
龍牙でもない。
艦娘でもない。
冥焔連の影が、倉庫の入口を塞いだ。
逃げ道が消える。
逃げ道が消えたことに、二人は気づかない。
気づくのは、体が反射で動こうとした時だ。
「……?」
外の男が顔を上げた。
遅い。
狂禍が、静かに降りた。
着地音はない。
「遅い」
狂禍の声は小さい。
だが、倉庫の空気が一瞬で凍る。
整備服が叫びかける。
「誰——」
声が出る前に、喉元が止まった。
狂禍の部下が、影のように首筋を押さえた。
殺さない。
声だけを止める。
痛みが走る位置。
外の男が反射で後ろへ跳んだ。
だが背後にはもういない。
いないのではない。
背後そのものが“壁”になっている。
狂禍が言う。
「網の中心、踏んだな」
外の男が歯を食いしばる。
「……くそ」
「誰だ、お前ら」
狂禍は答えない。
名乗りは不要だ。
必要なのは結果。
外の男が手を伸ばす。
ポケット。
小型端末。
通信。
救援要請。
——送れない。
電波が死んでいる。
龍牙が表で張った警戒線が、
“外”の通信をすでに切っている。
外の男の目が揺れた。
初めて揺れた。
「……内部が、裏切った?」
狂禍は薄く笑う。
「裏切り?」
「違う」
「狩られただけだ」
⸻
整備服の男が震える。
目が泳ぐ。
罪悪感ではない。
計算が崩れた顔だ。
外の男が吐き捨てる。
「医務が嘘をついたか」
狂禍が言う。
「嘘をついたのはお前らだ」
外の男が息を吐く。
「……交渉しよう」
狂禍が首を傾ける。
「交渉?」
「情報を渡す」
「王の情報も」
狂禍の笑みが消える。
「要らない」
即答だった。
冷えた即答。
外の男が声を荒げる。
「ふざけるな!生き残りたいんだよ!」
狂禍は淡々と言う。
「生き残りたいのは、敵も同じだ」
「だから狩る」
外の男が叫ぶ。
「俺はただ命令で!」
狂禍が言う。
「命令で殺しに来た」
「なら命令で死ね」
その言葉は容赦がなかった。
⸻
倉庫の外。
巡回の足音が近づく。
艦娘たちの足音。
吹雪、満潮、曙。
音に気づいた曙が、倉庫の扉を見た。
違和感。
影の匂い。
言葉にできない不自然。
「……中、誰かいる」
満潮が即座に身体を低くする。
吹雪が唾を飲む。
「行く?」
曙は一拍置いて答える。
「——待つ」
「え?」
「今は、待つ」
声が震えない。
その震えない声が、吹雪の背筋を冷やした。
曙は感じていた。
中にいるのは“味方”だ。
でも、その味方は――
優しくない味方だ。
⸻
提督室。
白瀬の元に短い報告が入る。
「補給枝、確保」
白瀬は目を閉じない。
淡々と聞く。
長門が言う。
「これで網の中心は」
白瀬が答える。
「まだ残る」
「だが、幹は露出する」
加賀が低く言った。
「敵は焦ります」
「焦れば動く」
「動けば潰せる」
白瀬は椅子から立った。
「次は、幹だ」
⸻
拘束室。
白衣の女の端末が、今度は短く震えた。
“予定変更。単独で確認に来い”
女の喉が鳴る。
(来る)
幹が動く。
中心を疑って、幹が自分で確認に来る。
女は、端末を握りしめた。
指が痛いほど強く。
涙が出そうになる。
でも泣かない。
泣いたところで救われない。
救われないと分かっているから。
女は返信を打つ。
“了解。場所は——”
送信。
送った瞬間、女の肩が落ちた。
もう終わりだと思った。
——違う。
終わりではない。
終わらされるのだ。
⸻
廊下の影。
狂禍がそこにいた。
気配だけで存在が分かる。
女は顔を上げる。
「……来るって」
声が震える。
「来る」
狂禍は短く答えた。
女が言う。
「私、終わり?」
狂禍は笑わない。
「終わりだ」
女の瞳が揺れる。
「お願い、せめて——」
狂禍が言った。
「せめて、役に立て」
その言葉は慈悲でも希望でもない。
ただの指示だった。
女の心が完全に折れた。
折れたまま、立ち上がった。
折れた心でも歩ける。
冥焔連はそれを知っている。
だから使う。
⸻
そして——
静かな夜の中で、
最後まで何も言わなかった王が、初めて口を開いた。
桟橋。
海の前。
ハヤトは動かない。
炎慈が隣で言う。
「幹が動く」
「狂禍が仕留める」
「俺らも動ける」
ハヤトは海を見たまま、ゆっくり言った。
「——違う」
炎慈が眉を動かす。
「何が」
ハヤトの声が低く落ちる。
「幹を“捕る”だけじゃ足りない」
「根を抜く」
沈黙。
炎慈が笑う。
「やっと指示か」
ハヤトは初めて、明確に言葉を選んだ。
短く、冷たく、決定的に。
「狂禍」
遠くに届く声ではない。
だが、影の中に確実に届く声。
「——網を全部折れ」
「餌ごと、残すな」
その指示は、優しさを一切含まない。
ただの結論。
ただの“王命”。
冥焔連の狩りは、ここから本番になる。