葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
その日の執務室は、いつもより静かだった。
書類をめくる音も、ペンが紙を擦る音も、やけに大きく響く。
白瀬提督は机に肘をつき、深く息を吐いた。
「……長門、吹雪。座ってくれ」
長門は一礼して椅子に腰を下ろし、吹雪は少し緊張した様子でその隣に座った。
吹雪の指先が膝の上で強く握られているのを、提督は見逃さなかった。
「今日は、あの件について話したい」
それだけで、二人は理解した。
――倉庫で起きた、あの出来事。
侵入者。
そして、ハヤト。
「まず吹雪。昨日の巡回、何を感じた?」
唐突な問いだった。
吹雪は一瞬言葉を失い、視線を落とす。
「……正直に、言っていいですか?」
「構わない」
少し間を置いて、吹雪は口を開いた。
「怖かったです」
即答だった。
「侵入者が、じゃありません。
……ハヤトさんが、です」
長門の視線が、静かに吹雪へ向けられる。
「でも、それだけじゃありません」
吹雪は胸の前で拳を握りしめた。
「怖かったのに……
“何をされるか分からない”って思ってたのに……
何も、されなかった」
言葉を探すように、吹雪は少し天井を見上げる。
「それが……一番、怖かったんです」
白瀬提督は黙って頷いた。
急かさない。
「侵入者の人……最初は怒ってました。
艦娘は兵器だ、戦争を呼ぶ存在だって……」
吹雪の声が、少しだけ震える。
「でも、ハヤトさんを見た瞬間……
あの人、言葉が崩れたんです」
目を見開き、喉が鳴る音がはっきり聞こえた。
吹雪はその瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
「“何だお前は”って……
怒りじゃなくて、混乱でもなくて……
純粋な、恐怖でした」
沈黙が落ちる。
「ハヤトさんは……何もしてませんでした」
吹雪は、はっきりと言った。
「近づいてもいない。
触れてもいない。
声も、荒げていない」
ただ、そこに立っていただけだ。
「なのに……
侵入者は、自分で崩れていきました」
吹雪は、そこで言葉を切った。
「……それが、ただの怪物のやり方だとは、思えなかったんです」
白瀬提督は、長門に視線を向けた。
「長門。お前はどう見た?」
長門は少し考え、ゆっくりと口を開く。
「私も同じ結論だ」
即断だった。
「力で抑えることは出来た。
威圧すれば、膝をつかせることも容易だったはずだ」
だが、そうしなかった。
「彼は……
恐怖を“操作”しなかった」
この言葉に、吹雪が顔を上げる。
「操作しなかった。
むしろ……引き受けた」
長門は腕を組み、低く続ける。
「侵入者が向けていた恐怖、怒り、拒絶。
それらを全て、自分一人に向けさせた」
だから、艦娘には一切向かなかった。
「葵に向けさせなかった」
ここで、白瀬提督が静かに言葉を挟む。
「……それは、彼にとって有利な行動か?」
二人とも、首を横に振った。
「違います」
吹雪が答える。
「恐怖を全部引き受けたら、
嫌われるのは自分だけです」
長門も頷く。
「信頼を得るには、最も遠い選択だ」
それでも、彼はそれを選んだ。
執務室の空気が、少しだけ重くなる。
「提督」
長門が続ける。
「私は……昨夜、別の場所で同じ“違和感”を感じた」
吹雪の表情が強張る。
「場所は?」
「南側外周。旧整備通路付近だ」
そこは、昨日の倉庫とは全く関係のない地点だった。
「だが、感覚は同じだった」
長門は目を細める。
「音が研ぎ澄まされ、
気配が歪む」
「……誰か、いましたか?」
吹雪の問いに、長門は首を振る。
「何もいない。
だが、“あった”」
言い切る。
「そこには、誰かの恐怖が残っていた」
白瀬提督は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり……
特定の個体じゃない」
「はい」
長門は断言する。
「違和感の正体は、生き物ではない。
敵意でもない。
――人の恐怖、そのものだ」
吹雪は、はっとした。
「じゃあ……
あれは、また起きる……?」
「起きる」
長門は否定しない。
「人が恐れ、選択を誤れば」
執務室に、沈黙が落ちる。
白瀬提督は、机の上に置いた報告書を見つめた。
「……ハヤトは、そのことに気づいているな」
「え?」
吹雪が思わず声を上げる。
長門も、静かに頷いた。
「気づいている。
だから、動かない」
排除すれば、恐怖は増幅する。
力を見せれば、別の形で歪む。
「彼は、選ばせている」
長門は言った。
「艦娘が。
人が。
自分の恐怖と、どう向き合うかを」
吹雪は、胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「それって……
すごく、残酷じゃないですか……」
答えを急かすように、言葉が零れる。
「何もしないって……
怖いまま、考え続けろってことですよね……」
白瀬提督は、帽子を取って机に置いた。
「そうだ」
否定しない。
「だが……
それをやらなければ、俺たちはまた同じことを繰り返す」
“分からないものを、排除する”
“怖いものを、無かったことにする”
「彼は、それをさせないために立っている」
怪物として。
「……ただの怪物じゃ、ありませんね」
吹雪が小さく呟いた。
長門も同意する。
「怪物であれば、
もっと簡単な方法を取る」
だが彼は、最も厄介で、最も苦しい道を選んだ。
白瀬提督は立ち上がる。
「第6警備記録には、こう記す」
二人は背筋を伸ばす。
「――“対象は危険である。
しかし、排除すべき存在ではない”」
そして、一拍置いて続けた。
「“人の恐怖が生む歪みを、力でなく選択で止めた”」
吹雪は、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。
「……提督」
「なんだ」
「私……まだ、怖いです」
正直な言葉だった。
「でも……
逃げるのは、違う気がします」
長門が、吹雪を見る。
「それが、選択だ」
誰かに強制されたものではない。
自分で選んだ、一歩。
執務室を出た後、吹雪は廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
遠く、警備区画の影。
そこに、ハヤトが立っていた。
誰とも話さず、誰にも近づかず。
ただ、鎮守府を見渡している。
視線が、一瞬だけ合う。
吹雪は、迷った末に――
小さく、だが確かに、敬礼した。
ハヤトは、何も言わない。
ただ、わずかに頭を下げた。
それだけだった。
だが吹雪は、はっきりと感じていた。
――これは、選択だ。
恐怖から目を逸らさない、という選択。
そして、その恐怖が、いつか形を持つ時。
その時、誰が動くのか。
まだ誰も知らない。
だが確かに、
“何か”は、もう動き始めていた。