葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
戦闘が終わった直後の拠点は、音が足りなかった。
さっきまで鳴っていた銃声も、爆発の衝撃も、走る足音も——全部が急に消えて、代わりに残ったのは、波の音と、金属が冷えていく音だけだった。
潮の匂いに、焦げた絶縁材の匂いが混ざっている。
油と火薬と、汗。
それらが夜気に薄く溶けて、廊下の隅にまで残っている。
吹雪は、正門から少し離れた通路の角で、立ち尽くしていた。
倒れている兵士は動かない。
死んでいるわけではない。
息はある。
ただ、もう戦えない。
それが怖かった。
殺されていないのに、終わっている。
血がほとんど出ていないのに、完全に終わっている。
「……これが、狩り」
口に出した自分の声が、やけに乾いて聞こえた。
隣で満潮が短く息を吐く。
「言い方、合ってる」
吹雪は唇を噛んだ。
「でも……ひどいよ」
満潮はすぐには答えない。
視線を兵士から逸らさず、少しだけ間を置く。
「ひどい」
それから、淡々と言った。
「でも、こっちが倒れてたら、もっとひどい」
言葉の意味は理解できた。
それでも、心が追いつかない。
吹雪は肩を震わせた。
怒りではない。
恐怖でもない。
——混乱だ。
そこへ曙が来た。
走ってきたわけではない。
歩幅を崩さず、息も乱さず、いつもの顔で。
でも目だけが冴えている。
「……吹雪」
呼ばれて、吹雪はようやく息をした。
「曙……」
曙は倒れている兵士を見て、視線をわずかに細めた。
「殺してない」
満潮が頷く。
「うん」
曙の声が低くなる。
「殺さない方が怖いって、どういうことよ」
誰も答えない。
答えがないからではなく、
答えた瞬間に、何かが壊れる気がしたからだ。
⸻
通路の奥から、足音が近づく。
金属音のしない歩き方。
軍靴の響きでもない。
艦娘の足音でもない。
炎慈だった。
血の匂いを纏っているのに、表情が軽い。
戦闘後の高揚ではない。
作業を終えた後の顔だった。
「終わり終わり」
誰に言うでもなく、そう言って、炎慈は倒れている兵士をまたいだ。
吹雪の喉が鳴る。
「……平気なの?」
炎慈が足を止める。
振り向いた。
赫眼は閉じている。
だが目は、熱を完全に消していない。
「何が」
「……こういうの」
吹雪は言葉を探した。
「人を……」
炎慈が笑った。
「人?」
その笑いは嘲りではない。
確認の笑いだ。
「お前らは優しいな」
曙が噛みつく。
「優しいんじゃない。普通なの」
炎慈は肩をすくめる。
「普通は状況次第だ」
「俺らは、状況で変わらねえ」
満潮が言う。
「敵には容赦しない」
炎慈が指を鳴らした。
「そう、それ」
そして、吹雪を見て言った。
「安心しろ。お前らに手は汚させねえ」
吹雪が息を呑む。
その言葉が、優しさに聞こえてしまったことが怖い。
⸻
補給庫側の通路では、龍牙が立っていた。
さっきまで戦っていたはずなのに、
服の乱れがほとんどない。
呼吸も落ち着いている。
ただ、目だけが冷たい。
吹雪が思わず言った。
「……もう終わったの?」
龍牙が答える。
「終わった」
「増援は」
「折った」
「……そんな簡単に」
龍牙は首を傾ける。
「簡単ではない」
「当然だ」
その“当然”が、兵器みたいに聞こえる。
曙が龍牙を見る。
「あなたたちって、怖い」
龍牙が曙を見返す。
「怖がれ」
「怖がるべき相手を間違えるな」
曙の口が閉じた。
怖がるべき相手。
敵か。
喰種か。
自分の中の迷いか。
⸻
医療区画。
葵は、椅子に座ったまま、背中を壁に預けていた。
音羽が隣にいる。
距離は半歩。
いつもと同じ距離。
だが今夜は、その半歩が鉄壁に見えた。
廊下の向こうで、足音が止まるたびに、
音羽の視線が動く。
葵はその視線の速さに、胸がざわついた。
「……音羽」
「何」
「怖い?」
音羽は即答しない。
呼吸を一つ置く。
「怖い」
葵が目を見開く。
音羽は続ける。
「怖いから、守る」
「怖いから、見落とさない」
葵は笑いそうになって、笑えなかった。
「……私、狙われてるんだよね」
音羽が頷く。
「狙った代償を払わせる」
葵が呟く。
「代償って、何」
音羽は葵を見る。
「あなたが想像するより、酷い」
葵は目を閉じた。
胸の奥で、何かが冷えていく。
(守られるって、こういうことなんだ)
⸻
提督室。
白瀬提督は立ったままモニターを見ていた。
映像は断片だ。
廊下のカメラ。
倉庫のカメラ。
正門のカメラ。
そこに映るのは、倒れた兵士、歪んだ盾、撃ち尽くされた弾倉。
そして——喰種たちの、淡い笑み。
長門が低い声で言う。
「対策装備が、役に立っていない」
加賀が言う。
「拘束が保持できません」
「弾が止められています」
白瀬は椅子に座らなかった。
座ったら、判断が鈍る気がした。
「想定が甘い」
言葉にすると、簡単だ。
だが、簡単で済ませていい現実ではない。
長門が言う。
「艦娘を出すべきだ」
白瀬は息を吐く。
「……出したい」
本音だった。
守りたい。
鎮守府を守るのは艦娘だ。
それがこの世界の常識だ。
だが——
白瀬はモニターの中の深赫を見た。
桟橋で、仁王立ちしていた影。
弾を受けてなお、腕を組んで笑っていた影。
白瀬は静かに言う。
「出せない」
長門が眉を動かす。
「なぜだ」
白瀬は答える。
「ハヤトが拒否した」
「手を汚すのは自分たちで十分だと」
加賀の目が細くなる。
「……守るための拒否ですか」
白瀬は苦く笑った。
「そうだろう」
「守るやり方としては、あまりに酷い」
「非人道的だ」
長門が言う。
「だが守られている」
白瀬は、その言葉に頷くしかなかった。
だから、自分に言い聞かせる。
(これは、あいつらなりの守り方だ)
(俺たちの倫理で裁けるものじゃない)
言い聞かせることでしか、立っていられなかった。
⸻
一方、中央管制棟の会議室は、静まり返っていた。
冷たい照明。
椅子の並び。
スクリーンに映る戦闘記録。
深赫が映る。
弾が止まる。
拘束が裂ける。
兵が倒れる。
誰も言葉を発さない。
参謀の一人が、唇を震わせた。
「……対策装備が」
技術主任が言い訳のように言う。
「赫子特効など、存在しない」
「火力で——」
榊原が叩く。
机を。
音が響く。
「火力が意味を持っていない!」
久我が笑う。
「だから言っただろ」
「制御が必要だってな」
榊原が睨む。
「今さらだ」
「次の手を出す」
顧問が低く言う。
「大規模投入か」
榊原は迷いなく頷いた。
「投入する」
「数で押す」
「拘束を重ねる」
「拠点ごと制圧する」
若い士官が言った。
「……それは、戦争です」
榊原が言い切る。
「最初から戦争だ」
「向こうが“狩り”を始めた」
「ならこちらは“殲滅”を始める」
久我が口角を上げる。
「殲滅ねえ……王は殺すなよ」
榊原が言う。
「殺さない」
「奪う」
「女もだ」
その瞬間、空気が歪んだ。
“女”と言った時の軽さが、全員に伝わったからだ。
顧問が言う。
「……標的にするのか」
榊原が言う。
「錨だ」
「錨を抜けば王は動く」
若い士官が小さく言う。
「……愚かだ」
榊原は聞こえないふりをした。
⸻
桟橋。
ハヤトは海を見ていた。
深赫が隣に立つ。
炎慈が少し後ろにいる。
空気が静かに整っている。
深赫が言う。
「上が動く」
炎慈が笑う。
「数が増える」
ハヤトは答えない。
だが、深赫は分かる。
王の中で何かが動いている。
それは怒りではない。
怒りの形をした、決定だ。
⸻
その時、狂禍の声が無線に入った。
落ち着いている。
「中央、動いた」
「大規模投入の準備」
炎慈が舌打ちする。
「来るな」
深赫が言う。
「来る」
ハヤトは、そこで初めて視線を上げた。
海ではなく、拠点の方向へ。
「……葵を標的にした」
声は低い。
深赫が黙る。
炎慈も笑わない。
その言葉が、命令より重いと分かったからだ。
ハヤトが続ける。
「代償を払わせる」
それは宣言ではない。
事実だった。
⸻
拘束室。
捕えられた敵兵の一人が、通信端末の前に座らされていた。
両腕は固定されている。
口は塞がれていない。
喋らせるためではない。
映すためだ。
カメラが起動する。
赤いランプが点く。
通信が繋がる。
中央管制棟の会議室。
スクリーンに映像が映る。
最初に映ったのは、拘束された兵士の顔。
青ざめている。
汗が光る。
次に映ったのは——
影。
王。
ハヤト。
⸻
会議室が凍った。
榊原が立ち上がる。
「……何だ、これは」
久我が笑う。
「来たな」
顧問が息を呑む。
若い士官が震える。
映像の中の王は、カメラをまっすぐ見ていた。
目は赫眼ではない。
だがそれが逆に怖い。
理性のまま、ここにいる。
そして王の隣。
深赫が腕を組んで立っている。
動かない。
笑みだけがある。
⸻
ハヤトは、淡々と言った。
「葵を標的にしたな」
榊原の喉が鳴る。
「貴様——」
言いかけた言葉が、続かなかった。
王の目が、声を奪う。
ハヤトは続ける。
「代償は払ってもらう」
沈黙。
会議室の誰も声を出せない。
出せば、殺される気がした。
実際に殺されるわけではない。
——だが、心が先に折れる。
ハヤトは言った。
「安全な場所など無い」
一拍。
「俺達はどこにでも行ける」
その言葉は脅しではない。
宣戦布告でもない。
現実の説明だった。
⸻
スクリーンの向こうで、誰かが息を呑む音がした。
その瞬間。
深赫が、ゆっくり笑った。
不敵に。
まるで言う。
“理解したか?”
⸻
白瀬提督は、提督室でその通信を見ていた。
長門も、加賀も、黙っている。
白瀬は、胸の奥が冷えるのを感じた。
(これが王か)
守り方が酷い。
非人道的だ。
否定したい。
でも——
葵が標的にされた事実がある。
それに対して、王は“代償”を提示した。
それは、抑止になる。
守りになる。
白瀬は自分に言い聞かせた。
(守り方は違う)
(だが守りだ)
(俺たちは、それを見届けるしかない)
唇が苦くなる。
それでも視線は逸らさない。
指揮官として、見届ける。
⸻
通信が切れた。
会議室の空気が崩れる。
榊原が叫ぶ。
「大規模投入を前倒し!」
「今すぐだ!」
久我が笑う。
「追い詰めたな」
顧問が低く言う。
「……追い詰めたのは、こちらか?」
誰も答えない。
答えは、スクリーンに残った赫眼の残像が知っている。
⸻
桟橋。
ハヤトは、海を見たまま、動かない場所へ戻った。
深赫が隣に立つ。
炎慈が後ろで言う。
「来るぞ」
ハヤトは短く答えた。
「来い」
その声は、静かな殺意を含んでいた。