葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
夜の巡回は、昼よりも神経を使う。
灯りの届かない場所が増え、
音は小さく、影は濃くなる。
「……正門側、異常なし」
無線にそう告げながら、吹雪は足を進めた。
周囲には、同じ班の艦娘達。
そして、少し距離を取るように——ハヤト。
会話は、ない。
だが、不思議と“無視されている”感じもしなかった。
ただ、こちらが踏み込めていないだけだ。
倉庫側に近づいた時だった。
「……?」
胸の奥が、ひやりとした。
理由は分からない。
音も、動きもない。
でも——いる。
「……長門さん」
小さく声を出した、その直後。
ハヤトが、一歩前に出た。
吹雪の前に立つ形で。
その背中を見た瞬間、
なぜか呼吸が楽になった。
——いた。
倉庫の影から、人影が現れる。
男。
服装は民間人。
目は血走り、呼吸が荒い。
「……誰だ」
長門が声を張る。
だが男は、聞いていなかった。
視線は、ハヤトだけを捉えていた。
「……なんだよ、それ……」
掠れた声。
一歩、また一歩と近づく。
「動かないでください!」
吹雪が叫ぶ。
男は、止まらない。
「……近づくな!」
その叫びと同時に、
男の手が跳ね上がった。
ナイフ。
刃が、一直線にハヤトの首元へ向かう。
「——っ!!」
吹雪の声は、間に合わなかった。
刃が、皮膚に触れた。
ぎ、と嫌な感触。
だが——刺さらない。
男が目を見開く。
「……は?」
力を込める。
両手で押し込もうとする。
それでも、進まない。
「な……なんで……」
ハヤトは、動かなかった。
無表情のまま、
男の手首を掴む。
強くない。
だが、逃げられない。
「……捨てろ」
低く、淡々とした声。
男が、笑ったような声を漏らす。
「は……?
なに、言って……」
震え始める手。
「……聞こえなかったか」
ハヤトは、目を伏せて男を見下ろす。
「その刃を、捨てろ」
「……っ、ふざ、けるな……!」
男は、必死に刃を動かそうとする。
だが、手首は動かない。
「な、なんだよ……
化け物か……?」
その言葉に、
吹雪の胸が締め付けられた。
ハヤトは、表情を変えない。
「……そうだ」
短く、肯定する。
男の呼吸が、一気に乱れた。
「……っ、来るな……!
近づくな……!」
「近づいていない」
事実だけを告げる。
「……俺は、ここに立っているだけだ」
「う、嘘だ……
刺さって、ない……
血も、出てない……」
男の視線が、刃先と首元を行き来する。
「……それが、現実だ」
ハヤトは静かに続ける。
「選べ」
「……は……?」
「捨てるか。
それを持ったまま、ここに居るか」
男の喉が鳴る。
「……持ったまま、だったら……?」
「何もしない」
「……は?」
「だが」
一拍置いて。
「その恐怖は、消えない」
男の手から、力が抜けた。
ナイフが、地面に落ちる。
乾いた音。
「……っ、あ……」
男は、崩れ落ちるように座り込んだ。
ハヤトは、手を離す。
「……それでいい」
その一言だけ残して、
一歩下がった。
沈黙。
誰も、すぐには動けなかった。
「……確保する」
長門の声で、現実が戻る。
男は、抵抗しなかった。
連行される途中、
男は一度だけ振り返った。
ハヤトと、目が合う。
「……っ」
言葉にならない声を漏らし、
男は視線を逸らした。
巡回が再開される。
誰も、軽口を叩かなかった。
吹雪は、ハヤトを見た。
無表情。
何もなかったかのように、前を向いている。
——違う。
確かに、
“選ばせていた”。
力ではなく。
恐怖を押し付けるでもなく。
ただ、選択肢を突きつけただけ。
「……」
吹雪は、口を開きかけて、閉じた。
まだ、言葉が追いつかない。
だが一つだけ、はっきりしている。
——あの侵入者は、
二度と、刃を向けない。
殺される恐怖よりも、
“触れてはいけないものに触れた”という恐怖の方が、
深く、重く残るから。
夜が、少しずつ明けていく。
吹雪は空を見上げた。
怖い。
それでも——
目を逸らしてはいけない気がした。