葵が笑う世界で ー王と提督は、ただ1人を守る為にー 作:戌威
取調室は、静かだった。
壁は無機質な灰色。
小さな机と椅子が二脚。
照明は必要最低限。
男は椅子に座っていた。
両手は膝の上。
拘束具は、付けていない。
それでも、逃げる気配はなかった。
「……体調は?」
白瀬提督が静かに問いかける。
男は一瞬、視線を上げ、すぐに逸らした。
「……大丈夫、です」
声は掠れている。
震えてはいないが、張りもない。
長門は男の様子を一瞥し、椅子に腰を下ろした。
「氏名と所属を」
「……山岸 恒一。
所属……特に、ありません」
「動機は?」
その問いに、男は少しだけ沈黙した。
「……艦娘、です」
短い答え。
「艦娘がいるから、深海棲艦が来る。
艦娘がいるから、戦争になる。
……そう、思ってました」
白瀬提督は、何も否定しない。
「だから侵入した?」
「……はい」
「武器を持ち込んだ理由は?」
男の喉が鳴る。
「……怖かったから、です」
「何が?」
しばらく、沈黙。
やがて男は、絞り出すように言った。
「……分からない“何か”が、いた」
長門の視線が鋭くなる。
「喰種のことか?」
男は、首を横に振った。
「……名前は、知らない。
正体も、分からない」
白瀬提督が問いを重ねる。
「では、何が怖かった?」
男は、ゆっくりと息を吸った。
「……近づいたら、
“終わる”気がした」
その言葉に、長門の眉が僅かに動く。
「終わる、とは?」
「……殺される、とかじゃない」
男は、自分でも説明に困っているようだった。
「……もっと、別の……
触れちゃいけないものに、触る感じです」
白瀬提督は、静かにメモを取る。
「ナイフを向けたな」
男の肩が、びくりと跳ねた。
「……はい」
「刺そうとした」
「……はい」
「だが、刺さらなかった」
男は、強く目を閉じた。
「……はい」
長門が、低い声で言う。
「その時、何を感じた」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと零す。
「……“ああ、終わった”って」
「刺さらなかったのに、か?」
「……はい」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「刺さらなかったから、です」
白瀬提督と長門は、黙って聞いている。
「力を入れても、
刃が、皮膚に“入らない”」
「なのに、
目だけは、ずっと、こっちを見てた」
「怒っても、いなかった」
「……軽蔑も、してなかった」
男の声が、少し震える。
「ただ……
“現実”を見せられてる感じでした」
長門が問う。
「現実?」
「……自分が、何をしてるのか。
どこに立ってるのか」
「それで?」
男は、苦笑のような表情を浮かべた。
「……“選べ”って、言われました」
白瀬提督が視線を上げる。
「選択肢を与えられた、と」
「はい」
「捨てろ、って」
男は、膝の上の手を見つめる。
「……不思議なんです」
「普通なら、
殴られても、撃たれても、
おかしくなかった」
「でも、何もされなかった」
長門が、静かに言う。
「生かされた、と?」
男は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「それが、怖かった」
白瀬提督が、少し間を置いて尋ねる。
「なぜだ?」
男は、すぐには答えなかった。
しばらく考え、言葉を選ぶ。
「……殺されるより、
ずっと、重い」
「“自分で選んだ”って、
残るから」
沈黙。
取調室の空気が、重く沈む。
長門が腕を組む。
「では聞こう」
男は、顔を上げた。
「今も、同じ考えか?」
——艦娘が戦争を招く、という考え。
男は、すぐには答えなかった。
だが、やがて首を振る。
「……分からない、です」
「でも……」
視線が、揺れる。
「少なくとも、
“あれ”を怪物だとは、
もう言えません」
白瀬提督が、静かに言う。
「理由は?」
男は、はっきりと答えた。
「怪物なら、
選ばせない」
「怪物なら、
恐怖を利用する」
「……でも、あれは」
男は、少しだけ言葉を詰まらせる。
「……恐怖を、
“返してきた”」
長門が、ゆっくり息を吐く。
白瀬提督は、立ち上がった。
「君の処遇については、
上に報告する」
「だが一つ、覚えておいてほしい」
男は、顔を上げる。
「生かされた事実は、
逃げ場にはならない」
「同時に、
君が選び直す余地でもある」
男は、深く頭を下げた。
「……はい」
取調室を出て、廊下を歩く。
白瀬提督は、帽子を押さえながら言った。
「……厄介だな」
長門は、短く応じる。
「力があるだけなら、
対処は簡単だ」
「だが……」
白瀬提督は頷く。
「“選ばせる存在”は、
恐れられる」
長門の視線が、遠くを見る。
「それでも、
我々は共に在ると決めた」
「恐怖を理由に、
切り捨てることはしない」
白瀬提督は、静かに笑った。
「……胃が痛くなるな」
「今に始まったことではない」
二人は、歩き続ける。
取調室の向こうで、
男は一人、椅子に座ったまま、
自分の手を見つめていた。
そこに、血はない。
だが——
“触れてはいけないものに触れた感覚”だけが、
深く、消えずに残っていた。