救済の鎖 ―Property of Nao― ~レズの魔の手に堕ちる王子様~ 作:嫌われた勘のいいガキ
登校前、凛は鏡の前で自分の表情をチェックする。
「よし⋯⋯」
1ミリの乱れもないネクタイ、完璧な角度の微笑み。それは凛という少女が、恋人のために作り上げた「最高の王子様」という名の仮面だ。 彼女にとって制服は自分のブランドを守るための鎧であると同時に、律するための拘束具でもあった。
私立○○高校、特進クラス。偏差値70を超える才女たちが集うその教室において、凛は一つの完成された「象徴」だった。
短く切り揃えられた黒髪は、窓から差し込む陽光を透き通るように反射している。仕立ての良いブレザーをシワひとつなく着こなし、一番上のボタンまで完璧に留めたその姿は、周囲の喧騒を寄せ付けない静謐な気品を纏っていた。
「凛さん、この問題の解法なんだけど⋯⋯」
「ああ、ここは公式をそのまま当てはめるより図形として捉えるといいよ。⋯⋯ほら、僕が隣で見てるから、もう一度やってごらん」
淀みのない回答と、年相応の少女らしからぬ落ち着いた微笑。特進クラスの静謐な空気の中で、凛が放つ言葉は一種の磁力を持っていた。
教えられた同級生が顔を赤らめて俯く。周囲の席からも、勉強に集中しているふりをしながら凛に視線を送る女子生徒たちが、熱っぽい吐息を漏らした。凛の存在は、もはやクラスの「人気者」という枠を超えていた。
そんな凛にとってスマートフォンの向こう側にいる「静香さん」は、実の両親や教師よりも信頼できる理解者だった。
やり取りが始まったのは中学生の頃。周囲に言えない同性への恋心に悩んでいた凛を救ったのが、ネットで出会った静香だった。
「女の子を好きになるのは、とても尊いことよ」――その言葉にどれほど救われたか分からない。 奈緒への告白を迷っていた時も「凛ちゃんなら大丈夫、自信を持って」と背中を押してくれたのは静香だった。おかげで奈緒と恋人になれた。今の幸せがあるのは、すべて静香さんのおかげだと言っても過言ではない。
だが付き合えて一歩進んだからこそ新たな、そしてより切実な悩みが凛を支配していた。
凛:「静香さん、こんばんは。⋯⋯あの、例の件なんですけど。やっぱり僕、情けないです。奈緒と付き合えて一ヶ月経つのに、まだキス止まりで。それも、軽いものだけで⋯⋯」
画面の向こうで静香が優しく微笑んでいるのが目に浮かぶような、穏やかな返信が届く。
静香:「こんばんは、凛ちゃん。焦らなくていいのよ。二人のペースがあるんだから。でも、凛ちゃんの中では『もっと先に進みたい』っていう気持ちが強くなっているのね」
凛:「はい。⋯⋯静香さんからのお話を聞いてネットで動画とか記事とか、色々と調べて知識だけは詰め込みました。僕はタチだから、奈緒をリードして、あの子が経験したことないくらい気持ちよくさせてあげたいんです。でも、いざとなると手が震えちゃいそうで。もし失敗して、奈緒にガッカリされたらって思うと⋯⋯」
凛はベッドの上で奈緒と繋いだ手の感触を思い出す。可憐で守ってあげたくなる幼馴染。
告白したとき「私の王子様」と言って胸に飛び込んできた喜び。
自分は彼女にとって、常に格好いい王子様でいたい――否、いなければならない。その強迫観念に近いプライドが、未経験の凛を追い詰めていた。
静香:「ふふ、真面目ね。凛ちゃんは責任感が強いから。でも、知識と実践は別物よ。指の角度ひとつ、愛撫の強弱ひとつで、女の子の反応は劇的に変わるの。中途半端な知識で彼女を傷つけてしまうのが一番怖いわよね?」
凛:「⋯⋯っ、はい。それが一番怖いです。奈緒に痛い思いをさせたり、変な空気にしたくないんです」
静香:「だったら、一度私のところに来てみない? 中学生の頃からずっとお話してきた仲だもの」
凛:「えっ、直接⋯⋯? 静香さんに、会えるんですか!?」
憧れの恩人に会えるかもしれないという喜びが胸に広がる。今まで何度もこうしたやり取りや通話を繰り返してきたが、静香と直接会ったことはない。自分も高校生になったことだし、もし会えるなら会いたいという気持ちが凛の中に沸き上がった。
静香:「それと⋯⋯もしよければ私が直接、手取り足取り教えることも出来るわ。これでも経験豊富でね、私なら凛ちゃんを『最高のタチ』にしてあげられる」
(えっ⋯⋯?)
静香からの提案を画面上で見つめたまま、凛の指は凍りついたように止まった。
「直接、教える」――。 それはつまり、奈緒以外の女性の前で裸になり、その身体に触れ、あるいは触れられることを意味する。
凛:「⋯⋯でも、それって。奈緒以外の女の人と、そういうことをするってことですよね? 相談に乗ってもらうのはいいけど、実際に会って教えてもらうなんて⋯⋯。奈緒に申し訳ないっていうか、なんだか裏切っているみたいで⋯⋯」
凛の胸を焼くのは純粋な罪悪感だった。奈緒は今頃、自分のことだけを想って眠りについているかもしれない。そんな彼女に隠れて大人の女性と密室で――勉強と言えど、性的な接触を持つ。それは常識的な倫理観を持つ凛からして「NO」といえる行為だった。
しかし、静香は凛の性格を完全に見抜いていた。彼女はあえて突き放すような、だが慈愛に満ちた言葉を重ねる。
静香:「よく考えて凛ちゃん。貴女が感じているのは罪悪感? それとも、自分の無力さから逃げたいだけ? 厳しいことを言うようだけど、今の貴女が奈緒ちゃんに触れても、彼女を本当に満足させることはできない。それは『優しさ』ではなく、貴女の『準備不足』で彼女を失望させているのと同じことなのよ」
「⋯⋯っ!」
静香:「これは遊びじゃない。奈緒ちゃんを一生大切にするための、真剣な修行。スポーツ選手がコーチにフォームを直してもらうのと同じ。プロの指導を受けずに自己流でやって、彼女に一生『物足りない』と思いながら過ごさせる⋯⋯。それが凛ちゃんの思う『誠実さ』なのかしら?」
「失望」と「無力」。凛が最も恐れている言葉が、静香の言葉の端々に鋭く仕込まれていた。
(僕が、奈緒を失望させている⋯⋯?)
凛は思い出す。キスをした時、少しだけ物足りなそうに、でも無理に微笑んでくれた奈緒の瞳を。実際に奈緒がどう思っていたかは分からない。全て被害妄想かもしれない。でも、もしあの微笑みが、僕を傷つけないための「演技」だったとしたら?
自分が未熟なせいで、奈緒に「女の子としての最高の喜び」を教えられない。もしこのまま月日が流れ、奈緒が「凛ちゃんとのエッチは、あんまり気持ちよくないな」と心のどこかで思ってしまったら? そして、自分より上手い誰かに彼女の心が移ってしまったら?
「⋯⋯っ。嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ」
凛の独占欲と完璧でありたいというプライドが罪悪感を薄れさせていく。 これは浮気じゃない。奈緒を守るための避けては通れない「修行」なんだ。このまま一人で悩んでいても、奈緒を幸せにはできない。
凛:「⋯⋯静香さん。僕、分かりました。今のままじゃダメだって。⋯⋯奈緒を誰よりも幸せにできるのは、世界中で僕だけでありたいんです。そのために必要なことなら⋯⋯お願いします」
罪悪感を「使命感」という歪んだ形に変換し、凛は自ら逃げ道を塞いだ。
静香:「ええ、その意気よ。凛ちゃん。貴女のその強い愛があれば、きっと奈緒ちゃんを満足させてあげられるわ。週末、ここで待っているわね。当日は、私の信頼しているパートナーも手伝ってくれるから、安心して」
その言葉とともに静香から住所が送られてきた。凛はスマートフォンの明かりを消すと暗闇の中で、奈緒の写真をそっと撫でる。
「ごめんね、奈緒。でも全て奈緒のためなんだ。いつか絶対に僕が君を最高に幸せにしてあげるから」
凛はそう自分に言い聞かせた。