蛇神の退魔巫女が妖馬に敗れ繁殖嫁として永遠に囚われる話 作:巻浦 遊航
朝霧に包まれた山奥に、静かに佇む神社がある。
石段を登りきった先、霊脈の真上に建てられたその社は、結界に守られ、外界からは見えない。
そこはただ一柱の白き蛇神を祀るためだけに存在する、聖域だった。
社務所の襖が、まだ朝日も届かぬ時間帯に静かに開く。
「おはようございます、白蛇様。お身体に変わりはありませんか?」
柔らかな声とともに姿を現したのは、一人の巫女。
艶やかな黒髪が背中を流れるように伸び、白い肌に紅の唇が浮かぶ。
目元は涼しげで、どこか儚さを感じさせる、和の美しさをそのまま体現したような女性だった。
名は椿。
蛇神と契りを交わし、幾度も転生を繰り返してこの神社を守ってきた、唯一無二の“蛇の巫女”。そして蛇神の伴侶でもあった。
彼女は今日も、何の変化もない静かな朝を、いつも通りに始める。
本殿の奥、一段高く設えられた神床に、音もなく白く滑らかな影が現れる。
一メートルほどの白蛇――この神社の主であり、椿の伴侶である蛇神が、ぬるりと姿を見せた。
「今日は少し冷えますね。あなたの好きな石を温めておきました」
椿は手のひらほどの平たい石を懐から取り出し、座布団の上にそっと置く。
蛇神はすぐにするりと身体を這わせ、温もりを感じるようにその上でとぐろを巻いた。
言葉は交わさない。だが、椿はその仕草ひとつで、蛇神が「心地良い」と思っていることを感じ取る。
椿の一日は、社の掃除、供物の準備、結界の点検など、細やかな神職の務めで埋まっている。
だが、彼女にとってはそれらすべてが、愛しい“日常”だった。
社務所の机に腰を下ろし、筆を取る。
今日の記録をつけるためだ。霊脈の状態、供物の反応、蛇神の気配。
本来であれば霊力の流れを正確に知覚するのは不可能に近いが、転生を繰り返し膨大な霊力と経験を持つ彼女には、難しいことではない。
迷いなく筆を動かし、一息ついたところで椿は微笑む。
「ふふ、そんなに見つめても、今日のおやつはまだ早いですよ?」
背後に感じた視線にそう呟けば、白蛇の頭がぴくりと動く。
しゅるりと近づき、椿の手元に顎を乗せてくる仕草は、まるで恋人に甘えるようだった。
「…本当に、変わらないですね。ずっとずっと、こうやって寄り添ってくれて」
指先がそっと、蛇神の頭を撫でる。
冷たい鱗の感触さえ、椿にとっては“ぬくもり”だった。
「この手が、あなたに触れられるたび、私はちゃんと、ここに戻ってきたんだなって思えるんです」
一人と一柱の間に流れる穏やかでやわらかい時間、それが椿にとって何よりも幸せであった。
この日も、変わらぬ一日が静かに過ぎていくはずだった。
だが、境内にて掃き掃除をしている椿の耳に小さな鈴の音が響く。
それは結界に何者かが触れた合図であった。
カァァー!!、鋭く烏の鳴き声が境内へと響く。
椿はすぐに結界を一部開き、烏を招き入れる。
「退魔協会からの使いですね」
その烏の足には、魔除けの印がついた小さな袋が結びつけられていた。
この瞬間から、椿の“日常”は終わりを告げる。
巻物を解いた瞬間、椿の眉が僅かに動いた。
細筆で丁寧に書かれた文字列。その奥ににじむ焦り。
(――妖馬)
それはただの妖ではない。
過去に椿が相打ちとなった、輪廻に刻まれた因縁の存在だった。
『西方区画・十三番にて妖馬出現
上級退魔巫女含め多数負傷により戦線離脱
霊脈の守護に深刻な影響あり
蛇の巫女に出陣を要請する』
椿は添えられていた黒く硬い毛を指先で持ち上げた。
微かに残る霊力を探り確信する。
(やっぱり、あの時の妖馬ですか)
椿が妖馬と相対したのは、前世でのこと。
退魔巫女として戦い、命を犠牲に退けた。
そして、今。再び姿を現したという事実。
不意に背後の気配が動いた。
椿が振り返ると、白蛇の姿が、すでに目の前にいた。
「先達として後輩を守るのも務めです」
蛇神は静かにとぐろを巻いたまま、椿の顔を見つめている。
目を細めるでもなく、威圧するでもなく、ただそこに“居る”というだけ。
けれど、それが何よりも深い、心配の意志を伝えていた。
「それに私は退魔巫女として身を捧げると決めて生きていますから」
椿は穏やかに、けれど強い決意をもって蛇神に話しかける。
「ちゃんと、帰ってきます。今までもそうだったように。
私の魂は、必ずあなたのもとに還る。約束いたします」
白蛇は音もなく身を伸ばし、椿の頬に顔を寄せる。
冷たく、優しいその触れ方に、椿は目を伏せた。
出陣の準備は迅速に進められた。
普段、背に流していた黒髪を緋色の紐で高く結い上げる。
装束も変わる。
日常の柔らかな巫女服から、霊布で織られた退魔装束へ。
白と紅のあわいが凛々しく、戦支度の椿をいっそう際立たせた。
身長一六三センチ、和装のよく映える細身の体。
けれどその中に宿る霊力は、退魔巫女たちの中でも群を抜いていた。
彼女の歩んだ転生の年月、そのすべてがこの身に宿っている。
死に至る敗北も輪廻転生を繰り返す椿にとっては糧にしかならない。
かつての妖馬を思い出しながら呪符と道具を選定していく。
夕刻。
結界の門の前に、白蛇の姿があった。
椿が最後に立ち寄る場所。
何度も繰り返した別れの儀式。
「行ってきます、白蛇様」
そう言って、椿は静かに白蛇の頭に触れる。
「どれだけ遠くへ行っても、何度死んでも、
私の魂は――必ずあなたの元へ帰ってきますから」
一瞬、白蛇が身体を伸ばした。
椿は目を閉じ、微笑んだ。
その微笑みは、神のためだけに捧げられる、巫女としてではなく伴侶としての愛情だった。
椿はゆっくりと白蛇に顔を近づけ何か囁いた。
それは蛇神の本当の名――伴侶である椿しか呼ぶことを許されない神名。
そして椿は、境界を越えていく。
しかし、椿自身は気づいていなかった。
これが本当に“最後の別れ”になることを――。